【4話】異質
世界が平穏を謳歌した時代があった。50年ほど前、「賢聖」カストディウス・ペトラヴァルトが頭角を現すと、そこから長い間彼が率いる王立魔導師団によって安定と繁栄を享受していた 。しかし、その長きに渡る平和は、突如として終わりを告げる 。
12年前、王国全土を未曽有の大災害が襲った。この災厄は、何の前触れもなく発生した。空は不気味な紫に染まり、大地からは正体不明の魔物が大量に出没。それに伴い、他の魔獣たちも凶暴化し、暴れ始めた。それは既存のいかなる魔法理論でも説明がつかない、混沌そのものだった。王立魔導師団、そして当時の始原魔主であったカストディウスでさえ、この災厄を完全に食い止めることはできなかった。王国の辺境地域は特に被害が甚大で、数多くの村が都市ごと消滅し、おびただしい数の命が失われた。
この災厄は後に『紫天の氾濫』と呼ばれ、王国の歴史に大きく刻まれることとなった。王立魔導師団は再編を余儀なくされ、冒険者はこの災害により凶暴化した魔獣の対処で各地に駆り出されるようになる。特に、この災厄によって生まれた異様に強力な魔獣は『紫天の魔獣』と呼ばれ恐怖の象徴となった。
* * *
(いったいいつから居たんだ……!)
一つは、人影。赤い、燃えるような色のぼさぼさの髪。それとは対照的に、上質な生地で作られたであろう黒基調の衣服は、貴族のものかと思うほどに洗練されている。そして何より、その顔立ちは神が精魂込めて作り上げたかのように、非の打ち所がなく整っていた。しかし、その完璧な美貌に浮かぶ笑みは、氷のように冷たく、感情が欠落しているように見えた。
そして、その青年の隣に佇む、もう一つの影。それを見た瞬間、ゼフィルの全身から血の気が引いた。
(……ゲイルウルフ……? いや、違う……!)
それは、ゼフィルが数日前に討伐した疾風狼 と同じ種族のようだった。だが、その大きさはリーダー格の個体さえも子供に見えるほどに巨大であり、月光を浴びて鈍く輝く銀色の体毛は、所々が不気味な紫色に変色している。何より違うのは、その魔獣から放たれる魔素の圧だ。ワイバーンでさえ霞んで見えるほど、濃密で、禍々しく、そしてどこまでも純粋な破壊の衝動。それは、ゼフィルが心の奥底で知っている、決して忘れることのできない気配だった。12年前、故郷を飲み込んだ災厄の気配。
「まさか……そいつは、『紫天の魔獣』か……?」
掠れた声で、ゼフィルは呟いた。12年前に王国を襲った大災害「紫天の氾濫」、その災厄によって、生まれたとされる。通常種を遥かに凌駕する強さと凶暴性を持ち、原則として、災害の傷跡が色濃く残る汚染された土地にしか生息していないはずの、災厄の化身。
「へえ、よくわかったね」
青年は、まるで面白い玩具を見つけた子供のように、にっこりと目を細めた。その笑みには、一切の悪びれる様子がない。
「てか、ごめんごめん。急に攻撃しちゃって。こいつ、まだちょっと制御が効かなくてさ。君が放った最後の技の残滓に興奮しちゃって、ついやっちゃったみたいなんだ。許してよ」
謝罪の言葉とは裏腹に、その声色には微塵の誠意も感じられない。ゼフィルは痛む体を叱咤し、折れていない右腕で剣を杖代わりに、なんとか身を起こそうと試みる。だが、左腕はありえない方向に曲がり、脇腹の痛みは肋骨が何本も逝っていることを示唆していた。ワイバーンに負わされた毒が、再び激痛となって全身を駆け巡る。
その時、青年の視線が、ゼフィルの足元に転がっている小さなガラス瓶に注がれた。戦闘の衝撃で、腰のポーチからこぼれ落ちた回復ポーションだ。ゼフィルは知らないが、ジュネーヴィエ特製の、最高級品。
「これは……すごいな。こんな代物、金貨何万枚出しても買えないよ。へえ、君、こんなもの持ってたんだ。なるほど、ワイバーンの毒が回ってるのにまだ意識があるわけだ。君はこれのおかげで生き残ったんだね」
青年はにっこりと笑う。その笑顔が、ゼフィルには悪魔の微笑みに見えた。こいつは一体何者なんだ。なぜ紫天の魔獣を連れている? なぜ自分を襲った? 疑問が渦巻くが、口から出るのは苦痛に満ちた呻きだけだった。
「ああ、そんなに睨まないでよ。殺すつもりはなかったんだって。……まあ、結果的に死んじゃうかもしれないけど。せっかくだし、ちょっと話をしようよ」
青年はそう言うと、巨大な疾風狼の首筋を優しく撫でた。魔獣は、主人の手つきに心地よさそうに喉を鳴らす。その光景は、あまりにも異様だった。
「君、人間と魔獣の決定的な違いって、何だか分かる?」
唐突な問いだった。ゼフィルは答えず、ただ荒い息を繰り返しながら、警戒を解かずに青年を睨みつける。
「それはね、空間に満ちる『魔素』を扱えるかどうか、だよ。君たち人間は、体内の魔素をトリガーにして、無限とも言える空間の魔素を操り、魔法という奇跡を顕現させる。 だからこそ、脆弱な肉体しか持たない人類が、覇者になれた」
青年の声は、まるで教師が生徒に語りかけるように、穏やかで理知的だった。
「でも、魔獣は違う。彼らは基本的に、自らの体内に宿す魔素しか使えない。だから、彼らの魔法や特殊能力は、限定的で、単調だ。……そう、今まではね」
青年は一旦言葉を切り、慈しむように紫天の魔獣を見つめた。
「じゃあ、もし、空間の魔素を人間と同じように、いや、人間以上に効率よく扱える魔獣がいたら? どうなると思う?」
その言葉に、ゼフィルは息を呑んだ。まさか、と。最悪の可能性が脳裏をよぎる。
「その『もしも』を現実にしたのが、12年前さ。あの日、この世界の理を書き換えた。そして生まれたのが、君たちがそう呼ぶ『紫天の魔獣』。彼らは、空間の魔素を自由に、そして本能のままに操ることができる、新しい生命体なのさ」
青年は恍惚とした表情で、巨大な疾風狼を撫でる。その言葉が真実ならば、目の前の魔獣は、単に強いだけの存在ではない。無限の魔力を振るう、歩く災害そのものだ。
「……何が目的だ、お前は……なにを……知っているんだ」
ゼフィルは、歯の隙間から絞り出すように問う。
「目的? んー、そうだなぁ……」
青年は少しだけ考えるそぶりを見せると、満面の笑みで答えた。
「そのうちわかるかもね~」
「さて、お話はこれでおしまい」
青年は満足したように頷くと、手を叩いてくるりと踵を返した。
「じゃあ、こいつは君にプレゼントするよ。せいぜい可愛がってあげて。じゃあね」
あまりにも軽い口調でそう言い放つと、青年の姿がぐにゃりと歪み、次の瞬間には、まるで初めからそこにいなかったかのように、風の音だけを残してかき消えていた。
後に残されたのは、骨折と毒で満身創痍のゼフィルと、殺意と飢えに満ちた赤い瞳で彼を見据える、一匹の紫天の魔獣。
絶望。その二文字が、漂う。ワイバーンを倒した高揚感も、ジュネーヴィエとの約束も、今この瞬間、絶対的な死の気配の前では、遠い夢物語のように色褪せていく。
ギシャアアアアアアアアッ!
紫天の魔獣が、天を裂くような咆哮を上げた。それは、狩りの開始を告げる鬨の声。その口元からは、通常の疾風狼が使う風のブレスとは比較にならない、魔素の嵐が漏れ出している。
(今日はあまりにもついてないな……)
もう、指一本動かす力さえ、残ってはいない。ゼフィルは血の味がする唇を噛み締め、迫り来る絶望を、ただ見つめることしかできなかった。