【1話】頂点と冒険者
空が、不気味な紫色に焼けていた。
熱を帯びた風が、煙と血の匂いを運んでくる。昨日まで笑い声に満ちていたはずの故郷は、燃え盛る炎と、耳を裂くような断末魔に包まれていた。理解を超えた災厄が、混沌の爪牙が、当たり前だった日常をいとも容易く引き裂いていく。
「う……あ……」
引き裂かれ、原型を留めない大小様々な魔物の死骸。その瓦礫の山の中で、小さな背中が震えていた。雪のように白かったはずの髪は灰と土に汚れ、か細い肩が絶え間なく揺れている。僕の幼馴染、ジュネーヴィエ。彼女もまた、目の前で両親を失った。僕と、同じように。
何もできなかった。ただ震え、隠れることしかできなかった無力な自分が、腹の底からせり上がってくる恐怖が、どうしようもなく歯がゆい。だけど。
だけど、この子だけは。
「……ジュネ」
僕は、か細く震える彼女の小さな手を、力いっぱい握りしめた。泣きじゃくる彼女の瞳を見つめて、喉から絞り出すように、誓った。
「大丈夫。僕が、ずっと守るよ」
「…本当に? 約束だよ?」
「もちろん。僕が嘘ついたことあった?」
「いっぱいあったよ。…でも、嬉しい」
彼女の体を力いっぱいぎゅっと抱きしめる。こうしてしばらくの間、二人は互いの温もりを感じていた。
…………守るはずの相手に、遥か高みへと置いていかれた男が、今も見る夢。
* * *
空気が震えた。
生命の息吹に満ちるはずの森が、今は死の気配を色濃く漂わせ、沈黙している。湿った土と腐葉土の匂いに、微かな血の鉄臭さが混じる。風に揺れる木々の葉音だけが、まるで嵐の前の静けさを強調するかのように、やけに大きく聞こえた。
鬱蒼と茂る木々の隙間から差し込む月光が、一人の青年の姿をぼんやりと浮かび上がらせる。
艶のある黒髪を風に遊ばせ、その瞳は夜の闇よりも深く、鋭く前を見据えている。歳の頃は十六といったところか。まだ少年と呼んで差し支えない若さでありながら、その立ち姿には歴戦の戦士だけが持つ独特の張り詰めた空気があった。彼の名はゼフィル・アンダー。アーカディア魔王国の冒険者ギルドに所属する、白銀ランクの魔剣士である。
「……来たな」
ゼフィルは腰に提げた長剣の柄にそっと手を添え、低く呟いた。彼の研ぎ澄まされた感覚が、獲物の接近を明確に捉えていた。それは単なる殺気ではない。飢え、渇き、そして純粋な破壊衝動が混じり合った、魔獣特有の禍々しい気配。一つではない。十、いや、二十は下らないだろう。
「……ちょっと多くないか?」
今回の依頼は『ガラン渓谷周辺に出没する魔獣の討伐』。元は青銅ランク向けの依頼だったが、最近になって被害報告が急増し、ギルドが危険度を引き上げた案件だ。討伐対象は、疾風狼。この魔獣はとにかく素早い。風のように森を駆け抜け、鋭い爪と牙で獲物を八つ裂きにする。何より面倒なのは、統率の取れた群れで襲ってくることだ。
普通ならば、最低でも同じ白銀ランクのパーティを組んで挑むべき相手だ。しかし、ゼフィルはたった一人でこの森に足を踏み入れていた。慢心ではない。彼には、彼だけの戦い方と、それを可能にする確固たる実力があった。とはいえ、実際にその数を肌で感じると緊張が増してくる。
ザザッ、と草を踏みしめる音が四方から同時に響く。闇の中から、無数の爛々と光る眼が浮かび上がった。グルルル……という低い唸り声が森の静寂を破り、包囲網はじりじりと狭まっていく。月光に照らされたその銀色の体毛は、鋼の針金のように硬質に見えた。
群れの中心、一際大きな体躯を誇り、月光を浴びて鈍く輝く個体が、天に向かって咆哮を上げた。それが、開戦の合図だった。
「――応えよ、万象の根源。我が声に応え、その息吹を力と化せ」
疾風狼の群れが一斉に地を蹴った瞬間、ゼフィルの唇から紡がれたのは、流れるような正規の詠唱だった。体内の魔素が呼び水となり、空間を満たす膨大な魔素と共鳴する。
「風よ、我が剣に宿りて刃となれ――《エンハンス・エアロ》!」
トリガーとなる短い詠唱と共に、ゼフィルの手にした長剣が淡い翠の光を帯びた。風の魔力が刀身に纏わりつき、不可視の刃を形成する。それは物理的な斬撃に加え、触れるもの全てを切り裂く風の刃を付与する強化魔法だ。武器に直接魔法を付与する「エンハンス」は魔剣士の基本であり、極めれば奥義にもなりうる技でもある。その瞬間、最初の一匹が、目にも留まらぬ速さでゼフィルの喉笛に食らいつこうと跳躍した。常人であれば反応すらできずに絶命しているだろう。しかし、ゼフィルの瞳は、その死線ともいえる動きを正確に捉えていた。
(流石に速いな、おい!)
彼は身をひねり、最小限の動きで疾風狼の牙をかわす。すれ違いざま、翠光を放つ長剣が閃いた。
ギャンッ!
甲高い悲鳴と共に、疾風狼の体は抵抗なく二つに分かたれ、宙を舞った。鮮血が闇に散る。しかし、感傷に浸る暇はない。一匹の死は、他の個体の凶暴性をさらに煽るだけだ。左右から、背後から、次々と銀色の狼が殺到する。
「風よ、我が脚を疾らせ、天を駆けさせよ。――《風迅脚》!」
ゼフィルの足元で、魔力の渦が巻いた。風の元素が彼の体を押し上げ、同時に前方へと推力を与える。次の瞬間、彼の体はふわりと浮き上がり、まるで重力から解き放たれたかのように、空中を蹴って疾走を開始した。
地に足をつけぬまま、縦横無尽に空間を舞うゼフィルの姿は、狼たちの狩りの常識を根底から覆すものだった。《風迅脚》。移動速度を爆発的に向上させ、さらに空中を足場にするという二つの効果を組み合わせた、ゼフィルオリジナルの複合魔法。風を知り尽くした彼だからこそ使える高等技術だ。
空を駆けるゼフィルにとって、地上を疾走するだけの疾風狼の群れは、もはや的でしかなかった。
「次は五匹!」
宣言と共に、空中から急降下。翠の剣閃が五条、闇夜に描かれる。その度に、疾風狼たちの断末魔が森に木霊した。返り血を浴びることなく、ゼフィルは再び空へと舞い上がる。その動きは洗練された舞踏のようであり、あまりにも一方的だった。
「見えてるぞ!」
指先から放たれた風の刃が、遠くで隙を窺っていた一体を正確に切り裂く。初級魔法。しかし、彼は詠唱なしでそれを放つ。高度な魔法になればなるほど詠唱は長くなるのがこの世界の理であり、詠唱は魔法の強さに直結する。だが、熟練した魔術師は、詠唱を完全に省略することが可能になる。ゼフィルの風魔法に対する練度は、既にその域に達していた。
群れは明らかに混乱していた。統率を失い、ただ目の前の異常な存在に怯え、あるいは猛り、無秩序に襲いかかってくる。ゼフィルは冷静にそれらを捌き、一体、また一体と確実に数を減らしていく。
エンハンスされた剣で斬り伏せ、空中からの奇襲で仕留め、風の刃で貫く。時折放たれる疾風狼の爪や牙による反撃も、風の魔力で形成した即席の障壁で完璧に防ぎきる。
戦闘開始から、わずか数分。二十匹近くいた疾風狼の群れは、残り一体となっていた。
月光の下、血だまりの中に佇むのは、一際大きな体躯を持つリーダー格の個体。その赤い瞳は、仲間を屠ったゼフィルへの憎悪と、本能的な恐怖で揺れていた。
グルルル……と喉を鳴らし、リーダーは最後の力を振り絞るかのように、その身に魔力を集中させ始めた。体毛が逆立ち、口元から翠の光が漏れ出す。風のブレス。疾風狼が持つ、唯一の魔法攻撃だ。だが、ゼフィルは、リーダーが息を吸い込むよりも速く動いた。
《風迅脚》の推力を最大にし、一直線にリーダーへと突貫する。
「これが最後だ。――我が剣に集え、螺旋の嵐。貫け、一点!」
それは正規の詠唱ではない。彼自身が生み出した、技のための言霊。「凡人」の彼が、天才に追いつくためだけに編み出した、魂の言葉。
剣先に風の魔力が奔流となって集束し、凄まじい嵐が彼の周囲を吹き荒れる。その風圧に、森の木々が大きくざわめいた。
「――《嵐星一刀》!!」
放たれた必殺の一撃は、リーダーがブレスを吐き出す寸前、その開かれた顎から脳天までを正確に貫いた。断末魔の叫びすら上げることなく、巨大な体は崩れ落ち、二度と動くことはなかった。
戦闘の終わりを告げる静寂が、再び森を支配した。
ゼフィルは剣を振って血糊を払い、ゆっくりと鞘に納める。彼の頬には一筋の返り血がついていたが、それ以外は傷一つない。
「……ふぅ。さすがに数が多いと疲れるな」
額の汗を手の甲で拭い、彼は息をついた。周囲に転がる夥しい数の死骸を見渡し、肩をすくめる。討伐の証である魔石をリーダー格の個体から回収し、彼は踵を返した。目的は果たした。後はギルドに戻り、報酬を受け取るだけだ。
(もっと強くならなきゃ。こんなところで手間取ってはいられない)
脳裏をよぎる、遠い日の約束。彼はその思いを振り払うように、夜明けの森を後にした。
夜明け前の薄明かりが東の空を染め始めた頃、ゼフィルは首都アステリオンへと続く街道を歩いていた。
アーカディア魔王国の首都アステリオン。
その威容は、大陸のいかなる都市をも凌駕する。街全体が、古代魔法の理論を応用した巨大な魔法防壁「聖域の天蓋」によって守られている。空には魔力で動く浮遊船が緩やかに行き交い、街の至る所に設置された魔晶灯が、昼夜を問わず柔らかな光を放っていた。まさに魔法大国の心臓部であり、繁栄の象徴だ。
ゼフィルは、巨大な城門をくぐり、活気あふれる市街地へと足を踏み入れた。早朝にもかかわらず、道には多くの人々が行き交っている。露店の商人たちの威勢のいい声、馬車の蹄の音、そして時折聞こえる魔法の起動音。それら全てが混ざり合い、アステリオンという都市の生命力を形作っていた。
彼の目的地は、冒険者ギルド・アステリオン本部だ。
この国で「冒険者」といえば、国家に直接所属せず、自らの才覚と腕前を頼りに、未開地の踏破、魔物の討伐、物品の探索、人々の護衛など、多種多様な依頼を請け負う者たちの総称である。国の正規軍たる王立魔導師団が「国防」という国家規模の脅威に対処するのに対し、冒険者は、個別の村を襲う小規模な魔物の群れや、市民からの個人的な依頼といった、「正規軍が動かない領域」の問題を解決する、社会に不可欠な安全弁として機能している。門戸が広く誰でもなれるため、下級の者は時に蔑まれることもあるが、実力次第では立身出世も夢ではない。その実力は天穹を頂点とし、神鋼、黄金、白銀、青銅、黒鉄に分けられ、高位の冒険者は栄誉と尊敬を集める。そして、そんな冒険者たちが活動の拠点とするのが、王国公認の互助組織「ギルド」なのだ。
中央広場に面して建てられたギルド本部は、石と木材で造られた重厚な建物で、その歴史の長さを物語っている。ゼフィルが巨大な観音開きの扉を押して中に入ると、むわりとした熱気と酒の匂い、そして喧騒が彼を出迎えた。
「おい、聞いたか? 西の鉱山にワイバーンが出たらしいぜ」
「馬鹿言え、お前みたいな黒鉄ランクが行ってどうする。骨も残らねえぞ」
「ちぇっ、いつかは俺だって黄金になって、竜の一匹も狩ってやるさ!」
壁一面に貼られた依頼書の前では、屈強な男たちが夢と現実を肴に議論を交わし、併設された酒場では朝から祝杯をあげるパーティや、依頼の失敗に肩を落とす者たちの姿があった。様々な人種、様々な思惑が渦巻くこの場所こそ、ゼフィルの現在の居場所だった。
彼は人混みをかき分け、まっすぐに受付カウンターへと向かう。
「リリアさん、依頼の報告に」
彼が声をかけたのは、栗色の髪をポニーテールにした、快活な印象の女性職員だった。胸元のネームプレートには『リリア』と記されている。
「あら、ゼフィル君! お帰りなさい。……って、その格好、また一人で? ガラン渓谷の依頼でしょう? あそこ、最近は危険度が上がって白銀推奨になってたのに」
リリアはゼフィルの顔を見るなり、呆れと心配が混じったような表情を浮かべた。彼女はゼフィルがギルドに登録した当初から彼を知る、数少ない人物の一人だ。
「これでも一応、白銀様なんでね。なんとかなったよ。これが討伐の証拠、疾風狼のリーダー格の魔石」
ゼフィルは懐から取り出した、翠に輝く拳大の魔石をカウンターに置いた。魔石は魔獣の力の源であり、様々な魔法具の材料となるため、高値で取引される。リーダー格の魔石は特に希少価値が高い。
リリアは驚きに目を見開いたが、すぐに手慣れた様子で鑑定用の魔法具にかざした。魔法具が確かな品質を示す光を放つのを確認すると、彼女は深くため息をついた。
「……信じられない。本当に一人で群れを? あなた、無茶をするにも程があるわ」
「無茶じゃないですって。実力ですよ、実力」
「はいはい、その自信がいつか命取りになるんだから。……まあいいわ。依頼達成、確認しました。討伐報酬が金貨30枚。それに魔石の買い取り額が金貨20枚。合計で金貨50枚ね」
リリアがカウンターの下からずしりと重い革袋を取り出す。チャリン、と心地よい金属音がして、ゼフィルは思わず顔をほころばせた。金貨50枚は、平民が数ヶ月は何不自由なく暮らせる大金だ。
「よっしゃあ!これでしばらくは美味い飯が食える!」
革袋を受け取り、無防備に喜ぶゼフィルの姿は、先程までの冷徹な戦士の面影を感じさせない、年相応のものだった。そのギャップが彼の魅力の一つでもあるのだが、リリアはまた小言を口にする。
「稼いだお金、またすぐ使っちゃうんでしょ?たまには貯金でもしたらどうなの?」
「いいんだよ、これが俺の生き様だから。じゃ、またねリリアさん」
服をバシッと着なおした後、ひらひらと手を振り、ゼフィルはその場を去ろうとした。その時、周囲から聞こえてくるヒソヒソ声が彼の耳に届いた。
「おい見ろよ、あいつがゼフィルだ」
「またデカい依頼を一人でこなしたのかよ。十六で白銀とか、化け物か……」
「なんでも半年で白銀だとよ」
「王立四元素学院も卒業してるエリートだが、なぜか魔導師団には入らず冒険者になった変わり種だ」
「なんでそんなエリート様がこんな仕事やってんだ?」
羨望、嫉妬、賞賛、そして疑問。それらが混じった視線が背中に突き刺さる。だが、彼は気にしなかった。他人の評価など、彼にとっては些細なことだ。重要なのは、自分が強くなること。ただ、それだけだった。
「よう、坊主。死なずに帰ってきたか」
不意に、地響きのような低い声がかけられた。振り返ると、そこに立っていたのは、全身を黄金色の装飾が施された鎧で固めた大男だった。ギルドでも屈指の実力者として知られる、神鋼ランクの冒険者、"不動"のガレス。
「ガレスさん。おかげさまで」
「相変わらず無茶な戦い方をしてるそうじゃねえか。パーティを組めばいいだろ。ソロは効率が悪い。お前のその腕なら、引く手あまただろうに」
「無茶はしてませんよ。それに、ソロの方が気楽なんで。ガレスさんこそ、いつも一人じゃないですか」
「……ふん」
ガレスは鼻を鳴らすと、「死ぬなよ、坊主」とだけ言い残して去っていった。
ゼフィルはギルドを出て、併設されている安宿へと向かう。報酬の半分を宿代と食費、残りの半分を高価な魔法の触媒やポーション代に充てる。それが彼の日常だった。
部屋に荷物を放り投げ、彼は大きく伸びをする。
「さて、今日は何を食おうかな!肉だ、肉!山盛りの肉を食うぞ!」
笑顔で、彼は活気あふれる街へと再び駆け出していった。
* * *
――半年ほど前
王立四元素学院の大講堂は、荘厳さと熱気に満ちていた。天井には巨大な魔晶石が吊るされ、柔らかな光が降り注いでいる。壁面にはアーカディア魔王国の建国からの歴史を描いた壮大なフレスコ画が飾られ、四元素を象徴するステンドグラスがきらきらと輝いていた。
卒業生たちが整然と並ぶ中、ゼフィルは最前列の中央、首席の席に腰を下ろしていた。彼は背筋を伸ばし、まっすぐに前を見据えた。
来賓席の最前列には、ひときわ目を引く二人の人物が座っていた。
一人は、腰が曲がり、白髪の長髪に、長く白髭をたくわえた老人。穏やかな雰囲気を纏っているが、その瞳の奥には底知れない叡智が宿っている。先代の始原魔主にして、退いた現在は大秘儀師である、「賢聖」カストディウス・ペトラヴァルト。
そして、その隣。
陽光を弾いて輝く、白くふわふわとした豊かな髪。雪のように白い肌に、長いまつ毛が影を落とす。およそ魔道の頂点に立つ者とは思えない、儚げで可憐な少女。アーカディア魔王国が誇る最強の魔導師団、その頂点に立つ始原魔主である、「全能」ジュネーヴィエ・アルヴァ。彼女は荘厳な式典の最中だというのに、少し退屈そうに、きょろきょろと辺りを見回していた。やがて、その紫水晶のような瞳がゼフィルを捉えると、ぱあっと花が咲くように表情が輝き、ぶんぶんと小さく手を振った。ゼフィルは苦笑しながら、周りにはわからないように小さく手を振り返した。それだけで、彼女は満足そうにこくこくと頷き、居住まいを正した。
やがて、学院長による式辞が始まり、厳かな雰囲気の中で式は進行していく。生徒の名前が一人、また一人と呼ばれ、卒業証書を受け取っていく。そして、ついにその時が来た。
「――首席、ゼフィル・アンダー」
凛とした声で名前が呼ばれる。万雷の拍手が講堂に響き渡った。ゼフィルは静かに立ち上がり、壇上へと進む。学院長から卒業証書を受け取り、深く頭を下げた。
「首席、ゼフィル・アンダー。卒業生を代表し、答辞を述べよ」
ゼフィルは、講堂に集まったすべての人々に向き直った。教職員、在校生、来賓、そして、自分をまっすぐに見つめるジュネーヴィエ。一度、深く息を吸い込む。あれほど練習したというのに、緊張で手がプルプルと震える。
「ただいまご紹介にあずかりました、ゼフィル・アンダーです――」
「――以上を以て、本年度の王立四元素学院、卒業式を閉会する」
学院長の厳かな宣言が、マイク代わりの拡声魔法によって講堂の隅々にまで響き渡った。その瞬間、張り詰めていた空気が一気に弛緩し、卒業生たちの間から大きな拍手と歓声が沸き起こる。解放感に満ちた喧騒がゼフィルを包む。
「まさかお前が答辞で三回も噛むとは思わなかったぜ」
「笑うなよ!めちゃくちゃ緊張したんだからな!」
「やったな、ゼフィル! 首席卒業なんて、俺たち平民の星だぜ!進路はどこに進むんだ?」
「まあ、それは今後のお楽しみだな」
「わかってるぜ!もちろん魔導師団だろ? お前ならすぐに元素統帥まで駆け上がるさ」
誰もが、彼の未来を疑っていなかった。
「魔導師団かあ……」
ゼフィルはつぶやく。
王立魔道師団は、アーカディア魔王国最大の国防軍にして、世界最強の一つである。所属するだけで最高の名誉とされ、他国からも所属するための試験を受けるために集まってくる。前衛の魔剣士部隊と、後衛の火・水・土・風の四大隊に分かれ、それぞれが得意な元素魔法を駆使して集団戦闘を行う。魔の最高到達点、魔導師団の最高指揮官である始原魔主 (アルカヌム・プリムス)を頂点とし、四大師団を統括する始原魔主の補佐、大秘儀師 (グランド・アルカニスト)、四大元素大隊または魔剣士部隊の指揮官である元素統帥 (エレメンタル・ドミヌス)に分けられ、これらの位の者たちには王より二つ名が与えられ崇められる。当然、誰もが目指すあこがれの的だ。
王立四元素学院を首席で卒業した者が、王立魔導師団に入隊し、国のための栄光を掴む。それは、この国におけるエリートが歩むべき、定められた光の道だ。だが、ゼフィルの胸には、その光とは異なる、別の思いが渦巻いていた。
その時だった。喧騒を割って、魔導師団の紋章を刻んだ鎧を纏う一人の騎士が、彼の前に進み出た。
「ゼフィル・アンダー殿。始原魔主ジュネーヴィエ・アルヴァ様がお呼びです。ご足労願いたい」
周囲のざわめきが一瞬にして静まり返る。魔導師団の最高指揮官からの、直々の呼び出し。それが何を意味するのか、ここにいる者なら誰でも理解できた。羨望の眼差しが、今度は痛いほどに突き刺さる。
「……わかりました。ご案内を」
ゼフィルは短く答えると、騎士の後に続いた。向かう先は、学院の最上階。許された者しか立ち入ることのできない、始原魔主の執務室だ。磨き上げられた大理石の床に、二人の足音だけが静かに響く。一歩、また一歩と大理石の廊下を進むたびに、心臓の鼓動が速くなる。それは、恐怖や緊張とは違う。己の運命を、その手で掴み取るための、覚悟の音だった。
分厚く、荘厳な彫刻が施された扉の前で騎士が止まる。
「ゼフィル・アンダー殿をお連れしました」
「入りなさい」
穏やかな老人の声が聞こえ、恭しく扉が開かれると、ゼフィルはその部屋へと足を踏み入れた。
部屋の中は、天井はプラネタリウムのように星々が瞬く魔法が施され、壁一面を埋め尽くす本棚には、古今東西の貴重な魔導書がぎっしりと並んでいる。机や椅子といった調度品も、一目で最高級とわかる素材で作られた一級品だ。しかし、そんな豪華絢爛な空間は、持ち主の個人的な趣味で溢れかえっていた。豪華な執務机の上にはゼフィルを模したと思われるぬいぐるみが何個も置かれ、部屋の隅には天蓋付きのふりふりでふかふかとしたベッドまで鎮座している。よく見ると、壁には本棚に紛れてジュネーヴィエが描いたのであろう、拙いが味のあるゼフィルの似顔絵がこっそりと飾られていた。脱ぎ散らかされた服も相まって、随分と公私の区別が曖昧な空間だった。
そして部屋の奥、巨大な窓を背にして、カストディウスが穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「ゼフィル殿、卒業おめでとうございます。答辞、見事でしたぞ」
「カストディウス様……それは三回も読み間違えた私への皮肉でしょうか」
「そんなことはありませんぞ。気持ちがこもったよい答辞じゃった」
「……ありがとうございます」
そんな会話を交わし、
「儂はこれにて失礼させてもらいます。ジュネ様が、ずっとお待ちかねでしたからの」
そう言うと、カストディウスはゼフィルの肩をぽん、と優しく叩き、静かに部屋を出て行った。重厚な扉が閉まる音と共に、部屋には完全な静寂が訪れる。
「ゼフィル!」
その声と同時に、ふわりと甘い香りがした。振り返る間もなく、白い影が彼の胸に飛び込んでくる。
「卒業、おめでとう!」
ぎゅっと力強く抱きしめてくるのは、ローブを脱ぎ、軽やかな私服姿になったジュネーヴィエだった。身長はゼフィルの肩ほどしかなく、抱きしめられると、そのふわふわの髪が首筋をくすぐる。幼い頃と変わらない、無防備な愛情表現。
「ありがとう、ジュネ。……でも、いきなりは危ないだろ」
「んふふ。やっとだね!やっとこの日が来たんだね!」
彼女は顔を上げ、満面の笑みを浮かべる。長いまつ毛に縁どられた紫水晶のような瞳が、喜びでキラキラと輝いていた。
「もう、本当に長かったんだよ!私が学院卒業した後の四年、私がどれだけ退屈だったか知ってる? カストディウスはうるさいし、書類仕事はつまらないし、会議は眠くなるし……」
ぷう、と頬を膨らませる姿は、世界最強の魔導士の威厳など微塵も感じさせない、年相応の少女そのものだ。
「でも、これからはもう大丈夫! だって、ゼフィルが魔導師団に来てくれるから!」
ジュネーヴィエはゼフィルの腕を取り、ぶんぶんと振り回しながら続けた。
「やっと魔導師団だね! ゼフィルはすごいんだから、あっという間に元素統帥だよ! そしたら、私がすぐに大秘儀師にしてあげる! 二つ名は何がいいかなあ、『神速』とかどう? ゼフィルの風魔法はすっごく速くてかっこいいから! それとも『閃光』?うーん、どっちも素敵!」
悪意のない、純粋な期待。彼女が描く未来図は、輝かしく、誰からも祝福される道だ。彼女の隣で、彼女に守られながら、栄光の道を歩む。それは、どれほど甘美な誘惑だろうか。
「ねえ、ゼフィル? これで、またずっと一緒にいられるね?」
その言葉が、引き金になった。
ゼフィルはそっと彼女の腕を解くと、一歩下がり、真っ直ぐにその瞳を見つめ返した。
「……ジュネ。話があるんだ」
「なあに?『神速』も『閃光』も気に入らなかった?じゃあ、えーと……」
うんうん唸りながら考えるジュネーヴィエに対して、ゼフィルは深く、深く息を吸い込んだ。これから口にする言葉が、どれだけ彼女を傷つけるか分かっていた。それでも、言わなければならなかった。
「俺は、王立魔導師団には入らない」
一瞬の沈黙。
時が止まったかのように、部屋の空気が凍りついた。ジュネーヴィエの笑顔が、まるで仮面のように張り付いたまま、ゆっくりと色を失っていく。
「……え?いま、なんて……?」
あまりにもか細い声が、信じられないという響きを帯びて震える。
「俺は、魔導師団には入らない。冒険者になる」
「……ど、ど、どうして?冗談なら、今ならまだ許すよ?」
やっと絞り出したような声だった。
ゼフィルの決心した表情に、ジュネーヴィエはようやく本気だと理解する。
「なんで?どうしてなの?魔導師団に入れば、最高の環境で魔法を研究できるし、地位も、名誉も、お金も、全部手に入るし、それに安全だよ!私が、それを約束してあげる。冒険者なんて……危険で、いつ死ぬか分からない仕事じゃない!」
声が、震えている。
「分かってる」
ゼフィルは静かに頷いた。
「それでも、俺はその道を選ぶ。……ジュネ、覚えてるか? 12年前のあの日、俺たちが全部を失った日のこと」
その言葉に、ジュネーヴィエの肩がびくりと震えた。忘れられるはずがない。紫に染まった空、正体不明の魔物、そして目の前で失われた両親の命。
「あの時、俺は泣いてるお前に約束した。『僕が、ずっと守るよ』って」
あの日の光景が、鮮明に蘇る。瓦礫の中で震える小さな背中。無力な自分が、それでも必死に絞り出した誓いの言葉。
「でも、現実はどうだ? 君はたった一人で才能を開花させて、俺なんかがあっという間に追いつけない、遥か高みへ行ってしまった。今や君は、この国で、いや、世界で一番強い魔導士だ。俺は、君に守られているばかりで、何もできていない」
彼は拳を強く握りしめた。その爪が、掌に食い込む。
「俺は、ジュネに守られる存在じゃなくて、ジュネを守れる男になりたい。本当の意味で、ジュネの隣に立てる男に。それは、魔導師団では達成できないんだ。俺自身の力で、ゼロから這い上がって、誰にも文句を言わせないだけの強さを手に入れなきゃならない」
彼は真っ直ぐにジュネーヴィエの瞳を見据え、宣言した。その声には、微塵の揺らぎもなかった。
「俺は冒険者になって、天穹を目指す」
ギルド最高位、生ける伝説と謳われる不滅の称号。それは、あまりにも途方もなく、現実離れした目標だった。
「天穹になって、今度こそ俺が君を守る。……それが、新しい約束だ」
静寂が、部屋を支配した。
ジュネーヴィエは俯き、その表情は長い前髪に隠れて見えない。ただ、か細い肩が小刻みに震えているのが分かった。長い、長い沈黙の後、彼女はゆっくりと顔を上げた。
その顔に浮かんでいたのは、怒りでも、悲しみでもなく、完璧にコントロールされた、寂しげな微笑みだった。
「……そっか。それが、ゼフィルの夢なんだね」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
「分かった。ゼフィルが決めたことなら、私は応援するよ。……一番強い冒険者になって、私のこと、ちゃんと守ってね?」
「……ああ。必ず」
彼女のあまりに物分かりの良い態度に、ゼフィルは感謝と共に、胸の奥にぽっかりと穴が広がるような、一抹の寂しさを感じた。本当はもっと、駄々をこねてくれると思っていた。行かないで、と泣いて引き留めてくれると、どこかで期待していたのかもしれない。
「早く行かないと、ギルドの登録、閉まっちゃうよ?」
「……そうだな。俺はもう行くよ。ギルドに登録しなきゃならないからな」
「うん。……頑張ってね、ゼフィル」
ジュネーヴィエは、扉まで彼を見送った。そこには、信じられないほど穏やかで、完璧な笑顔が浮かんでいた。
扉が閉まる直前、ゼフィルは彼女が「ずっと見守ってるから」と小さく呟くのを聞いた気がした。
一人、廊下を歩き出す。もう、後戻りはできない。彼は空を見上げ、固く誓った。
(待っててくれ、ジュネ。必ず、最強になって帰ってくるから)
その背中は、迷いを振り切った決意に満ちていた。
ゼフィルが去り、パタン、と扉が完全に閉まった、その瞬間。
完璧な笑顔を浮かべていたジュネーヴィエの表情が、音を立てて崩れ落ちた。ピシリ、と部屋の空気が凍てつく。ジュネーヴィエの足元から、純白の霜が美しい結晶を描きながら広がり始め、部屋の温度が急速に低下していく。彼女の白くふわふわの髪が、魔力の奔流によってふわりと逆立った。そして瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出す。
「う……うわあああああああああああああああんっ!」
子供のように床に蹲り、彼女は泣き叫んだ。その声は、大陸最強の魔導士のそれではなく、ただ愛する者との別離を悲しむ、一人の少女のものだった。
次の瞬間、凄まじい魔力の嵐が部屋の中を吹き荒れた。
「ど、ど、どうなさいましたか?!」
ただならぬ気配を察して、カストディウスが飛び込んでくる。
「なんでよおおおおおおおおっ!」
ドンッ!という轟音と共に、彼女が手を向けた先の豪華な花瓶が木っ端微塵に砕け散る。
「魔導師団なら私が守ってあげられるのに!!!!! なんでわざわざそんな危険なところに行くのよ!!!!! 死んじゃったらどうしよう!!!!!」
彼女は床をごろごろと転げまわり、足をばたつかせて喚き散らした。高価な絨毯が彼女の涙で濡れていく。
「私を守るって約束したのに!!!!!なんで私から離れていくのよ!馬鹿!ゼフィルの馬鹿!」
「お、お辞めください!!ジュネ様!!」
カストディウスは、ただただおろおろと立ち尽くすしかなかった。長きにわたり魔を極め、数々の災厄を鎮めてきた生ける伝説も、荒れ狂う十代の少女の前では無力だった。
「じゅ、ジュネーヴィエ様、お、お気を確かに……! そ、その調度品は先代の国王陛下から賜ったもので……ああっ!」
カストディウスの悲鳴も虚しく、アンティークの椅子が小さな雷によって粉々になった。
「うるさーーーーい! カストディウスのせいよ! あなたがもっと早くゼフィルをスカウトしないから!」
「そ、そんな理不尽な!」
彼女の癇癪は留まることを知らず、一層強まっていく。
「私も辞める!こんなくだらない仕事、全部辞めて、私も冒険者になる!ぜフィルを追いかける!私がゼフィルを守るんだから!」
「ジュネ様、お、お落ち着きくだされ!ゼフィル殿も、覚悟の上での決断でございましょう!男の決断を無下にしてはいけませんぞ……!」
「知ってるわよ!だから我慢したんじゃない!笑顔で送り出してあげたじゃない!私、偉い!すっごく偉い!ものすっごく偉い!!!!でももう我慢の限界!!!」
彼女はその場にへたり込み、子供のように手足をばたつかせて泣きじゃくり始めた。
「私を守るって約束したのに!嘘つき!ぜフィルは嘘つきだ!冒険者になったら、色んなところに行くんでしょ!?綺麗な女の人とか、可愛い女の人とか、いっぱい会うに決まってる!ぜフィルはかっこいいんだから!絶対モテるもん!他の女に盗られたらどうしよう!!!!!いやああああああ!!!!」
嫉妬と不安と悲しみがごちゃ混ぜになった感情の嵐が、執務室をめちゃくちゃにしていく。豪華だった部屋は、竜巻が通り過ぎた後のように荒れ果てていた。
……この狂乱は、数日間続いた。
夜になれば、「ぜフィルがいないと眠れない」と泣き叫び、カストディウスに一晩中、ゼフィルの話を語らせた。
食事を出せば、「ぜフィルが作ったご飯じゃないと食べたくない」と皿をひっくり返し、公務の書類を見せれば、「こんな紙切れよりぜフィルの手紙が読みたい」と燃やした。
カストディウスは心身共に疲弊しきっていた。彼の腰は、この数日でさらに数センチは曲がったように感じられた。
(儂の引退は、一体いつになることやら……)
ボロボロになった執務室の隅で、賢聖と呼ばれた老人は、遠い目をして天を仰いだ。