4 幽霊屋敷
「ナナシちゃんはいい子ですよ。」
鬼乃崎さんがカウンターからコーヒーを運んできながら杏に話しかけた。
「見かけはこれですけど、素直ないい子です。母の作るクッキーの大ファンでして、とにかくみんなに勧めて回るんですよ。1つ食べてやってください。それで満足しますから——。」
鬼乃崎さんは源蔵さんの前に、アイスコーヒーと器に盛られたクッキーを置いた。
「こっちのじゃなくて、ナナシちゃんが持ってる方のやつをねぇ。」
源蔵さんがそう言いながら嬉しそうに揉み手をして(しているように見える動作をして)、それからその見えない手で自分の器のクッキーを1つつまんで口に入れた。
「いや、ほんと、美味しいですよ。女将さんのクッキー。」
杏はナナシが持っているクッキーの器を見て、それからもう一度、その妖怪の顔を見る。期待しながら、にこにこして・・・いるような気がする。
よく見れば、かわいいかもしれない。この子・・・。
杏はクッキーを1つ取って口に入れた。
「美味しい!」
思わず言葉になって出る。
ナナシの顔を見上げると、ナナシは本当に嬉しそうな顔をして、それから弾むような足取りでカウンターの方に歩いていった。
満足した——ということらしい。
うん。たしかに、かわいいかも。見た目はあれだけど——。
杏は少しずつ、ここの空気に馴染んできた。
そうして落ち着いて部屋の中を見渡すと、もう1人、小さな女の子がいることに気がついた。
あの声をかけてきた大学生の陰に隠れるようにして、興味津々の瞳でこちらを見ている。
7歳か8歳くらいだろうか。裾にフリルの付いた白い子ども用のドレスのようなものを着ている。
目が合ったので杏がにこっと微笑んでやると、女の子はまたパッと椅子の陰に隠れてしまった。
それからまた、そうっと覗く。
「かわいい。」
と杏は思わず声に出してしまう。お客さんの誰かの子どもだろうか?
「かわいいでしょう。」
と黒ずくめの矢田さんが目を細める。
「ヒロちゃんは、この家の主なんです。ちょっと恥ずかしがり屋さんの幽霊です。でも、馴染んでくれば結構活発に遊んでくれますよ。」
そう言って、矢田さんはまた帽子をひょいと持ち上げる。
え? 幽霊・・・?
「お嬢。このお姉さんはいい人ですよ。隠れてないでこっちにおいでなさいよ。」
源蔵さんが手招きをする。・・・いや、しているように見える動作をする。
一度だけ親戚の家に行った時、杏もこのくらいの年恰好だったと思う。
でも、こんなふうに優しく声をかけてもらった記憶はない。どちらかと言えば、穢れたものでも見るような目で見られていたのを覚えている。
帰り道、母親に
「あそこ、もう行きたくない・・・。」
と言ったことを思い出す。
女の子はまた、そうっと椅子の影からこちらを見た。
「お嬢、ほら。いつものやつやって見せてあげたら? このお姉さんに。」
源蔵さんがそう言うと、女の子は少し恥ずかしそうに頬を染めた。
杏が、うん、という感じに首を縦に振って笑ってやると、女の子はぱっと目を輝かせて、とととと・・・と広いところに出てきた。
足、あるじゃん。
女の子はそこで、くるっと回って見せる。フリルの付いたスカートが、ふわりと広がった。
源蔵さんや矢田さんがパチパチと拍手をする。杏も吊り込まれて一緒に拍手した。源蔵さんは手がないのに、音だけは出るようだ。
女の子は杏が拍手したのを見て、嬉しそうにもう一回、くるっとやった。
「かわいい!」
と、杏が声に出す。
女の子は、ぱっと頬を染め、ととと、と走って行って割烹着姿の幸子さんの腰に、ぺたっ、とくっついた。
かわいい子だぁ。
幽霊だなんて、人を担いでるでしょ。
矢田さんが目を細めながら、ぽそっと言う。
「あの子は、大正時代にこの家で殺されたんですよ。親戚の人間にね。そして、死体はこの家の何処かに埋められてるんです。だから、あの子はこの家から出て行くことができないんです。そんなこの家を、家守りのヤモさんが守ってきた。」
え? こ・・・殺された? 死体・・・・? 埋まってる・・・?
「そんなあの子の血のついた服を着替えさせることができたのが、幸子さんなんです。幸子さんは本当に素晴らしい人です。あの子にもやっと本当の家族ができたんです。」
そう言った矢田さんの目は、心なしか潤んでいた。
家族?
本当の家族・・・。
杏は改めて、カラスだという矢田さんの顔を見る。
この人は・・・、この一見怪しい黒ずくめの妖怪は、間違いなくヒロちゃんという女の子の幽霊を、その存在を愛している。
源蔵さんも、幸子さんも(この人は間違いなく人間だ)、お鈴さんも・・・。あの幽霊だという女の子を中心にして、何の悪意も混ざらない愛情に満ちている。
人と、人でないものが集うこの屋敷が、なぜかとても居心地がいいのはきっとそのせいだ。
家族・・・。
これが・・・、ほんとうの・・・・?
杏は思った。
わたしは「本当の家族」なんて、どんなものだか知らない。
少なくとも、自分が育ったような環境ではないのだろう——としか分からない・・・。
わたしと夏樹は、欠けていた『家族』を補おうとして、お互いを求めていたのかもしれない。
夏樹が付き合い始めて早々に「将来は、家族になろう」と言ったのは、わたしもそれを当然のように思っていたのは・・・。つまり・・・・。
ああ、ここに・・・、ずっとこうしていられたら・・・。
杏はふと、そんなことを思った。
ここに・・・この穏やかな空間の中にこのまま取り込まれて、妖怪になってしまう・・・。
あの女の子の家族に・・・・。
そんなふうに思うのは、やっぱりあのスイーツを食べたから・・・?
「帰り道が分からなくなりましたか?」
矢田さんが、にっこり笑って帽子を持ち上げた。




