【7話】裂空の教え
アーグヴェントの後ろを、ゼフィルは無言で歩いた。
王立四元素学院の、回廊を歩いていく。磨き上げられた大理石の床に、二人の足音だけが規則正しく響く。コツ、コツ、とアーグヴェントの革靴が立てる硬質な音。それに続く、ゼフィルの少しばかり覚束ない足取り。先ほどまでの喧騒が嘘のように、世界から音が消えたかのような静寂が二人を包んでいた。
ゼフィルの頭の中は、混乱の渦に叩き込まれていた。なぜ、自分は彼に連れ出されているのか。元素統帥の中でも、最も冷徹で、自分に対して明確な拒絶を示した男。その真意が全く読めなかった。侮辱の続きか、それとも別の何かがあるのか。
やがて、回廊の先にある、広大な中庭にたどり着いた。月明かりに照らされた芝生が銀色に輝き、周囲には手入れの行き届いた植え込みや噴水が静かに佇んでいる。ここは、学院の生徒たちが魔法の実技訓練を行うための場所の一つだった。
アーグヴェントは中庭の中央まで進むと、ぴたりと足を止め、静かに振り返った。そして、手にしていた白銀の装飾が施された杖を、すっと構える。月光を浴びた杖の先端の魔石が、淡い翠の光を放った。
「殺すつもりで、全力で来なさい」
その声は、夜の静寂に溶けるように、しかし刃のように鋭くゼフィルの鼓膜を震わせた。感情の起伏が一切感じられない、あまりにも平坦な声。だからこそ、その言葉に込められた本気度が、ゼフィルの肌を粟立たせた。
一瞬、ゼフィルはうろたえた。元素統帥、それも「裂空」の二つ名を持つ風の使い手の頂点に立つ男。そんな相手に、深手を負ったこの体で挑めというのか。明らかに無謀だった。
だが、アーグヴェントの眼鏡の奥の瞳は、微塵も揺らいではいなかった。ただ静かに、ゼフィルの覚悟を値踏みするように、こちらを見据えている。ここで尻込みすれば、先ほどの会議室で浴びせられた「弱い」という評価を、自ら肯定することになる。
それに、ゼフィルは分かっていた。アーグヴェントは見定めようとしているのだ。この自分の実力を。自らの手で。
ゼフィルは自嘲気味に口の端を上げた。迷うことなど、何もないではないか。自分は弱い。その事実を、叩き込まれたばかりだ。ならば、ここで失うものなど何もない。
ゼフィルは痛む左腕をかばいながら、剣を構える。まだ完全に癒えていない傷がジリジリと痛むが、構わず続ける。
「……胸を借ります!」
「風よ、我が剣に宿りて刃となれ――《エンハンス・エアロ》!」
「風よ、我が脚を疾らせ、天を駆けさせよ。――《風迅脚》!」
剣が翠の光を纏い、足元に風の渦が巻く。準備は整った。ゼフィルは地を蹴り、勢いよくアーグヴェントへと突撃した。
アーグヴェントはほとんど動かなかった。ゼフィルの剣閃は、彼に届く寸前で、突如として現れる風の障壁に阻まれる。放たれた風の刃は、杖先から放たれる小さな風の渦にかき消される。その全てが、詠唱の気配すらない、完全な無詠唱魔法だった。
「くそっ!」
ゼフィルは一旦空中へ対比すると、間髪入れず急降下し、脳天目掛けて剣を振り下ろす。しかし、アーグヴェントはそれをこともなげに一歩下がってかわすと、杖の石突で地面を軽く突いた。その瞬間、ゼフィルの足元から突風が吹き上げ、彼の体勢を大きく崩す。
「ぐっ……!?」
受け身も取れずに芝生の上を転がされる。すぐに立ち上がろうとするが、今度は横から薙ぐような風が襲い、再び地面に叩きつけられた。
何度も隙を見つけようと動き回り、宙をかけ、攻めるが全く歯が立たない。そうして、何度転がされただろうか。泥と草にまみれ、全身の傷口が開き、血が滲む。呼吸は荒くなり、意識が朦朧としてきた。それでも、ゼフィルは立ち上がった。その瞳の光だけは、まだ消えていなかった。
(これが……元素統帥……!)
やはり次元が違う。ゼフィルが必死に詠唱し、魔力を練り上げて放つ魔法と同等、いやそれ以上のものを、アーグヴェントは呼吸をするように繰り出してくる。自分の得意としていた風魔法が、彼の前では全く通用していない。
悔しさに、奥歯を強く噛みしめる。だが、不思議と心は折れていなかった。むしろ、叩き伏せられるたびに、頭は冴えわたっていく。なぜ、自分の攻撃は通じないのか。彼の魔法と、自分の魔法の決定的な違いは何か。
(……精度だ)
ゼフィルは気づく。アーグヴェントの魔法には、一切の無駄がない。最小限の魔素で、最大限の効果を発揮している。それは、風の流れ、空気の密度、空間に満ちる魔素の動き、その全てを完璧に読み切っているからこそ可能な芸当。ただ速さだけで縦横無尽に動き回る自分の戦法は、彼の前ではあまりにも大雑把で、隙だらけだった。
「はぁ……はぁ……ふぅ」
息を整え、ゼフィルは再び剣を構え直す。もう、がむしゃらに攻めるだけでは意味がない。この絶望的な実力差を覆すには、自分の持つ全てを、この一撃に賭けるしかなかった。
ゼフィルは動いた。しかし、今度はアーグヴェントに突進するのではなく、距離を取るように大きく円を描いて走り始めた。そして、指先から無数の《ウィンドカッター》を、アーグヴェントの周囲にばら撒くように放っていく。
アーグヴェントは怪訝な表情を浮かべたが、それを難なく跳ね除ける。
(今だ……!)
ゼフィルは、《風迅脚》の推力を最大にし、アーグヴェントの死角となる背後へと一気に回り込む。
「――我が剣に集え、螺旋の嵐。貫け、一点!」
それは、魂を絞り出す詠唱だった。これまでのどの攻撃とも比較にならない、凄まじい魔力が剣先に収束していく。
「――《嵐星一刀》!!」
アーグヴェントがため息をつきながら風の障壁をつくろうとすると、渦を巻いて消える。
その瞬間、それまで無表情を貫いていたアーグヴェントの表情が、初めて変わった。眼鏡の奥の瞳が、驚きと、そしてほんのかすかな感心の色を浮かべて、大きく見開かれゼフィルの表情を見る。その顔を見たゼフィルは、少し口元を緩ませた。
先ほどまでのウィンドカッターの狙いはアーグヴェント本人ではない。彼の周囲の空間。風の刃が空気を切り裂き、それを跳ね除ける毎に、大気の流れをわずかに、しかし確実に乱していた。これまで作り出してきた無数の風の乱れが、アーグヴェントの防御魔法の展開をコンマ数秒、阻害する。当然ながら、あまりにも僅かな隙。だが、ゼフィルはそこに全てを賭けた。
放たれた翠の螺旋は、アーグヴェントの背中へと突撃した。
しかし、彼は元素統帥。
アーグヴェントは振り返りもせず、杖を背後へと突き出した。杖先から放たれたのは、緻密で強力な螺旋状の風。二つの嵐が激突し、凄まじい衝撃波が中庭を吹き荒れる。
ゼフィルの《嵐星一刀》は、アーグヴェントの風によって巧みに受け流され、軌道を逸らされる。そして、渾身の一撃を防がれ体勢を大きく崩したゼフィルの懐へ、アーグヴェントは残像すら見えないほどの速度で踏み込んでいた。
「しまっ……」
気づいた時には、もう遅い。杖の石突が、ゼフィルの鳩尾に吸い込まれるように、正確に叩き込まれた。
「……ぐ、ふっ!」
肺から全ての空気が絞り出され、視界が白く染まる。その衝撃に、ゼフィルの体はくの字に折れ曲がり、技の勢いのまま地面へと突っ込んだ。痛みと呼吸困難で、起き上がることができない。芝生の冷たさと、土の匂いが、敗北の味を嫌でも突きつけてきた。
コツ、コツ、と革靴の音が近づいてくる。やがて、アーグヴェントが倒れているゼフィルの真横に立ち、その影が彼を覆った。彼は静かにゼフィルの顔を覗き込む。その瞳は、元の冷たい光を取り戻していたが、その奥に宿る色は、以前とは少しだけ違って見えた。
「……まったく、使えないというわけではないようだな」
アーグヴェントは表情を変えずつぶやいた。
そのまま、アーグヴェントは倒れ伏したまま動けないゼフィルを無言で見下ろしていたが、やがて静かに杖を納めると、踵を返して中庭の隅にあるベンチへと歩き出した。そして、そこに腰を下ろすと、冷たい声で「いつまでそうしているつもりですか。ここに座りなさい」とだけ告げベンチの横を指さす。
その言葉は、ゼフィルを現実に引き戻した。彼は歯を食いしばり、全身の痛みに耐えながら、震える腕でゆっくりと体を起こす。泥と草にまみれた服、開いた傷口から滲む血、体を引きずりながら、ゼフィルはよろよろとベンチまで歩み寄り、アーグヴェントの隣に力なく腰を下ろした。
「……」
「……」
気まずい沈黙が、月明かりに照らされた中庭に落ちる。先に口を開いたのは、アーグヴェントだった。彼はゼフィルの顔を見ようともせず、ただ前方の噴水を眺めながら、平坦な声で言った。
「あなたは学院では優秀だったでしょう。聞くところによると首席で卒業したそうですね」
「……そうです。よくこんな一端の冒険者の成績をご存じでしたね」
弱々しい声が出た。首席という栄誉が、今の自分には、虚構にしか見えなかった。
「学院の記録は全て目を通していますから。」
アーグヴェントは気にした様子もなく、言葉を続けた。
「あなたの魔法は、あまりにも教科書的すぎる。理論をなぞっただけで、そこにあなた自身の思考や工夫が全く見られない。まるで、出来のいい答案用紙を眺めているかのようです。そして、実戦では何の役にも立たない」
淡々と語るその言葉はゼフィルに深く突き刺さる。ゼフィルは唇を強く噛み締め、俯いた。
アーグヴェントは、そんなゼフィルの様子を初めて横目で一瞥すると、唐突に問いを投げかけた。
「ゼフィル・アンダー。魔法の根源たる四元素について、あなたはどう理解していますか?」
唐突な問いに、ゼフィルは戸惑いながらも、学院で叩き込まれた知識を記憶の底から引き出した。
「は、はい……。火は、触れるものすべてを焼き尽くす圧倒的な『殲滅力』。水は、傷を癒す『回復力』と、状況に応じて形を変え敵を封じる『柔軟性』。そして土は、決して砕けぬ強固な『防御力』と圧倒的質量による『攻撃力』。そして、風は……」
「風は?」
「……他の元素を凌駕する『速さ』と、万物を切り裂く『切れ味』です。それが、風魔法の最大の特徴です」
「よろしい。では、なぜ風が最も『速い』のか。その理論を説明できますか?」
それは、ゼフィルにとってあまりにも基本的な問いだった。一度息を整え、よどみなく答える。
「その際、それぞれの元素には、空間の魔素からの変換効率に差が生じます。風、すなわち空気は、この空間に元々満ちているもの。術師が行うのは、その流れを制御し、形態を刃や渦に変えるだけです。対して、水も大気中に水分として存在しますが、風ほど普遍的ではありません。炎に至っては空間に存在しないため、魔素から熱量と光を『無から作り出す』という工程が必要になる。そして土は、大地そのものを操る強力な魔法ですが、その質量ゆえに動かすための魔素消費が最も大きい。故に、理論上、魔法の発動速度は、風、水、炎、土の順となります」
アーグヴェントは静かに頷いた。
「……80点、といったところですか」
「理論は理解しているようです。ですが、それはあくまで理論でしかない。そのコンマ数秒のアドバンテージが、実戦でどれほどの意味を持つというのです?」
アーグヴェントは冷ややかに続けた。
「熟練した魔術師同士の戦いにおいて、その程度の速度差は、詠唱時間という巨大な壁の前では無意味に等しい。高度な魔法になればなるほど、詠唱は長くなるのが理です」
アーグヴェントはそう言うと、すっと立ち上がり、中庭の中央へと歩を進めた。彼はゼフィルに向き直り、静かに杖を構える。
「だからこそ、我々風の使い手は、誰よりも『無詠唱』を極めねばならないのです」
「――風よ、集いて壁となれ。《エアロ・ウォール》」
凛とした詠唱と共に、アーグヴェントの前に分厚い風の障壁が出現した。それはゼフィルが使うものとは比較にならないほど高密度で、空間が歪んで見えるほどだった。
「これが詠唱を伴う魔法。見ての通り、安定しており、威力も高い。ですが……」
アーグヴェントは杖を降ろした。次の瞬間、詠唱の気配すらなく、彼の前方に先ほどと全く同じ風の障壁が、音もなく形成された。
「……これが、無詠唱。威力は詠唱有りに劣りますが、発動までの速度は比較にすらならない。相手が詠唱を終える前に、こちらは次の手を三つも四つも打つことができる。この速度こそが、風の使い手が持つべき真の優位性です」
アーグヴェントは、二つの障壁を霧散させながら、再びゼフィルへと視線を戻した。その瞳は、先ほどよりもさらに鋭さを増していた。
「ゼフィル・アンダー。あなたの戦い方は、この利点を本当に活かせていると言えますか? あなたは《風迅脚》でただ闇雲に速く動き回るだけ。それでは、他の元素使いの牽制魔法に容易く捕らえられます。現に、先ほどの戦いで私の風に幾度となく叩き落とされた。あなたの速さは、ただ速いだけで、何の脅威にもなっていない」
ぐさり、と胸に痛みが走る。得意としていたはずの空中機動を、根底から否定された。
「さらに言えば、風の特性は速さだけではない。もう一つの重要な要素……『切れ味』についても、あなたは何も理解していない」
アーグヴェントは、今度はゼフィルの腰に差された剣に目を向けた。
「あなたは魔剣士を名乗り、戦闘が始まると同時に剣に《エンハンス・エアロ》を付与する。それは、風の魔力を不可視の刃とし、物理的な斬撃を強化する技。魔剣士の基本です。...そして、愚の骨頂でもある」
アーグヴェントは、静かに言う。
「風魔法は、それ自体が最強の刃です。なぜ、わざわざ鉄の塊という不純物を介在させる必要があるのですか? 風の刃は、鋼鉄よりも鋭く、そして何より自在に形を変える。それこそが、広範囲の制圧を苦手とする風魔法が、一点突破において最強たる所以です。あなたは最初から、切れ味の良い剣を手にしている。そのせいで、風そのもので『斬る』という発想を放棄しているようにしか見えない」
「……っ」
ゼフィルは言葉を失った。考えてもみなかった。学院では、魔剣士はエンハンスで剣を強化するのが定石だと教わった。誰もがそうしていたし、それが最も効率的だと信じて疑わなかった。
「あなたの必殺技……《嵐星一刀》でしたか。あれは素晴らしい技だ。風の乱れを利用して私の防御をこじ開けた戦術眼も評価に値する。ですが、なぜ、あれほどの魔力を収束させながら、その一撃をわざわざ剣という物に頼るのですか? あなたが真に風魔法をきわめていたなら、剣などなくとも、螺旋の嵐そのものが、私を貫く槍となったはずだ」
アーグヴェントの言葉は、ゼフィルのこれまでの戦い方、その全てを打ち砕いていく。速さも、切れ味も、何もかもが中途半端。自分は、風魔法の持つ本当の可能性の、ほんの上澄みを撫でていただけに過ぎなかったのだ。
彼はただ、強く握りしめた拳が震えるのを感じながら、悔しさと、己の浅はかさに対する恥ずかしさで、ゼフィルは俯くことしかできなかった。
「……」
再び、沈黙が落ちる。しかし、今度のそれは、先ほどのような気まずいものではなく、ゼフィルの内省を促すような、重く、静かな時間だった。
やがて、アーグヴェントは背を向け、回廊の方へと歩き出した。その背中から、冷たい声が投げかけられる。
「……明日も、同じ時間にここへ来なさい」
「え……?」
それだけを一方的に告げると、アーグヴェントは振り返ることなく、コツ、コツ、という革靴の音だけを残して、夜の闇へと消えていった。
(明日も……)
ゼフィルは、去っていった男の背中があった場所をじっと見つめながら、その言葉を何度も心の中で繰り返した。叩き込まれた、己の未熟さ。しかし、それを噛み締めながら、彼の瞳には、消えかけていた闘志の炎が、再び静かに灯り始めていた。