【8話】健闘
アーグヴェントに「明日もここへ来なさい」と告げられて以来、ゼフィルは毎夜、この学院の中庭で、元素統帥「裂空」と対峙していた。
「行きます!」
ゼフィルは剣を構え、アーグヴェントへと駆ける。
アーグヴェントは何も言わなかった。ただ、感情の読めない涼やかな顔と見下したような眼で杖を構え、ゼフィルが立ち向かってくるのを待つだけ。そして、ゼフィルが渾身の力で繰り出す剣撃も、魔法も、その全てをいとも容易く、まるで赤子の手をひねるかのようにあしらい、的確な反撃で彼の体を芝生の上へと叩き伏せる。その繰り返しだった。
初めの数日は、心が折れそうになるのを必死で堪えるだけで精一杯だった。何度打ちのめしても、アーグヴェントからは言葉は何一つない。賞賛も、助言も、罵倒すらも。ただ無言で、圧倒的な実力差という名の分厚い壁として、彼の前に立ちはだかるだけだった。
「まだまだぁっ!」
だが、ゼフィルは諦めなかった。食らいついた。泥と草にまみれ、全身に新たな痣を作りながら、何度でも立ち上がった。自分は弱い。その事実は、この身に深く刻み込まれた。だからこそ、ここで逃げるわけにはいかなかった。アーグヴェントが自分に付き合ってくれる、その意味を考える。彼が自分の中に、ほんのわずかでも可能性を見出してくれたのだと信じたかった。
そうして数日が過ぎ、ゼフィルの中に確かな変化が芽生え始めていた。
(今だ!)
最初は目で追うことすらできなかったアーグヴェントの杖の動きが、ほんの少しだけ、見えるようになってきた。呼吸をするように放たれる無詠唱魔法。その発動の瞬間に、彼の周囲の魔素が微かに揺らぐのが感じ取れるようになった。攻撃をただ闇雲に繰り出すのではなく、その揺らぎの「前」を突く。
もちろん、それでもなお攻撃が通じることはなかったが、以前のように一方的に吹き飛ばされることは減り、一撃、二撃と、攻撃を交わし、凌げる時間が増えていった。
それは、絶望的な暗闇の中に差し込んだ、一条の光だった。
* * *
その日もいつものように、月が中天に昇る頃、王立四元素学院の中庭へと向かっていた。
中庭には、既にアーグヴェントの姿があった。彼はいつもと同じように、月光を浴びて静かに佇んでいる。ゼフィルの姿を認めると、やはり何も言わず、すっと白銀の杖を構えた。その無言の圧力は、もはやゼフィルを怯ませることはなかった。
「……お願いします」
短く告げ、ゼフィルもまた剣を構える。深く、長く息を吸い込み、完全に精神を集中させた。
「風よ、我が剣に宿りて刃となれ――《エンハンス・エアロ》!」
「風よ、我が脚を疾らせ、天を駆けさせよ。――《風迅脚》!」
いつものように詠唱し、そのまま先に動いたのは、ゼフィルだった。
地を蹴り、一直線にアーグヴェントへと突撃する。しかし、その動きはこれまでとは明らかに違っていた。《風迅脚》による直線的な突進ではない。不規則なステップで左右に揺れながら、距離を詰めていく。
「……!」
アーグヴェントが杖を振るい、風の刃を放つ。だが、ゼフィルはその発動の瞬間に生まれる魔素の揺らぎを完璧に読み切り、最小限の動きでそれを回避した。
(戦闘中に詠唱はしない!)
懐に飛び込む寸前、ゼフィルは詠唱も予備動作もなく、左手の指先から小さな風の塊を放った。初級魔法。元から威力は皆無に等しいうえ、無詠唱のため威力はまるでない。だが、アーグヴェントの足元に着弾したそれは、芝生をわずかに舞い上がらせ、ほんの一瞬、彼の気を逸らす。
「今だ!」
その刹那の隙を突き、ゼフィルは渾身の力で剣を横薙ぎに振るう。
アーグヴェントはそれを、いつも通り風の障壁で防ごうとする。しかし、その障壁が完全に展開されるよりも速く、風の力でゼフィルは剣の軌道を変えた。今まで剣を振っていた方向とは全く逆に動かし、障壁の上端、最も防御が薄くなる箇所を狙う。
ガキン!
甲高い音と共に、ついにゼフィルの剣がアーグヴェントの防御をこじ開け、杖そのものに弾かれた。アーグヴェントの表情に、初めてごく微かな驚きが浮かぶ。
(これが、俺の戦い方……!剣を使う理由!)
ゼフィルはこの数日、アーグヴェントの言葉をずっとかみしめていた。
「なぜ、わざわざ剣という物に頼るのですか?」
ずっと棘のように胸に突き刺さり、ずっと考えていた。風の魔剣士。それは、いったい何だろうか?
中途半端では意味がない。純粋な物理攻撃か、魔法攻撃か。その二択を相手に強要し、思考の隙を生み出す。剣による斬撃と見せかけて風の刃を放ち、魔法で注意を引きつけて剣で死角を突く。
風魔法を応用し、剣の軌道を空中で自在に変化させる。己の体を瞬間的に加速させ、不可避の一撃を放つ。それは、純粋な剣士では、純粋な魔術師では、決して到達できない領域。
魔法と物理攻撃を、極限まで融合させる。それこそが、自分がこの道を選んだ意味。
「まだです!」
一度弾かれた体勢を、空中で無理やり立て直す。そして、剣先に全ての意識を集中させた。狙うは、一点突破の破壊力。風魔法で作り出した高密度の空気の塊を剣先に纏わせ、物理的な質量を持つ剣の一撃に乗せる。
再びアーグヴェントに斬りかかった。彼はそれを杖で受け流すが、剣が触れた瞬間、圧縮された空気が解放され、小規模な爆発が起こる。その衝撃に、さすがのアーグヴェントもわずかに体勢を崩した。
これまでとは比較にならない、粘り強い攻防。ゼフィルは持てる技術のすべてを駆使し、必死に食らいつく。無詠唱の初級魔法を牽制に使い、風の力で己の動きを強化し、物理法則を無視した剣撃を繰り出す。
しかし、それでもなお、元素統帥の壁は厚かった。
ゼフィルの攻撃は、ことごとく致命傷を与えるには至らず、アーグヴェントの的確な反撃によって、再び彼の体には無数の打撲と切り傷が刻まれていく。
(……だが、見えた!)
激しい攻防の最中、ゼフィルはずっと探していた。この戦いを終わらせる、ただ一つの好機を。そして、ついにその瞬間が訪れた。アーグヴェントがゼフィルの大振りの一撃を風の盾で受けようとしたその一瞬。
ゼフィルは、残された全ての魔力を解放した。
「――我が剣に集え、螺旋の嵐。貫け、一点!」
魂の詠唱が、夜の静寂に響き渡る。彼の剣先に、凄まじい嵐が収束していく。
「――《嵐星一刀》!!」
放たれた必殺の一撃。それは、最初の戦いでアーグヴェントに見せた技と、全く同じ軌道を描いて彼へと殺到した。
アーグヴェントは、やはり、最初のあの時と全く同じ動きでそれに対処した。最小限の動きで半身になり、杖から放った風で螺旋の軌道を巧みに受け流す。
ゼフィルの渾身の一撃が、虚しく夜空へと逸れていく――かに見えた。
「――かかった!」
ゼフィルは、逸らされることすらも読んでいた。
彼は、テンペスト・ノヴァが逸らされたその先で、無詠唱の《エアロ・ウォール》を展開する。壁に激突した螺旋の嵐は、その行き場を失い、凄まじいエネルギーを保ったまま跳ね返る。
その軌道は、まさに今、技を放ちきって無防備になっているアーグヴェントの、死角。
さすがのアーグヴェントも、これには完全に意表を突かれた。その涼やかな表情が驚愕に染まり、咄嗟に、これまで見せたことのないほどの強力な防御魔法を展開する。
凄まじい轟音と衝撃波が、中庭全体を揺るがした。
「ぐっ......」
全てを出し尽くしたゼフィルは、その勢いで吹き飛ばされ、地面に転がる。
視界が晴れた先には、杖を構えたまま佇むアーグヴェントの姿があった。彼の衣服は所々が乱れ、その表情には、初めて余裕とは違う色が浮かんでいた。
静寂が落ちる。
勝敗は、明らかだった。それでも、ゼフィルは満足していた。自分の全てを、ぶつけることができたから。
やがて、アーグヴェントはゆっくりと杖を下ろすと、ふい、とそっぽを向いた。そして、ぽつりと、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、呟いた。
「……今のは、よかった」
それは、ゼフィルが彼から初めて聞いた、賞賛の言葉だった。
ゼフィルは、呆然と顔を上げた。アーグヴェントは、まだそっぽを向いたまま、静かに言葉を続ける。
「もっと体を鍛えなさい。魔法が尽きてもなお戦える強靭な肉体。それこそが、剣士が持つ最大の利点です。そして、その肉体と魔法を融合させる近接戦闘こそが、あなたがた魔剣士が他の元素使いに対して唯一優位に立てる領域なのですから」
その声は、いつもと同じように平坦だったが、どこか温かみのようなものが感じられた。
アーグヴェントは、それだけを言うと、くるりと背を向け、回廊の方へと歩き出した。
「……行き詰まったら、また私の元に来なさい」
最後にそう言い残し、彼はコツ、コツという足音だけを残して、夜の闇へと消えていった。
一人残されたゼフィルは、しばらくの間、彼が去っていった方向をじっと見つめていた。やがて、彼は泥だらけの体のまま、深々と、本当に深く、頭を下げた。
顔を上げた彼の瞳には、涙が滲んでいた。それは、悔しさの涙ではなかった。
* * *
「だから、もう大丈夫だって言ってるだろ?」
「だめ!絶対だめ!まだ完治してないんだから、絶対安静なの!ベッドから一歩も動いちゃだめ!」
王立四元素学院、始原魔主の執務室。その中央に鎮座する天蓋付きの豪華なベッドの上で、ゼフィルとジュネーヴィエは子供のような言い争いを繰り広げていた。
ジュネーヴィエの献身的な看病のおかげで、ワイバーンと紫天の魔獣によって負わされた深手は、驚異的な速さで回復していた。折れていた左腕も、深い裂傷も、今ではほとんど痛みを感じない。
「ジェネ、本当にありがとうな。お前がいなかったら、俺は今頃死んでいたよ。ほんとにもう大丈夫だから!」
「……当たり前のことしただけだよ~、私は、ゼフィルを守るって約束したからね! ほら!ベッドに戻って!」
本当は、彼女の魔法にかかれば、ゼフィルの傷など瞬時に癒すことができた。だが、そうすれば、彼が自分のそばにいてくれる時間が短くなってしまう。少しでも長く、この温かい時間を引き延ばしたかった。そのささやかな我儘は、ジュネーヴィエだけの秘密だった。
そんな内心を隠しながら、ジュネーヴィエは少し照れたように俯く。それでも、ゼフィルの傍を離れようとはしなかった。まるで、少しでも目を離したら彼がどこかへ消えてしまうとでも言うように。
その過保護な優しさは嬉しかったが、ゼフィルにはもう、甘えてばかりはいられなかった。
「俺、まじで行かなきゃならない。冒険者に戻る準備があるんだ」
「やだ!行っちゃだめ!そう言って死にかけたんじゃない!ここにいれば安全なの!私とずっと一緒にいればいいじゃない!」
ぷっくりと頬を膨らませ、駄々をこねる姿は、大陸最強の魔導士の威厳など微塵もない。ゼフィルは苦笑しながら、そのふわふわの白い頭を優しく撫でた。
「そうもいかないだろ。俺は、お前に守られるだけじゃなくて、お前を守れる男になるって約束したんだから。な!」
その言葉に、ジュネーヴィエはびくりと肩を揺らし、何も言えなくなってしまう。それは、彼女が彼の決意を止めることのできない、魔法の言葉だった。
「……分かった。」
ジュネーヴィエは、ぐっとこらえた。本当は「だめ!毎日ずーっと一緒にいるの!」と叫びたかったが、それを言えばまた彼を困らせてしまう。彼女は、精一杯の笑顔を作った。
「でも、絶対に無茶はしないでね。ちょっとでも危ないと思ったら私の名前呼んでね、すぐに助けに行くから!」
「はは、頼りにしてるよ!じゃあ、行ってくる」
ジュネーヴィエの心配を背中に感じながら、ゼフィルは彼女の部屋を後にした。
* * *
ゼフィルが去った後の始原魔主の執務室は、しんと静まり返っていた。ジュネーヴィエは、彼が出て行った扉を、まるでそこに彼の面影を追うかのように、じっと見つめていた。その横顔は、先ほどまでの快活な少女のそれではなく、どこか寂しげで、物思いに沈んでいるように見えた。
「……今回は、お部屋でお暴れにはならないのですな」
ふと、背後から穏やかな老人の声がした。いつの間にか、そこには大秘儀師カストディウスが音もなく立っていた。その声には、ほっ、と安堵の色が滲んでいる。
その言葉に、ジュネーヴィエは勢いよく振り返った。
「何よ!私が暴れたほうが嬉しいっていうの!?」
明らかに不機嫌そうな声で睨みつけると、カストディウスはしまったという顔で慌てて両手を振った。
「いえいえ!滅相もございません!わたくしは、ジュネ様がご壮健でいらっしゃることが、何より嬉しく存じますぞ!」
その取り繕うような言葉に、ジュネーヴィエはぷいとそっぽを向く。
「ふん。今回は特別に許してあげるわ。だって、これからは一日中、ゼフィルのことを見ていられるんだから!」
彼女はそう宣言すると、机の上に置かれた巨大な水晶玉を愛おしそうに撫でた。その紫水晶の瞳は、既に未来の楽しみでキラキラと輝いている。
しかし、その言葉にカストディウスは困り果てた表情で口を挟んだ。
「......そういうことでしたか。しかし、ジュネ様、それはいけません。始原魔主としての公務が山積しております。いくらなんでも、一日中というのは……」
「やだやだやだ!公務なんてつまらないもの、カストディウスが全部やっておいてよ!私はゼフィルを見るので忙しいの!」
始まった。カストディウスは内心で天を仰ぐ。髪がふわりと逆立ち始め、空気がその魔素で凍り付いていくのが分かる。
「ゼフィルはこれから冒険者に戻るのよ!?また危ない目に遭うに決まってる!私がしっかり見張ってないと、今度は本当に本当に死んじゃうかもしれないじゃない!」
「そ、それはそうかもしれませんが、ジュネ様にはジュネ様のお役目が……!」
「知らない!私の役目はゼフィルを守ることだけ!」
手が付けられない。カストディウスが頭を抱え、どうしたものかと思案していた、その時だった。
ぴたり、とジュネーヴィエの動きが止まった。そして、ぱっと顔を上げると、何かを閃いたかのようにポンと手を打った。
「……あ!いいこと思いついちゃった!」
その悪戯っぽい笑みに、カストディウスはこれまで何度も経験してきた、嫌な予感しかしない。
「……な、なんでございましょうか?」
恐る恐る尋ねると、ジュネーヴィエはにっこりと、しかし意地悪く笑って人差し指を口の前に立てた。
「なーいしょ!」
カストディウスの背筋を、冷たい汗が伝った。この少女が「いいこと」を思いついた時、大抵ろくなことにならないのだ。
これ以上深追いするのは危険だと判断したカストディウスは、咳払いを一つして、話を変えることにした。
「そ、そういえば、ジュネ様。ゼフィル殿は最近、夜な夜なあの中庭で、アーグヴェント殿と稽古に励んでおられるようですが……よくお止めになりませんでしたな」
その言葉に、ジュネーヴィエの表情が少しだけ曇る。
「……知ってるわよ、もちろん。最初、あの嫌味でいけ好かないメガネが、私のゼフィルをいじめてるのかと思ったわ。だから、こっそりぼこぼこにしてやろうかと思ったんだけど……」
物騒な言葉とは裏腹に、その声には怒りの色はない。彼女は水晶玉に映る、泥だらけになりながらも必死に立ち向かうゼフィルの姿を思い出す。
「……でも、やめた。ゼフィルが、強くなりたがってるから。あいつの目が、本気だったから。私がそれを邪魔しちゃいけないって、思ったの」
それは、ただ彼を甘やかすだけではない、深い愛情の形だった。カストディウスは、その少女の成長に、目頭が熱くなるのを感じた。
「アーグヴェント殿は、ああ見えてお優しいお方ですからな。きっと、ゼフィル殿の中に光るものを見出したのでありましょう」
その言葉に、ジュネーヴィエは少しだけ、本当に少しだけ、嬉しそうに微笑んだ。