【5話】神鋼
(まだ終わらないの……?)
始原魔主の席で頬杖をつきながら、彼女は内心で悪態をついていた。きらびやかな装飾が施された天井の模様を数えるのも、もう百回は超えた。彼女の関心はただ一つ、今この瞬間もどこかで奮闘しているであろう、彼のことだけだ。
(ゼフィル、ジオ・リザードの討伐はもう終わった頃かな。怪我してないかな。ちゃんとお昼ご飯は食べたかな。)
昨夜、リリアから「ポーションは無事に渡せました」という念話での報告を受け、少しだけ安心していた。しかし、彼の活躍を見るのが日課であり、生き甲斐である彼女にとって、この足止めはあまりにもつまらない。
「……以上をもちまして、本日の会議を終了といたします」
締めの言葉が響いた瞬間、ジュネーヴィエは誰よりも早く席を立った。
「ジュネ様!この後の書類の決裁が……!」
カストディウスの悲痛な呼びかけを、「あとで見るー!」という気の抜けた返事で返し、彼女は弾むような足取りで、学院の最上階にある自らの執務室へと急いだ。
「ふんふーん さてさて、今日のゼフィルは……っと♪」
鼻歌交じりに部屋へ戻ると、彼女は机の上に置かれた巨大な水晶玉に魔力を注ぎ込む。癇癪でめちゃくちゃになった部屋は、カストディウスの尽力により、以前よりも豪華になって修復されている。
水晶の表面が乳白色の光を放ち、やがてクリアになると、そこに見慣れた黒髪の青年の姿が映し出された。
――その瞬間、そこにいたのは、彼女が想像していた元気な姿ではなかった。
血と泥に汚れ、左腕はあり得ない方向に折れ曲がり、左肩から黒い瘴気を立ち上らせて何とか立っているゼフィル。その呼吸は浅く、瞳からは光が消えかけている。
そして、彼の目の前には、一体の巨大な魔獣がいた。その魔獣が放つ禍々しい気配は、ジュネーヴィエが決して忘れることのない、悪夢そのものだった。
『紫天の魔獣』
見間違うはずがない、最大の敵。
「…………あ」
か細い声が、彼女の唇から漏れた。
水晶に映るゼフィルが、絶望した顔で魔獣を見つめている。それを嘲笑うかのように見下ろし、その鋭い爪を振り上げた。
ピシッ、と。
ジュネーヴィエの足元から、空気が凍る音がした。
豪華な絨毯の上に純白の霜が走り、修復されたばかりのアンティークの椅子に亀裂が入る。彼女の白くふわふわだった髪が、凄まじい魔力の奔流によってふわりと逆立つ。
「ああ…ああ………」
地を這うような、絶対零度の声。
次の瞬間、凄まじい魔素の嵐が部屋の中を吹き荒れた。ドンッ!という轟音と共に、先代国王から賜ったという花瓶が跡形もなく消し飛び、壁一面の本棚が内側からの圧力で弾け飛ぶ。
「じゅ、ジュネーヴィエ様!?いかがなさいましたか!?」
ただならぬ気配を察して、カストディウスが血相を変えて飛び込んでくる。だが、彼が見たのは、ただ泣き喚く少女ではなかった。
その紫水晶の瞳に燃えるような殺意を宿し、静かに立ち尽くす『全能』の姿だった。
「カストディウス」
彼女はゆっくりと振り返る。
「私、ちょっと出かけてくる」
「お、お待ちくだされ!どちらへ!?」
「助けに……いかないと」
その言葉を最後に、ジュネーヴィエの姿が空間の歪みと共に掻き消える。後に残されたのは、再び竜巻に襲われたかのように破壊し尽くされた部屋と、呆然と立ち尽くした何も知らない老賢者の姿だけだった。
(間に合って)
ジュネーヴィエはただ祈る。
(間に合って、間に合って、間に合え、間に合え、間に合え!!!!!)
* * *
ギシャアアアアアアアアッ!
紫天の魔獣が、天を裂くような咆哮を上げた。
(今日はあまりにも、ついてないな……)
もはや、指一本動かす力さえ残ってはいない。折れた左腕、ワイバーンの毒もまわり、全身を苛む骨の軋み。満身創痍という言葉すら生ぬるい。ゼフィルは血の味がする唇を固く噛み締め、迫り来る死を、ただ見つめることしかできなかった。
(ここまで、か……)
脳裏に、瓦礫の中で誓った幼い日の約束が浮かんで消える。結局、何一つ果たせなかった。守るどころか、彼女がいる遥か高みに追いつくことすらできず、こんな場所で無様に朽ち果てていく。無力な自分が腹の底からこみ上げてきて、自嘲の笑みが漏れた。
(ごめんな、ジュネ……)
心の中で、たった一人の少女に詫びる。紫天の魔獣が地を蹴る音が聞こえた。死がすぐそこまで迫る音。ゼフィルは、なすすべもなく、そっと目を閉じた。鋭い爪が、その体を無慈悲に引き裂く瞬間を待つ。
一秒が、永遠のように長い。
だが、訪れるはずの肉を裂く衝撃と激痛は、いつまで経ってもやってこなかった。
――ガギィィィィィィィンッ!!
代わりに、鼓膜を震わせたのは、金属同士が激しくぶつかり合うような、高い轟音だった。
何が起きたのか。
恐る恐る瞼を押し上げると、ゼフィルの視界に飛び込んできたのは、見覚えのある巨大な背中だった。全身を、黄金色の装飾が施された重厚な鎧で固めている。その左腕に構えられた大盾が、紫天の魔獣が振り下ろしたであろう鋭利な爪を、ゼフィルの寸前のところで受け止めていた。その衝撃で周囲の地面が放射状にひび割れる。しかし、その男は足元の地面に深く根を張った大樹のように、微動だにしていなかった。
「……大丈夫か、坊主」
地響きのような低い声。振り返ることもなく、男は静かにそう言った。
「ガレス……さん……?」
神鋼ランクの冒険者、"不動"のガレス。呆然とするゼフィルの前で、ガレスは呻るような短い声と共に盾を押し返した。凄まじい力で弾き飛ばされ、巨体を誇る紫天の魔獣が、まるで子供のように数メートル後方まで吹き飛んで体勢を崩す。
「どうして、ここに……」
掠れた声で問いかけるゼフィルに、ガレスは紫天の魔獣から視線を外さぬまま、親指で背後を指した。その先には、絶命して横たわるワイバーンの巨体がある。
「ギルドからの依頼でな。こいつを片付けに来た。……だが、俺の出る幕はなかったらしい。なかなかやるじゃねえか」
その声には、かすかな感心の響きがあった。
「だが、余計な厄介事も拾っちまったようだがな」
ガレスの視線が、体勢を立て直し、グルルル……と低い唸り声を上げる紫天の魔獣へと鋭く注がれる。
コツン、と軽い音がして、ガレスが足元に小さな瓶を転がした。緑色の液体が満たされた、解毒薬だ。
「飲め」
ぶっきらぼうな口調だが、その言葉には確かな気遣いが滲んでいた。ゼフィルは震える右手で瓶を掴むと、口を使って力の限り蓋を開け、一気に中身を飲んだ。薬が喉を焼くように滑り落ちる。すぐに完全に毒が消えるわけではないが、霞んでいた意識が急速に鮮明になっていくのが分かった。
その間にも、戦況は動いていた。
紫天の魔獣は、目の前の黄金の巨人が、ワイバーンとは比較にならない強敵であることを本能で理解したのだろう。距離を取ると、その口元に凄まじい勢いで風の魔素を収束させ始めた。
「まずい、ブレスが来ま――」
ゼフィルの警告は、魔獣が放った無数の風の刃によってかき消された。ゼフィルが使う《ウィンドカッター》とは次元が違う。一つ一つが必殺の威力を持つであろう翠の斬撃が、嵐のようにガレスへと殺到する。常人であれば、その一撃で肉体は塵も残さず切り刻まれるだろう。
しかし、ガレスは動かない。ただ、再び盾を前面に構えるだけ。
「――守れ。《不動城塞》」
短く、詠唱が響く。その瞬間、彼の周囲の地面が隆起し、瞬時にして分厚い岩の壁が形成される。
ガガガガガガガッ!
けたたましい連続音が鳴り響き、風の刃が次々と盾に着弾しては砕け散っていく。その凄まじい衝撃に、ガレスの足元がさらに深く陥没していくが、彼の体はやはり一歩も、一ミリたりとも後ろに下がらなかった。風の刃の嵐を完璧に防ぎきった。
魔法が通用しないと判断したのか、紫天の魔獣は戦法を切り替えた。風をその身に纏い、その巨体からは想像もつかないほどの俊敏さでガレスに近づく。残像が見えるほどの速度で繰り出される爪撃、急所を的確に狙う牙の一撃。それに加え、その隙間に風の刃を忍ばせる。あまりにも洗練された動き。それは、ゼフィルが誇る高速戦闘を、さらに洗練させ、凶暴にしたかのような猛攻だった。
だが、それでもガレスは動かなかった。
ゼフィルはその光景に、息を飲む。ガレスは、相手の攻撃を避けていない。全ての攻撃が、彼の守り(フォートレス)を突破できずに弾かれていく。
"不動"。その二つ名の意味をゼフィルは今、骨身に染みて理解していた。
猛攻の最中、ほんの一瞬、紫天の魔獣の動きが止まった。連続攻撃による、コンマ数秒の硬直。
その刹那を、ガレスは見逃さなかった。
「――砕けろ。《地砕撃》」
それまで防御に徹していたガレスが、初めて動いた。背負っていた巨大な戦斧を右手で掴み、天に掲げる。詠唱に応え、土の魔力が斧頭に凝縮された、土のエンチャント。そして、振り下ろされた一撃は、魔獣ではなく、自らの足元の地面へと叩きつけられた。
ゴオォォォンッ!
轟音と共に大地が裂ける。凄まじい衝撃波が同心円状に広がり、紫天の魔獣にたたきつけられる。咄嗟に後方へ跳躍して致命傷を避けた魔獣だったが、その体勢は大きく崩れ、脇腹や脚に紫色の血を流している。
しかし、ガレスは追撃しない。再び戦斧を背に収める。その姿は、まるで好機を待つ王者のようだった。
手傷を負わされた紫天の魔獣は、怒りと憎悪にその赤い瞳を燃え上がらせ、これまでにないほど膨大な魔力をその身に集束させ始めた。周囲の空気がビリビリと震え、風が荒れ狂う。狙いは一つ、目の前の男を完全に消滅させるための一撃。
ガレスに素早く飛びつくと、次の瞬間、近距離で魔獣の口から、全てを薙ぎ払う極大の風のブレスが放たれた。翠色の破壊の奔流が、ガレスへと殺到する。
ゼフィルは思わず目を覆った。あれほどの攻撃を、まともに受け止められるはずがない。
だが、ガレスはやはり動かなかった。
「――《不動城塞》」
盾を構え、分厚い岩の壁とその身一つでその攻撃を受け止める。凄まじい風圧が周囲の地面を削り取っていく。それでも、ガレスは立っていた。
やがて、ブレスの光が途切れる。その中から現れたのは、鎧の所々が削れているものの、傷一つないガレスの姿だった。彼は、ブレスを吐ききって最大の隙を晒した魔獣の、まさに目と鼻の先に立っていた。
「……終わりだ」
土の魔力がエンチャントされた、渾身の力による戦斧の一撃。黄金の巨腕がしなり、振り下ろされた戦斧は、紫天の魔獣の左肩に深々と突き刺さった。
――ギャオオオオオオオオオオオオンッ!!!
これまでとは比較にならない、絶叫。断末魔の叫びが、夜の森に木霊した。深手を負った紫天の魔獣は、憎悪と恐怖に歪んだ瞳でガレスを睨みつけると、よろめきながらも姿を消していった。
後に残されたのは、破壊の爪痕が生々しく残る大地と、圧倒的な静寂だけだった。
ガレスは、魔獣が去っていった方角を静かに見つめていたが、やがてゆっくりとゼフィルの方へ振り返った。その表情は、激戦の後とは思えないほど、穏やかですらあった。
「よく生き残ったな、坊主」
ガレスはゼフィルの前に立つと、その大きな図体に見合わない手つきで、彼の傷を見る。解毒薬は効いているようだが、裂傷そのものは深い。彼は無言で分厚い包帯と消毒薬を取り出すと、手当てを始めた。その手つきは、見た目に反して驚くほど丁寧だった。
「……ありがとう、ございます。本当に助かりました」
ようやく、ゼフィルはそれだけを絞り出した。
「……」
ガレスは何も答えない。ただ黙々と、手当てを続ける。その不器用な優しさが、自分の未熟さをこれでもかと突きつけてきて、今のゼフィルには何よりも身に染みた。
* * *
手当てを終えたガレスは、立ち上がると、ぽつりと言った。
「坊主。ソロは効率が悪い 。お前ほどの腕がありながら、死にかけてどうする」
「……はい」
ゼフィルは力なく頷くことしかできなかった。実力も、覚悟も、何もかもが足りていなかった。神鋼というランクが、どれほど遠い頂きにあるのかを、まざまざと見せつけられた。
ガレスは戦斧を背負い直した、その瞬間だった。
「……!」
ガレスの動きがぴたりと止まる。巨躯が、まるで鋼鉄の塊と化したかのように硬直した。彼はゆっくりと顔を上げ、空の一点を睨みつける。その眼は、先ほどまで紫天の魔獣と対峙していた時よりも遥かに鋭く、険しい。
「……なんだ、この魔素の圧は……」
低い声が、ガレスの口から漏れた。空気が震えている。紫天の魔獣が放っていた禍々しい気配ですら、霞んで思えるほど、純粋で、濃密で、そしてどこまでも底知れない魔素の奔流。それは、次元の違う存在が、こちらに向かってきているという紛れもない事実を突きつけていた。
ゼフィルもまた、その異常な気配を感じ取っていた。しかし、消耗しきった彼の感覚では、その正体を捉えることなど到底できない。ただ、肌を刺すようなプレッシャーに、息が詰まる。
ガレスはゼフィルを手で制し、自らが前に立つ。大盾を構え、戦斧の柄を握りしめる。
「……来るぞ」
ガレスが呟いた直後、世界が歪んだ。
ゼフィルたちの目の前の空間が、ぐにゃりと揺らめく。次の瞬間、空間そのものが裂け、そこから一人の人影が音もなく舞い降りた。
艶やかな黒いローブが、静かにはためく。フードが深く被されており、その顔を窺い知ることはできない。しかし、その小柄な体躯から放たれる存在感は、この場の空気を完全に支配していた。
しかし、ガレスはほっとした様子で緊張の糸を解した。
「……始原魔主様じゃねえか。なんでこんな辺境に来てんだ?」
ガレスの呟きに、ゼフィルはハッとした。始原魔主。その言葉が意味する人物は、この世界に一人しかいない。
黒ローブの人物は、ゆっくりとフードに手をかけ、それを外す。月光の下に現れたのは、陽光を弾いて輝くような、白くふわふわとした豊かな髪。雪のように白い肌と、長いまつ毛に縁どられた、可憐な少女の顔だった。
「……ジュネ」
ゼフィルの掠れた声に、彼女――ジュネーヴィエ・アルヴァは、ゆっくりと顔を向けた。
その紫水晶のような瞳が、まず辺りの惨状を映す。絶命したワイバーン、紫天の魔獣が残したと思しき禍々しい魔力の残滓、そして、血と泥に汚れ、満身創痍で立つゼフィルの姿。
水晶の瞳が、僅かに見開かれる。次の瞬間、完璧に保たれていた彼女の表情が、くしゃりと歪んだ。
「……ゼフィル」
か細い、震える声。
瞳から、堰を切ったように大粒の涙がぼろぼろと溢れ出す。彼女は、その場に崩れ落ちそうになる足で、ふらふらと、しかし一直線にゼフィルへと歩み寄った。
そして。
「……よかった……生きて、る……」
安堵に満ちた声と共に、その華奢な体で飛び込み、力いっぱいゼフィルに抱き着いた。甘い香りが、血と鉄の匂いに満ちたゼフィルの鼻腔をくすぐる。肩口に顔を埋め、しゃくりあげる彼女の体は、小刻みに震えていた。
「う……うっ……よかったぁ……!」
ゼフィルは、全身を襲う激痛に顔をしかめながらも、どこか安心したように苦笑した。折れていない右腕で、そっと彼女の頭を撫でる。
「……痛い、痛いって、ジェネ。傷に響く」
「うるさい!」
その言葉に、ジュネーヴィエはバッと顔を上げた。涙で濡れたその瞳は、安堵から一転、燃えるような怒りの色を宿していた。
「ゼフィルのバカバカバカ!!!!!!! 大馬鹿!!!!!絶対死んじゃったと思った!!!!!」
彼女はゼフィルの胸を、ぽかぽかと、しかし本気で叩き始める。
「死んじゃったらどうするつもりだったの!? 私との約束はどうなるのよ! 天穹になるって言ったじゃない! こんなところで死んで、約束を破るつもりだったの!? 答えなさいよ!」
その声は、大陸最強の魔導士の威厳など微塵もない、ただ愛する者の身を案じる一人の少女の悲痛な叫びだった。
叩く力は次第に強くなり、ゼフィルの傷にダイレクトに響く。
「い、痛い! 痛いから! 落ち着けって!」
「落ち着けるわけないでしょ! 私がどれだけ心配したと思ってるの! あなたの様子を見たら、血まみれで倒れてて! 魔獣に殺される寸前で! 私の心臓が止まるかと思ったんだから!」
次から次へと溢れ出す言葉は、とめどない。それは純粋な怒りであり、それ以上に、ゼフィルを失うことへの恐怖と、深い愛情の裏返しだった。
「……ごめん、ジェネ。心配かけた」
ゼフィルは、彼女の涙を指でそっと拭いながら、力なく、しかし真っ直ぐに謝った。その一言に、ジュネーヴィエの怒りの勢いが、少しだけ萎む。彼女は再びゼフィルの胸に顔をうずめ、今度はわんわんと声を上げて泣き始めた。
「……ほんとに……ほんとに、バカ……」
その光景を、ガレスは巨大な岩のように微動だにせず、ただ黙って見ていたが、やがて、ガレスはわざとらしく咳払いを一つすると、ぶっきらぼうに言った。
「……そろそろ俺はギルドに戻るぞ。坊主のことは嬢ちゃんに任せる」
そう言って、彼は踵を返した。
その言葉に、ジュネーヴィエはハッと我に返った。彼女は涙を乱暴に袖で拭うと、ガレスに向き直る。その瞬間、彼女の雰囲気は一変した。泣きじゃくっていた少女の面影は消え、そこに立っていたのは、アーカディア魔王国が誇る「全能」の始原魔主その人だった。背筋がぴんと伸び、その紫水晶の瞳には、威厳と理知の光が宿る。
「お待ちください」
凛とした、透き通るような声。
「ゼフィルの恩人に対し、大変な非礼を働きましたこと、深くお詫び申し上げます」
彼女は、スカートの裾を優雅につまみ、完璧な礼法で深く頭を下げた。
「ゼフィルを、命の危機から救ってくださった。この御恩、アーカディア魔王国始原魔主、ジュネーヴィエ・アルヴァの名において、一生忘れません。後日、私の執務室までお越しください。あなたが望むだけの報酬を、いえ、それ以上のものを必ずやご用意いたします」
それは最大限の感謝と敬意、そして、その申し出は、一個人が受け取るにはあまりにも破格だった。大陸中の誰もが羨むであろうその提案。
しかしガレスは、
「……気にするな」
彼は振り返りもせず、短くそう答えた。
「坊主が無事だっただけで、それで十分だ」
その声には、飾り気も、下心も一切なかった。ただ、事実を述べただけ、という響きがあった。
「それに、年下の坊主や嬢ちゃんに、気を使ってもらいたくねえ」
彼はそこでゆっくりと振り返ると、その視線をゼフィルに向けた。
「おい、坊主」
「……はい」
ガレスの口元に、ほんのかすかな、しかし確かな笑みが浮かんだ。
「 天穹の壁は高ぇぞ。まずは早く、こっちまで上がってこい。神鋼の世界で待ってるぞ」
彼はそれだけを言うと、今度こそ本当に背を向けて去っていった。