【3話】強襲
ゼフィルの眼前にそびえ立つのは、瘴気竜。冒険者ギルドが黄金ランク以上を推奨する、正真正銘の格上だ。今のゼフィルでは間違いなく逃げ切ることは不可能だった。
「……やるしかない、か」
乾いた唇を舐め、ゼフィルはゆっくりと剣を構え直した。背中を伝う冷たい汗が、恐怖を自覚させる。だが、それ以上に、彼の心には闘志の炎が灯っていた。絶望的な状況下にあっても、なお戦う意思を失ってはいなかった。
キシャァァァァッ!
思考を遮るように、ワイバーンが空高く旋回し、耳障りな咆哮を上げた。ゼフィルを明確な敵と認識し、その大きく裂けた口からは、毒々しい瘴気が漏れ出している。次の瞬間、それは巨大な影となって急降下してきた。ゴオオオオオッと空気を震わせる風切り音と共に、鋭く研ぎ澄まされた爪がゼフィルを引き裂かんと迫る。
「風よ、我が脚を疾ら…くっ!」
詠唱を紡ぐ暇はない。ゼフィルは咄嗟に魔力を足元に集中させ、不完全な《風迅脚》で地を蹴った。コンマ数秒、死の爪撃が彼の残像を砕き、地面に深い亀裂を走らせる。
息をつく間もなく、ワイバーンは流れるような動きで体勢を立て直し、その長い尾を鞭のようにしならせた。尾の先に備わった毒針が、死神の鎌となってゼフィルに襲いかかる。
無理やり体をひねり、地面を転がるようにして紙一重でかわす。頬をかすめた毒針が、背後の岩をどす黒く変色させた。
「掠っただけで終わりか……!」
ワイバーンの毒は、少量でも体内に入れば解毒しない限り確実に死に至る。もちろん、ワイバーンを討伐に来たわけではないゼフィルは、そんな高価な解毒薬など持ち合わせていない。
(このままじゃジリ貧だ)
開けた空間での戦いは、坑道内とは比較にならないほど自由度が高いため、ゼフィルの真骨頂である空中機動も存分に活かせるはずだった。だが、それは相手も同じ。いや、翼を持つワイバーンにとって、空は自らの庭そのものだ。そもそもゼフィルに詠唱の隙を与えない。ワイバーンは的確に追い詰めてくる。
ゼフィルは無詠唱の風迅脚で距離を取り反撃の機会を窺おうとするが、それを分かっているのか加速し距離を詰めてくる。指先から詠唱不要の《ウィンドカッター》を連射するが、ジオ・リザードの鱗すら満足に貫けなかった風の刃が、格上のワイバーンに通用するはずもなかった。 顔付近の緑と赤の毒々しい鱗に当たったウィンドカッターは、音もせず消える。
だが、ゼフィルの狙いは別にあった。ウィンドカッターの目くらましで一瞬の詠唱の隙を作り出す。
「風よ、我が剣に宿りて刃となれ――《エンハンス・エアロ》!」
長剣に風の魔力を纏わせ、突進してくるワイバーンに対しカウンターを狙う。狙うは比較的装甲が薄いであろう翼の付け根。
「よし!当たっ......」
しかし、ワイバーンはゼフィルの狙いをあざ笑うかのように、突進の軌道を寸前で変化させた。
ガキンッ!
ゼフィルの剣は、ワイバーンの分厚い胸部の鱗に阻まれ、激しい衝撃と共に弾き返された。ジオ・リザードの時とは比べ物にならない硬さと重さ。腕が痺れ、体勢が大きく崩れる。
……その一瞬の隙を、空の捕食者が見逃すはずがなかった。
「しまっ……!」
視界の端で、巨大な爪が振り下ろされるのが見えた。咄嗟に風の障壁を展開するが、それも無駄だった。
無詠唱で完全ではない障壁はバリイン!とガラスが割れるような音を立てて砕け散り、衝撃と共にゼフィルの体は錐揉みしながら地面へと叩きつけられた。
「ぐ……ああああッ!」
背中から地面に叩きつけられ、肺から空気が強制的に絞り出される。受け身は取ったが、全身を強打した激痛が走った。それ以上に深刻だったのは、左肩から脇腹にかけて走る、三本の深い裂傷だった。ワイバーンの爪が、彼の体を切り裂いていた。
ズキリと焼けるような激痛。だが、それ以上に恐ろしいのは、裂傷から滲み出す黒い靄だった。それは血管を伝い、心臓に向かって脈打ちながら広がっていく。
(毒……!)
ワイバーンの爪や牙、そのブレスには強力な毒が含まれている。一撃でも食らえば、たとえ致命傷でなくとも、その毒によってやがては死に至る。即死こそしないが、じわじわと体を蝕み、苦しみ抜いた末に待つのは確実な死。それがこの魔獣の本当の恐ろしさだった。
傷口から力が抜け、左腕がだらりと垂れ下がる。視界がぐにゃりと歪み、耳鳴りが思考をかき乱す。毒が、思ったよりも早く全身に回り始めていた。
「はぁ……はぁ……くそ……」
霞む視界の中で、先ほどまでの俊敏さとは真逆でゆっくりとこちらに近づいてくるのが見えた。その赤い瞳は、死にかけの獲物にとどめを刺す前の、喜びに満ちているようだった。
(死ぬのか……ここで……)
無茶なソロを続けてきた罰だ、そう思った。思い返せば、自分は何をしてきたのだろうか。最強の幼馴染に対して、天穹になるなんて啖呵を切って冒険者になった。ただ自分の無能具合を見たくなかっただけだ。敷かれたレールの上を走りたくなかっただけだ。守られるだけの存在では終わりたくなかっただけだ。......弱い自分を見せたくなかった。
全てをあきらめかけた。その時ーー
『……約束だよ?』
脳裏をよぎるのは、遠い日の約束。 瓦礫の中で震えていた、小さな幼馴染の姿。
(まだ……何も、果たせてないじゃないか……!)
本当の意味で隣に立つために、この道を選んだのだ。こんな場所で、夢半ばで朽ち果てるわけにはいかない。
歯を食いしばり、痛む体に鞭打って、震える足で立ち上がる。痛みと諦めが心を支配しようとする。だが、ゼフィルは必死にそれに抗った。
(考えろ……考えろ!倒すすべを!確実に、何か……何か手があるはずだ!)
その時、ふと腰のポーチに手がかかった。中には、リリアから渡された回復ポーションが入っている。
「……気休めでも、ないよりマシか」
震える手でポーションを取り出し、一気に煽る。ポーションは決して万能薬ではない。傷を瞬時に癒したり、毒を完全に解毒したりするような奇跡の力はない。あくまで、持ち主が本来持つ自然治癒力を極限まで高めるための触媒だ。 すぐに効果は現れない。だが、ひんやりとした液体が喉を滑り落ちると、燃えるように熱かった傷口の痛みが、ほんのわずかに和らいだ気がした。何より、死の淵で掴んだ藁は、彼の心に一瞬の冷静さを取り戻させた。
ジオ・リザードのリーダー格を倒した時もそうだった。必ず突破口は存在するはずだ。
諦めるのは死んでからでも遅くない。
今の自分に悠長な時間はない。ワイバーンは待ってくれないし、毒は刻一刻と体を蝕んでいる。
狙うべきは、一撃で沈められる絶対的な弱点。
「風よ、我が脚を疾らせ、天を駆けさせよ。――《風迅脚》!」
ゼフィルは《風迅脚》で空へと舞い上がる。急に動き出したゼフィルに、ワイバーンも一瞬動きが止まる。ゼフィルはその巨体を必死に観察した。硬い鱗に覆われた体。弱点はどこだ。目か? 口の中か?
地を這うワイバーンは苛立ったように咆哮し、毒のブレスを吐き出してきた。緑色の瘴気が、扇状に広がりながらゼフィルに迫る。ゼフィルはそれを回避しながら、ある一点に気づいた。
ブレスを吐き出す瞬間、ワイバーンの喉元が大きく膨らみ、首が大きく逸れる。その瞬間だけ、柔らかそうな喉に隙が生まれる。
(あそこだ……!)
しかし、そこに飛び込むのは自殺行為に等しい。ブレスの射線に自ら身を投じることになるからだ。だが、他に手はない。残された魔素も、毒に蝕まれた体も、もう長くはもたない。
この一撃に、全てを賭ける。
「これが最後だ……」
ゼフィルは覚悟を決めた。ブレスに対して切り返すと、わざとワイバーンと距離を取りブレスを撃つように仕向ける。
「来い!」
すべてをこの一撃に集中させる。これは彼自身が生み出した、魂の言葉。凡人である自分が、天才に追いつくために編み出した、必殺の技。
「――我が剣に集え、螺旋の嵐。貫け、一点!」
詠唱が、彼の魂と共鳴する。 剣先に風の魔力が奔流となって集束し、周囲の空気を巻き込みながら、翠色の光を放つ嵐の渦を生み出していく。
「――《嵐星一刀》!!」
だが、それはいつもの《嵐星一刀》ではなかった。ゼフィルは、自身の魔素を、限界を超えて剣に注ぎ込んでいた。
螺旋の嵐はさらに収束し、翠の光は眩いばかりの白光へと変わる。それは、もはや風の刃というより、光の槍だった。
ワイバーンは、ゼフィルが放つ尋常ならざる圧を感じ取り、最大級の警戒と共に最後のとどめを刺そうと、大きく息を吸い込んだ。喉元が大きく膨らみ、口から毒の瘴気が漏れ出す。
その瞬間を、ゼフィルは見逃さなかった。
「うおおおおおおおおっ!」
《風迅脚》の推力を最大にし、地を蹴る。地面が砕ける。ワイバーンへの距離を一気に詰め、砕放たれた毒のブレスの奔流の、わずかな隙間を縫うように、一直線にワイバーンの懐へと踏み出す。
熱風が肌を焼き、瘴気が肺を苛む。だが、彼は止まらない。
そして、白光と化した剣先が、ブレスを吐ききって一瞬だけ無防備になったワイバーンの喉元、その一点へと吸い込まれるように突き刺さった。
バリバリバリッ!
雷鳴のような轟音と共に、鋼鉄の如き鱗が砕け散る。勢いを増した光の槍は、抵抗する全てを薙ぎ払い、その肉体を内側から貫いた。
――――ッ!!!
ワイバーンは、断末魔の叫びすら上げることができなかった。その赤い瞳から急速に光が失われ、巨体は力を失ってぐらりと傾く。やがて、地響きを立ててその場に崩れ落ち、二度と動くことはなかった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
激しい消耗と反動で、ゼフィルは膝から崩れ落ちた。剣を杖代わりにして、なんとか倒れ込むのを堪える。全身の骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げていた。左肩の傷からは、まだ黒い毒が滲み出ている。
それでも、勝った。
絶望的な状況を、己の力だけで覆したのだ。
(ジュネ……見てるか……? 俺……やったぞ……)
ゼフィルは天を仰いだ。
「今の一撃はすごかったねぇ」
まるで背後から囁くように、場違いに軽薄な声が鼓膜を揺らした。ハッと我に返り、振り返ろうとした、その瞬間。
ドガッ!!!
意識が追いつくよりも早く、脇腹に凄まじい衝撃が叩き込まれた。声がした方向とは真逆からだ。ワイバーンの爪撃とは比べ物にならない、鋼鉄の槌で殴りつけられたかのような鈍い衝撃が、彼の体をいとも容易く宙に吹き飛ばした。
「ぐあああああああああああッ!」
受け身など取れるはずもなかった。数メートル先までくの字に折れ曲がって吹き飛ばされ、岩壁に叩きつけられて地面に転がる。肺からごぼりと空気が漏れ、視界が赤と黒に明滅した。全身の骨という骨が軋み、砕けるような悲鳴を上げる。
「あれ? まだ生きてる? 君すごいね。今の、普通なら即死でしょ~」
のんびりとした、どこか感心したような声が頭上から降ってくる。霞む視界を無理やり持ち上げると、衝撃の方向、つまり先ほどまで自分が立っていた場所に、二つの影が揺らめいていた。