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4章 邂逅

 苦しそうな女の息は、夜になると一段と激しくなる。一体何日こうしているだろう。このままでは女が持たない。と言ってどうすればいいか分からない。みんな目を伏せてただうろうろと女の周りを歩いている。安産の護符も、呪物も部屋中に所狭しと置いてある、貼ってある。裕福ではないができるだけのことはしてやろうとしている。医者も魔法使いもここにいる。だが、出産はいつまで経ってもやってこない。もう一週間近くこうして苦しんでいる。女の声ももう涸れ果て、声にならずかすかな吐く息だけになっている。夜になるたび、女は出産間近といきみ、苦しむのだが、陣痛はこない。いやずっと陣痛なのか。

 と、突然、声などもう出るはずのない女の喉から張り裂けるような悲鳴がし、同時に破水して寝台はびしょ濡れになった。まるで噴水を横にしたような破水だった。その時、ドアが吹き飛ぶほどの勢いで開き、別の魔法使いが現れた。まっすぐ寝台に向かい、女の股の間を確認すると、来ていたマントを近くの椅子に投げ出すように掛ける。横のテーブルに数種類の薬と見たこともないような器具を手早く並べる。早く湯を持ってこい。新たな湯を沸かせと叫ぶと女の股の間に手を入れて何か処置をしている。呆然としていた人々がハッと我に返って動き出した。誰も魔法使いを不審に思わない。任せておけば大丈夫とばかりに、彼を中心にして、動いている。彼の指示を待っている。

 夜明け近くに消え入るような赤子の泣き声が聞こえ、魔法使いがどっと椅子に腰を落とした。母親と赤子の命はひとまず救われた。

 しかし、母子ともに昏睡状態で数日が経つ。二人とも時々意識を取り戻しては、赤子は乳を飲む。あるいは飲ませる。母は傍らにいる魔法使いに「ありがとうございます」と絶え絶えの息のうちに礼を言う。そしてまた意識を失う。二人につききりで魔法使いが看病、介護をする。そして数週間が過ぎて、容体が安定した。まだ二人とも予断を許さない状態ながら、数日前の事を考えると奇跡のようだった。赤子はまだ元気に泣けないが、かすかな息の中で生きている。

 さらに数か月が経ち、母は上体を、人の手を借りてだが起こせるようになった。赤子はまだ、声を出せないが、瞼がぴくぴくと動いている。さらに数か月、お産から半年ほど過ぎて、母は何とか話せるようになった。赤子は母から乳を飲めるほどになっていた。

「ありがとうございます。」という礼を今まで母は何度言っただろう。まずこの言葉からでないと、魔法使いには、何も言えない。なぜこれほどの親切、いや親切なんてものじゃない、恩を施してくれたのか、いくら尋ねても魔法使いは、話が長くなる、もう少ししたら話そうと言うばかりだった。そして、何とか介助の上で、母が立てるまでになり、赤子も弱弱しくも泣けるようになった時、母は、魔法使いに予言と祝福を求めた。いずれの魔法使いであっても、お産を介助した時、その生まれた子供から見える未来を伝え、適切な助言をし、悪や魔に煩わされぬよう、寿ぐのが慣例になっている。魔法使いも未来が予知できるほどのものはそうおらず、いささか形式になっていたが、この魔法使いは本物で、さぞ素晴らしい予言をしてくれると思いきや、

「残念ながら、この子からは何も見えないのです。」という言葉が返ってきた。意外な言葉に「えっ」と思わず声が出た。「ではこの子に未来はないと」という母に魔法使いは、

「いえ、未来がないのではなく、見えないのです。

 私には未来が見える。すべてが見えたように適っていく。そんな運命とでもいうのだろうか、予定された未来の中でそれでも自分の手で何かを成し、開拓していこうという人々を見てきました。しかし、いくらあがいても運命はある。例えば、いくら頑張っても人はいつか死ぬ。そんな中、私は時々、ある地点で未来が揺らいで見えなくなることがあることに気づいたのです。頭の中の地図の、ある箇所が薄く黒く濁ってしばらく不鮮明になる。それは運命の外の者、妖とか霊である場合もある。しかしそれらも運命を変えるほどの力はない。定まった運命をわずかに揺する程度かな。そんなものにも頼ってみようと思った時もあった。わずかでも結集させれば運命の外に出られるかもしれない。人が本当に自分の力で未来を切り開けることができるかもしれない。しかし、それは無理だった。妖、霊そのものが運命の一部でしかないのだから。

 そんな時、それらとは全く違う黒点に気づいたのです。ずっと正体が掴めなかったその黒点とは、赤子だったのです。

 時々、運命の外で生まれる子がいるらしい。彼らは運命の埒外から生まれる。だから育っていけば、予定されている世界の運命が変わる。いや、そんな彼らだって人だから死ぬでしょう。でも、もしかしたら、死なない人になるかもしれない。それは分からない。だって見えないのだから。

 黒点の彼らがどうなるか、それは誰も知らない。なぜなら、私の知っている限りで、その黒点は誰も生き延びなかったから。生まれる前に流産する、生れても死産、あるいは数日で死ぬ。運命が彼らを殺す。だって彼らは運命の中にいないのだから。

 私は魔法使いになって、様々を見て運命から逃れる方法を考え、黒点に気づいてから世界を周りました。私の頭の中の地図に黒点が浮かぶたび、そこに駆け付けました。しかし、何時も運命の方が一足早かった。遭遇できませんでした。しかしついに、今、出会うことができた。この子が運命の外にいる子です。」

「では、一体この子はどうなるのでしょう? 」

「まったくわかりません。この子を見ても黒い霧に覆われて何も見えない。たぶん、この子はこれからも命を落とす危険に付きまとわれるでしょう。病気、事故、犯罪、偶然がこの子を襲う。」

「この子を守ってやってください。」母は思わず魔法使いの手を取って握りしめた。

 魔法使いはその家に住み着き、医療を始めた。近所の、調子が悪いという者に薬を与える。よく効く薬は評判を呼び、診察も始める。とにかく腕がいい。遠くからも人はやってくる。町の奥まった、町を囲っている壁のために日当たりの良くない場所で、ひっそりと暮らしていたこの家族の家に、訪れる人が後を絶たなくなった。貯えもできた。王宮からも使いが来たが、魔法使いはここを動かなかった。ひたすら子どもの傍におり、寄り添った。子どもに降りかかりそうな災厄は魔法使いが前もって手を打った。子どもの未来は分からなくても、子どもを害する者の動きは見える。天変地異なら感じられる。子どもが三つになるころまで何事もなく過ぎた。

 そしてある朝、魔法使いは子どもと姿を消した。家の者は総出で子どもと魔法使いを捜したが、二人はどうやら町を出たようだった。何がどうなっているのか分からず、途方に暮れている家の者たちだったが、隣家に住む老人がその夜、吐血した。続いて周りの家の者たちが次々吐血してあっという間に亡くなっていった。瞬く間にこの病気は町全体に広がり、生き残れたのはおよそ、四人に一人というありさまだった。子どもの家の者はすべて亡くなった。魔法使いがしたのではないかと噂が立った。魔法使いは子どもに執心だった。子どもをかどわかしたのではないか。真実は誰にも分からなかった。

 その頃、魔法使いと子どもは街を遠く離れ、旅の途中にあった。ほどなく二人は、ある一団と巡り合った。彼らは二百人から成る集団で、村を捨てて放浪しているということだった。集団と一緒に彷徨いながら、しばらくして魔法使いはリーダーらしい男と話をする機会を得た。

 村に激しい日照りが起こり、農作物はほぼ全滅となった。明日からどうしたらいいか分からない、今までどおり多くの餓死者が出て、生き残った者がまた何もなかったかのように今まで通りの生活を始める。そしてまた日照りや水害が起こる。

 村のある男が村を出ようと叫んだ。その男は仕事をせずに人からの喜捨で生活していた。幼い頃に親を亡くし、憐れんだ村の者たちが何かと世話を焼いて、その年になった。幼い頃は周りの家の小さなことを何かと手伝って食べ物などを得ていたのだが、年頃になって定まった仕事に就くこともなくふらふらと村やその周辺を歩いては、人に食べ物をたかるようになっていた。困ったものだと言いながら村の者はどうしようもなく、その男を捨てておいたのだが、今回日照りで穀物が全滅し、皆が空を仰いて絶望していた時、しばらく姿を消していたその男がひょっくりと村に舞い戻り、このはるか先に水源地がある。そこは平原で、中央から水が湧き出ている。しかもそこには誰も住んでいない。毒の水かと飲んでみたが、この通りぴんぴんしている。さあみんな、そこに移り住もう。今まで散々迷惑をかけた。こんな時のために俺はいろいろ旅をして、移り住める地を捜していたんだ。今回、それが見つかって急いで村に帰ってきたらこのありさまだ。いい機会だ。みんな俺についてこい。

 絶望しきった人々に彼の話は甘い蜜の味だった。しかし、話がうますぎる。希望と猜疑の狭間で揺れる村人だったが、まず若者たちが反応した。将来のないこんな村にいられるか。どうせ死ぬなら、賭けようじゃないか。若者に従うもの、村に残る者と村は割れた。しかし、どうしようと考える間も与えず、男は出発した。それに遅れまいと従う村の若者がいた。旅に出ると他の村々から同じように、男に従う者が合流する。どの村も限界だった。集団は膨れ上がっていく。ある時、野盗の群れに襲われた。素手に近い集団だったが、数が優った。初め腰が引けて震えているような集団だったが、薄ら笑いを浮かべてにじり寄ってくる野盗の威圧に耐えられず飛び出した若者が、その手にした棒で野盗を打ったところ、野盗はあっけなく腰を付き、そのまま打ち据えているうち、周囲の若者も同調して野盗を攻撃し、気が付けば、野盗の屍が辺りに散らばっていた。どうやら彼らは人を狩っていたらしく村人の群れを生け捕りにするつもりだったようだ。こんな荒野になぜ野盗がいたのか。村人の群れをどこかで見て追跡してきたのか。疑惑が群れを率いていた男に向いた時 、リーダーが立ち上がった。

 あのままだと、まず男が血祭りにあげられた後、誰のせいだと仲間割れが起こるに決まっている。みんな人のせいにしたがるんだ。いつも誰かのせいでこんなことになると叫ぶ。それをきっかけに、みんながそうだそうだと生贄を捜す。いつもそうだ。だから、夢をでっち上げた。昨夜夢を見た。こんこんと湧き出る水源に我らは立ち、皆が笑顔で開墾に携わる夢だ。今までの夢と違ってとてもリアルだったのだ。そして、その目的のためにいくつかの苦難を用意している。それを乗り越えた者のみが夢を手にすると言う声が聞こえた。今まで神なんて我々の前に現れたことなどなかったぞという者がいたが、いや、今こそ神が現れたのかもしれない。現に野盗を撃退できたではないか、我々にこんな力があるなど、今までなら、絶対信じられなかった。と違う者が言った。村を出発して数か月になる。ほとんどの者が脱落して親戚を頼ったり、村に戻った。新たに加わった者は食詰め者と、訪れた村の次男三男それ以下の者だ。グループの性質が変わっていた。若者たちの希望の旅だ。それは、そんなものがないと分かると野盗に豹変する危うい群れだ。

 ここ数年の天変地異で野盗の群れは増えている。ここに今、新たな野盗が組まれても生き延びるのは至難の業だ。野盗は食い合う。我らを襲った奴らと大差ない。我らが生き延びる方法は、野盗働きではなく希望だ。群れを率いているリーダーは熱く語った。それは魔法使いの助力を乞ってもいたのだった。しかし、魔法使いは曖昧な態度を取るだけだった。

 私は見ての通り、子どもを連れている。実はあの子は特別な子供なのだ。私は自分の存在全てを賭けてあの子を守り、育てねばならない。悪いが助力はできない。ただ、一緒にいる間だけなら、できる限りの助言をしよう。医術等の技も使い、必要なら伝えようと言った。リーダーは魔法使いの手を強く握り、感謝の言葉を伝えた。

 こうして魔法使いと子どもは群れに入って共に旅を続けた。荒野に出れば魔法使いが水や、食べられる植物のある箇所を教える。町やオアシスへあるいは、うまく野盗と出会わぬ道順を指示するなどしてリーダーとの約束を守った。

 参考までにお聞きしたいとリーダーは、魔法使いに旅の経験を尋ね、それにまつわることどもも語ることがあった。

 私をあまり過信しないでほしい。私は運命の担い手でも創造者でもない。ただ運命を見る者でしかない。人に会うたび、その人の未来が見える。あまりに残酷で残念であり、それを変えようとしたことが何度もある。本人に知らせたこともある。しかし、運命は変わらない。知らせればそれまでが運命の一コマであった。私はただ、沈黙するしかなくなったのだ。この児はそんな運命に左右されない、運命の外にいる児なのだ。この児からは未来が見えない。何も見えない。この児は自由なんだよ。私は偶然この児と巡り合った。この児を守ろうとした。この児が三つの時、居住していた街を疫病が襲うと知った。私は誰にも知らせず、この児を連れて、黙ってその街を去った。多くの者が亡くなり、事前に去った私が疫病を流行らせたということになった。王は私に追手を放った。私たちは貴方の一団に紛れることで王の眼を掻い潜り、また移動ができた。私がここにいるのはそういうことなのだよ。

 そうして一団と魔法使いは大陸を東へ東へと旅した。徒歩で、大所帯であり、荷物も多い。行程ははかどらず、何度も仲間割れがあり、四分五裂した。大量の流出者が出て、大量の流入者を受け入れる時もあった。魔法使いは身近な食べ物、飲み物、怪我人や病人の手当て、道に迷った時の助言はしたが、目標や到達点については何も言わなかった。魔法使いは運命の傍観者でなくてはならなかった。

 魔法使いが一団と合流して十年以上の歳月が経っていた。そしてある日、魔法使いは児とともに姿を消した。荒野の真ん中であり、人々は二人を捜したが、見つからなかった。リーダーはただ一言

「つまりこの一団は、そういうことか」とつぶやいたのみだった。

 魔法使いと児は大陸で最も賑わっている街に来ていた。児はもう十四歳になっていた。その児は魔法使いに言った。

「私はこの街の大学に入りたいと思います。あなたから最新の学問の数々を旅の上で教えていただきました。これからはそれを基礎にして、自分でその先を組み立てていきたいのです。幸い、この街の大学は大陸でも最先端です。女子の入学も許されています。神学からも自由です。どうか、許可を願います。」

 そういう児に、魔法使いはただ笑って、自分一人で大学の門の前から去っていった。その児は踵を返して門の中に入っていく。


 竜の魔法使いは深山を分け入り、急峻な崖を登り、先ほど頂上近くの洞穴に達した。見下ろすと雲海がたなびき、はるかかなたに町が見える。ぽっかり空いた穴の中では火が焚かれている。彼はそこを尋ねるためにここまでやって来た。そこにいる者を知っているとも言えるし、知らないとも言える。魔法使い自身、今ここにいるとも言えるし、実は町の喧騒の中、片隅でうずくまり、自分の頭の中に深く潜っているともいえる。目の前では、穴蔵の中の焚火と行きかう人の足の両方が見えている。火の向こうにいるのは、影だ。闇とも黒い霧とも煙とも言える。

「ひさしぶりだな。」とその靄は言った。「あれからどれほど経ったのだろう。アサリア王からもう6代になる。」

「あなたはいつも近くにいましたよね? 」

「ああ、だが、こうやって話すのは、あの日浄化? 漂白? 昇天? 以来だ。」

 二人は話をどう続けたものかとしばらく沈黙した。やがて魔法使いが口を開いた。

「あなたは、竜、そして運命、我々が言う神とか、そのようなものですよね? 一体あなたは何なのです。なぜ、あの時突然現れ、当然、いなくなってしまったのです? 」

「私の正体については気づいているのだろう? 」

「ええ、この世の澱みとか、穢れというものですね。」

「澱み、穢れとは? それは混沌ということだ。未来が明確でなくなった時、この先が混沌とし、澱みとなる。

 アサリア王が全国を平定し、文字、長さの単位、価値の単位、時間の単位、重さの単位その他をすべて統一した。これによって今までとは比べ物にならぬ数の人々の知恵が統合されるようになった。

 考えてもみろ、今ままでは、狭い範囲に生まれ育ち死んでいく。それだけの者がほとんどだった。物を計る、図る、測る単位が統一され、あの広大な地に住む者すべてが同じ単位でものを見るようになった。そして文字を統一して諮れるようになった。もし、千人の者が1秒同じことを考えたら、それは千秒考えたことになる。これが万、億と数を増やしていけば、どこに思考が到達するか、誰にも分からない。実際その後すぐ、火薬、紙、鉄などが発明発見され、遠方の者とも正確に考えが伝えられるようになり、人の場はどんどん変化していった。人の力を優に超える水蒸気が力として使われ始め、お前の育てた娘は今また新しい力を生み出そうと研究していた。その力がどれほどの人を殺し、この地の形を変えていくことか。それを悪いとは思わない。その一方で良いことにも使うであろうから。しかし、もう引き返せない。どんどん進んでいくだけだ。そして行き着く先は見えない。」

「アサリア王の改革が進歩を加速させ、予測不能の未来を生んだ。その歪みが竜だというなら、なぜ、あの時期のみ現れて、後は出てこないのだ? 」

「お前が引き受けたではないか。今ここに姿を見せずとも、常にお前の頭の中で澱みは生まれ、それをお前は見ていたではないか。

 今、お前がここにいるのは、こんな話をするためか? 

 仇を討ちにきたのか? 」

「仇? 」

「あの娘が火刑に処せられたのは、私のせいではないぞ。今までの混沌の整理、消滅はすべて人のなせる業だ。私は一斉、手を出していない。お前はどう思っているのだ。人の進化? 私に言わせれば変化を。人は面白い生き物だ。遺伝子の組み合わせ、あるいはそのミスから起こる自然の変化のみならず、彼らの言う「知」で人工的な変化を繰り返してきた。生物としての変化なら環境の順応だろう、それは自然だろう。しかし、人工の変化は人を幸せにしたのか、必要だったのか、意味があったのか? 」

「幸せ、必要、意味。さあ、どうでしょうか? 

 幼い時から運命に絡めとられ、あるいはそこから抜け出そう、そうするしか生きる方法がなかった彼女は、幼い時から私と旅を続けた。私に連れられ、幼い足で懸命について来ようとした彼女。旅の夜、私の教える知識に興味を持ち、理解しようとした彼女、成長して自分の人生を生きようと決心して私との別れを決めた彼女。私には、彼女の真剣で一所懸命な姿ばかりが心に蘇ります。たまにありついたご馳走を美味しそうに食べる彼女もいる。楽しそうに笑っている彼女もいる。しかし、私にはあの賢明さが彼女です。

 彼女はたった、十六年でこの世を去った。まだまだ知りたいことが、やりたいことがあったはず。しかし、彼女の短い生涯は無駄ではない。長く生きることが幸せか? 今知りたかったことが数年後知れるかもしれない。しかしその時、また新しい謎につかまれているはずだ。境遇のせいかもしれないが、彼女はいつも真剣で、真っ向から自分の生涯と向き合っていた。他の人に比べて短いかもしれないが、彼女はその短い生涯を生き切った。愚かな者たちによって彼女は殺された。その聡明さを妬まれ、彼女の研究も業績もすべてなかったことにされ、魔女として殺された。しかし、彼女は周囲に優しく、後進を育成し、すべてに真剣だった。

 彼女の火刑で一時、女性の入学は減ったらしいがすぐに前にも勝る勢いで女性たちが大学の門をくぐっているらしい。彼女の後進達が彼女を無き者にしないよう、懸命に活動したからだ。そこに彼女は生きている。彼女の生きた跡が残っている。そして彼女の後を継ごうと多くの女性が研究している。もしかしたら彼女が死んだことで、彼女の研究は加速するかもしれない。

 彼女が幸せだったかどうかは知らない。だが、だったら後、何年生きれば幸せだったのか、幸せになれたのか。彼女のやってきたことは必要だったか、意味があったか。そんなことは分からない。しかし、彼女はせずにはいられなかった。目の前にある何かを調べ、分析し仮説を立てて、その正体を見極めたかった。それは幼い頃、旅のさまざまで見たものに好奇心を持って、その都度目を輝かせていたのと同じだ。」

「彼女のことはいいだろう。お前の話をしよう。これからどうする? 」

「今、世界の多くが黒い霧で覆われ、先が全く見通せない状況です。言葉で黒い霧というと否定的な印象ですが、そうじゃない。黒い霧とは私の頭の中で見えているものを言葉にしただけ。まさしく私の頭の中に、黒い霧とか靄のようなものがかかって、その向こうが全く見えないのです。それを不安に思ったこともある。晴れやかにしたいと思ったこともある。しかし今は、それを受け入れられる。近視眼的に、今の事だけやっていればいいと言っているのではない。はるか遠くまで、こうなるべき未来を思い描き、目の前の小さなことからそれを愚直に推し進めていけばいい。政治家が言う綺麗事に聞こえるが、まさしくそうせねばならない大事なのは、はるか向こうにある理想を、妥協なく、美しいままで思い描くことです。難しくともどうすればいいか分からなくとも、そこで妥協してはいけない。

 結局私は運命のままに動く世界を見ていただけです。それに何も関与できなかった。そして今、運命が見えなくなった。ならば、私の存在も遠からずなくなるのでしょう。しかしやっと私も世の中に参加できるのです。やっと私のいる意味が分かりました。」そう言って魔法使いは立ち上がった。

「左様ならば、ここでお暇致しましょう。もう会うこともないでしょう。」立ち上がった魔法使いは、町の雑踏の中にいた。そして、人混みの中に入っていった。


 それからさらに何年もの月日が経った。今プラットフォームに一人の男が立っている。最新の服を着て身なりは整い、名士なのだろう。しかし、帽子に隠れた片目は不自由のようだ。身長も他より抜きんでて高い。高価そうなステッキを使ってやや不自由そうな足をかばっている。蒸気機関車が駅に入っていた。まだまだ高価な乗車券だが、男はそのチケットを駅員に見せて乗り込んだ。男を載せた機関車ははるかかなたに向かって出発する。


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