【1.5話】全能と施し
夜も更け、首都アステリオンが魔晶灯の柔らかな光に包まれる頃、冒険者ギルド・アステリオン本部は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。 依頼を求める冒険者たちの熱気も、祝杯をあげる陽気な声も、今はもうない。
その広々としたホールで、一人だけ明かりの灯る受付カウンターの中に、栗色のポニーテールを揺らす影があった。ギルド職員のリリアだ。 彼女は山と積まれた書類を片手に、今日の報告書と照らし合わせながら、几帳面に最後の確認作業を行っていた。
「ふう……これで最後っと。ガラン渓谷の疾風狼討伐、完了報告。達成者、ゼフィル・アンダー……ねえ」
リリアは、つい先ほどまで目の前で無邪気に笑っていた少年の名を指でなぞり、ふっと息を漏らした。 若干十六歳にして、単独で白銀ランクの依頼を次々とこなしていく少年。 その戦いぶりは常に無茶で、報告を聞くたびに肝を冷やすが、彼が持ち帰る成果は常に完璧だった。
「本当に、すごい子」
ぼそっと呟いたその時だった。
ふと。
何の予兆もなかった。扉の開く音も、床のきしむ音も、風が吹き込む音すらも。ただ、すぐ後ろに、誰かが立っている。その気配だけが、リリアの背筋を冷たく撫でた。
ぞわり、と総毛立つ。深淵そのものが人の形をとってそこに佇んでいるかのような、圧倒的な存在感。それでいて、不思議なほど静かだった。
(な……に……!?)
心臓がどくん、と大きく跳ねる。侵入者?強盗?いや、このギルド本部に正面からではなく、気配だけで侵入できる者がいるとすればそれは並の賊ではない。リリアはゆっくりと、警戒を解かないまま、パッと勢いよく後ろを振り向いた。
「だ、誰です……っ!」
そこに立っていたのは、一人の人物。全身を、艶やかな黒いローブですっぽりと覆っている。顔はフードの影に隠れて見えず、身長はリリアより少し低いくらいだろうか。威圧感とも恐怖とも違う、ただならぬ雰囲気がその全身から放たれていた。
しかし、リリアはその姿を視界に捉えた瞬間、張り詰めていた緊張の糸をぷつりと切り、これ以上ないほど深いため息をついた。
「……はぁぁぁ。またですか」
その呆れ返った声に対して、黒ローブの人物はフードにそっと手をかけ、ゆっくりとそれを外した。
フードの下から現れたのは、陽光を弾いて輝くような、白くふわふわとした豊かな髪。 雪のように白い肌に、長いまつ毛が影を落とす可憐な少女の顔だった。
「ジュネーヴィエ様。お願いですから、せめて正面のドアからいらしてください。心臓に悪すぎます」
リリアの懇願に、アーカディア魔王国が誇る最強の魔導士、始原魔主ジュネーヴィエ・アルヴァは、悪戯っぽくにっこり笑って見せた。
「んふふ、ごめんごめん。でも、正面からだと色々うるさい人がいるからさ。それに、リリア。敬語じゃなくていいって、いつも言ってるのに」
その口調は、大陸最強の魔導士の威厳など微塵も感じさせない、親しい友人に話しかけるような気軽なものだった。
「そういうわけにはいきません。公の場ではありませんが、立場というものが……」
「はいはい、真面目ちゃんなんだから。まあ、いいや。それよりも」
ジュネーヴィエはそう言うと、ぱあっと表情を輝かせ、期待に満ちた瞳でリリアにずいっと身を乗り出した。その紫水晶のような瞳がキラキラと輝いている。
「で、ちゃんと渡してくれた? 私が用意した特製の回復ポーション。ゼフィルに、ちゃんと渡してくれたんでしょうね?」
満面の笑みで、彼女は問い詰める。その無邪気な圧に、リリアは心がキュッとなるのを感じた。
「……無理に決まってるじゃないですか」
「はい?」
リリアが答えると、ジュネーヴィエの笑顔がぴしりと固まった。
「ポーション百本ですよ? それも、一本一本が最高級の素材で作られた特注品。そんな量を、『ギルドからの特別報酬です』なんて言って、どうやって怪しまれずに渡せと?」
「……」
「しかも、『ジュネーヴィエ様からだとは絶対に分からないように』なんて、無茶にも程があります! 少し前までの、数本程度ならまだしも……!」
リリアの言葉を、ジュネーヴィエは黙って聞いていた。しかし、その顔から表情は抜け落ち、紫水晶の瞳は温度を失っていく。さっきまでの親しみやすい雰囲気は消え失せ、底知れない魔力の圧が、じわりと周囲の空気を凍てつかせ始めた。
「で、……何? 結局渡せてないの?」
地を這うような低い声。
「そっか。渡せてないんだ。へえ……」
ごくり、とリリアは唾を飲み込む。これはまずい。彼女の機嫌が急降下している。
「……じゃあ、やっぱり敬語を使いなさい、リリア」
「ええ……」
ぷい、とそっぽを向き、完全にふてくされてしまった。その姿は、まるで我儘な子供のようだが、放たれるプレッシャーは間違いなく大陸最強のものだ。リリアは頭を抱えたくなった。
「そもそも、どうしてジュネ様が直接お渡しにならないんですか? 幼馴染なんでしょう?」
リリアが根本的な疑問を口にすると、ジュネーヴィエはびくりと肩を揺らし、視線を泳がせた。さっきまでの威圧感はどこへやら、急にもじもじとし始める。
「そ、それは……」
「それは?」
「……笑顔で信じて送り出したのに、そんなことしたらゼフィルに嫌われちゃうかも……」
蚊の鳴くような声でそう言うと、彼女は顔を真っ赤にして俯いてしまった。その絶世の美女がはにかむ姿は、確かに庇護欲をそそる。だが、そのせいでとんでもない仕事を押し付けられているリリアにとっては、たまったものではなかった。
「それだけの理由で、私にどれだけの無茶を強いているか分かってますか!? ポーションだけじゃありませんよね!?」
リリアはカウンターの引き出しを勢いよく開け、中から厳重に保管されていたいくつかの品を叩きつけるように置いた。
「これ! 『偶然拾った』ことにしてゼフィル君に渡してくれと仰っていた『星屑の魔晶』! 古代魔法の触媒になる、世界に数個しか現存しないと言われている超希少アイテムです! こんなもの、その辺に落ちてるわけないでしょう!」
「う……」
「それからこれ! 『高名な魔術師からの寄付品』という名目で渡せと? 風竜の涙から精製した、最高純度の魔法触媒! 金貨何万枚出しても手に入らない代物ですよ!? 寄付にしてはあまりにも不自然です!」
「だ、だって……ゼフィルの風魔法、もっとすごくなるかなって……」
「なるでしょうね! でも、どうやって渡すんですか! なんて言えばいいんですか、私は!」
リリアの悲痛な叫びも、ジュネーヴィエには届いていないようだった。彼女はリリアの言葉など上の空で、何かをむすっと考え込むと、やおらローブの内側からずしりと重そうな革袋を取り出し、ドン、とカウンターに叩きつけた。
「それを何とかするのが、あなたの仕事でしょう」
「ひっ!?」
「とにかく、今までのことは水に流してあげる。でも、これは絶対に失敗しないでよね。今度こそ、絶対に、絶対に、ゼフィルに渡すこと。いいわね?」
有無を言わせぬその口調に、リリアは恐る恐る革袋の口を開けた。そして、中を覗き込み、息を呑んだ。
チャリン、と鳴り響く金属音。そこには、目もくらむような大量の金貨が、ぎっしりと詰め込まれていた。平民が一生かかっても稼げないような、途方もない金額だ。
「む、む、む、無理無理無理! 絶対に無理です!」
リリアは悲鳴を上げ、その革袋をジュネーヴィエに押し返した。
「金貨をどうやって渡すんですか! 『ボーナスで報酬激増!』とでも言うんですか!?」
「それいいアイデアだね!」
「よくありません!」
リリアの全力の拒絶に、ジュネーヴィエもヒートアップしてくる。
「何よ! そっちがちゃんとゼフィルに報酬を渡さないからでしょ! あなたたちギルドが、私のゼフィルの働きに対して、あまりにも低い金額しか提示しないから! だから私が、不足分を補填してあげようとしてるんじゃない!」
バン!とカウンターを叩き、その衝撃で、ペン立てに差してあった羽ペンが数本、床に散らばる。
「ひ、低いですって!? そんなことはありません! ギルドは規定に沿って、彼の功績に見合った正当な報酬をお支払いしています! 白銀ランクとしてしっかりした待遇ですよ!」
「嘘よ! 嘘つき!」
「嘘じゃありません! 大体、彼は別に生活に困っているわけじゃ……」
「困ってるわよ!」
リリアの言葉を、ジュネーヴィEが食い気味に遮った。その瞳は潤み、本気で心配しているのが伝わってくる。
「だって、聞いてたでしょ!? 今日、ゼフィルがなんて言ってたか! 『これでしばらくは美味い飯が食える!』って言ってたのよ!」
「え、ええ、まあ……」
「『しばらく』よ!『しばらく』って何!? ってことは、今までずっと美味しいご飯も食べられずにいたってことじゃない!ああ……かわいそうなゼフィル……!」
リリアは、先ほどゼフィルが「肉だ、肉!山盛りの肉を食うぞ!」と満面の笑みで街へ駆け出していった姿を思い出し、再び深いため息をついた。
「……とにかく! 金銭の授受は絶対に無理なものは無理です! ポーション百本も、何とか小分けにして数ヶ月かけるならまだしも……! もう、ご自分で食事にでも誘って、その時に渡せばいいじゃないですか!」
リリアが半ばヤケクソでそう提案した瞬間。
「しょ、しょ、しょ、食事なんて、ぜ、ぜ、ぜったい無理!!!!」
ジュネーヴィエは、それこそ雷に打たれたかのように飛び上がり、顔から火を噴く勢いで首を横に振った。
「ふ、ふ、二人きりで!? ご飯を!? それってデートじゃない??? む、むりむりむり、緊張して何を食べても味がしない! それに、何を話せばいいのか分からない! 絶対に変に思われる! 嫌われたらどうしよう!」
先ほどまでの威厳は完全に消え去り、あたふたとその場で狼狽える。
リリアは、(ずっと一緒にいて、魔導師団にまで入れようとしたのに、なぜ今更……)と呆れつつ、決定的な指摘を口にした。
「ていうか、ジュネーヴィエ様、また公務をさぼってゼフィル君のこと見てたんですね」
ジュネーヴィエは一瞬ビクッと身を固まらせるが、すぐに反論する。
「さぼってないし。休憩時間にちょこーっと見てただけだし。」
ジュネーヴィエは口をとがらせる。
「……とにかく! この金貨も、他のアイテムも、上手いこと、自然な感じでゼフィルに渡しておいて! いい? これは、アーカディア魔王国始原魔主からの、正式な命令です!」
追い詰められた彼女は、ついに禁じ手を使った。ふふん、と鼻息荒く胸を張り、国家権力を笠に着てきたのだ。
「無茶苦茶な命令です!」
「そもそも!忘れたとは言わせませんよ、ジュネーヴィエ様!」
リリアの声にも、ついに怒気がこもった。
「私がどうして、こんな冒険者ギルドの受付職員なんてやっていると思ってるんですか! 私は元々、あなたと同じ王立魔導師団の所属だったんですよ!」
リリアの突然の反撃に、ジュネーヴィエの動きがぴたりと止まる。
「それを半年ほど前、私を呼びつけて何と言いましたか! 『ゼフィルが冒険者になるから、その時に彼のサポートができるように、ギルドに潜入して受付嬢になってほしい』と! そんな命令一つで、私の魔導士としてのキャリアを強制的に変更させたんじゃないですか!」
「まあ……」
「私の人生をめちゃくちゃにしておいて、その上まだ無茶を言うんですか! いい加減にしてください!」
静まり返ったギルドホールに、リリアの声が木霊した。
ジュネーヴィエは、完全に言葉を失いうつ向いており、その顔には、気まずさと罪悪感がありありと浮かんでいる。どうやらやり過ぎていたとは思っていたらしい。
「そ、それは……あの……ご、ごめんなさい……」
しゅん、と効果音が聞こえそうなほどしょげ返り、大陸最強の魔導士は、小さな声で謝罪した。
その姿を見て、リリアは大きく、長いため息をついた。
「そんなにしょげないでください、ジュネーヴィエ様。冗談ですよ。ちょっとからかっただけです。私は今の仕事を気に入っていますよ」
リリアはそう言うと、カウンターに置かれた金貨の袋と希少なアイテムを引き寄せた。
「金貨は……無理ですけど、ポーションと触媒は、何とか……何とか、考えてみますから……」
「ほ、ほんと!? ありがとう、リリア! やっぱりあなたしかいないわ!」
途端に、ジュネーヴィエはぱあっと顔を輝かせ、リリアの手をぶんぶんと握った。その変わりように、リリアはもはやため息しか出なかった。
(私は今後もやっていけるのかしら……)
夜のギルドに一人、不本意な共犯者は、果てしなく遠い未来に思いを馳せるのだった。
* * *
――次の日。
昨夜のギルドで繰り広げられた騒動など露知らず、ゼフィルは軽い足取りでギルドの扉をくぐった。
「リリアさん、依頼の報告です」
カウンターで山積みの書類とにらめっこしていたリリアの肩が、ビクンッ!と大きく跳ねる。声の主がゼフィルだと分かり、あからさまに動揺した声を上げた。
「あ、ああ!ゼフィル君!お、お帰りなさい!ご無事だったのね、よかったわ!」
「うん、まあ。今回は簡単な依頼だったからね。岩窟小鬼の討伐。昨日はさすがに疲れたから休憩みたいなものだよ」
ゼフィルはカウンターに小ぶりな魔石をいくつか置いた。しかし、リリアは魔石を一瞥しただけで、視線はあらぬ方向をさまよっている。
「そ、そう!そうよね、簡単な依頼!それがいいわ、とってもいいことよ!たまには体を休めないとね!うんうん!」
「……リリアさん、今日なんだか変だよ。何かあった?心配事?」
あまりにも上の空なリリアに、さすがのゼフィルも怪訝な表情を浮かべる。リリアは、否定の意味でぶんぶんと両手を大げさに横に振った。
「な、なんでもない!なんでもないったら!私のことはいいのよ、それより報酬ね!ええっと、依頼達成、確認しました。討伐報酬が金貨1枚と魔石の買い取り額が金貨2枚。合計で、ご、ご、合計で金貨3枚!」
(落ち着きなさい私!ただ報酬を渡すだけじゃない!昨夜のあの方からの任務を……!)
リリアが内心で自分と戦っている間に、ゼフィルは慣れた手つきで机に置かれた3枚の金貨をポケットにごそっとしまい、扉に向かおうとする。
「昨日のを見てしまうと今日のは寂しいな。明日はもう少し歯ごたえのあるやつにしよう。じゃ、お疲れ様、リリアさん」
「ちょ、ちょっと待って!」
(今しかない!)
リリアはほとんど反射的に叫び、ゼフィルを引き留めた。そして、カウンターの下からごそごそと、昨夜からずっと気が気でなかったポーションの束を取り出す。
「わ、渡すものがあるの!」
「渡すもの?」
「こ、これ!著名な魔導士の方が、若手の有望株であるゼフィル君のサポートをしたいって!ギルドに寄付してくださって、あなたに渡すように言われてたのよ!ほら、持っていきなさい!」
リリアは一息にそうまくし立てると、半ば強引に、しかし落としては大変とばかりに丁寧に、ゼフィルにポーションの束を押し付けた。
上質なガラス瓶に澄んだ液体が満たされている。一目で高級品だと分かる逸品だ。
「わ、ありがとうございます!こんなにたくさん……前にも貰ったばかりなのに。すごい助かります!ほんとに」
ポーションを渡せたことでホッとするリリア。しかし、
「でも、著名な魔導士って、一体誰なんだ?あまりにも太っ腹すぎる……」
ゼフィルは首を傾げながら、もらったポーションの瓶をまじまじと見つめ、本気で考え始めた。
(まずい!これ以上探られたらボロが出る……!)
リリアの背中を冷や汗が伝う。ここで下手に嘘を重ねれば、かえって怪しまれる。彼女は必死に頭を回転させ、それらしい理屈をひねり出した。
「そ、その……!本当に高名な方って、こうやって名前を明かさずに支援して見返りを求めないのよ!純粋な応援ってこと!だから、支援された側はその方の名前を探ったりせず、活躍することが一番の恩返しになるの!……きっと!」
リリアはカウンターにぐっと身を乗り出し、必死の形相で力説する。
彼はリリアの勢いに少し驚きながらも、なるほど、一理あるなと一人で納得していた。
「その魔導士の方には、死ぬほど喜んでました!って大げさに伝えておいてください!」
* * *
ゼフィルが去っていく背中を見送りながら、リリアはカウンターに突っ伏した。
(ゼフィル君が素直で本当に助かった……!ジュネーヴィエ様、やりましたよ!第一弾、無事に渡しましたからね!)
とりあえず最初の任務は果たした。残りのポーションと、あのあり得ない超希少アイテムをどうやって渡すか。彼女の心労は、まだ続きそうだった。