1 ペンション幸
柚原杏は坂道の途中に、ふとその小さな門を見つけた。錆びついた古い鉄製の門扉で、擬石の門柱には小さな木の看板が取り付けてある。それだけが新しかった。
『ペンション幸』と書いてある。
目を上げると建物は古い洋館で、とてもじゃないが「ペンション」というようなシロモノじゃない。
ペンキは剥げかかり、庭は草茫々で、軒下にはところどころ蜘蛛の巣まで張っている。
どう見たって、廃墟だ。
何だろう、これ?
それでも、両側に夏草が生い茂った石畳のアプローチはきれいに掃除がしてあって、よく見ると門の内側に小さなイーゼルに乗せて黒板が置いてある。
そこには「ようこそペンション幸へ。門を開けてお入りください。ランチ、喫茶もあります。」の文字と優美な花のイラストがカラーチョークで描いてあった。
そのイラストに誘われるようにして、杏は門を開けた。
ギ、ギイィィ・・・
錆びついた門扉の軋む音がした。
杏は日泰寺を訪れた帰り道、ふとした気まぐれでここらを散策してみようと、駅に行く道から外れるように角を曲がってみたのだ。
参拝に行った、というよりは夏樹と出会ったこの場所にもう一度来ることで、自分の中のよく分からない気持ちを整理したかったのかもしれない。
柏原夏樹はフリーのイラストレーターだ。杏と知り合った頃はまだ専門学校生で、ここ覚王山の日泰寺に就活成就の祈願にやってきていた。
ちょうど日泰寺の縁日で、コロナもひと段落ついたことで参道はそれなりに賑わっていた。
「5円玉1コで就職できたら安上がりだね。」
そんな会話をしたことを覚えている。
夏樹が広告会社に就職した頃から、2人は一緒に暮らし始めた。
将来は家族になろう。
どちらから言い出したわけでもなく、2人してそんなことを言い合っていたのは、杏がまだ大学生だった頃だった。
あの頃は2人とも夢ではじけそうだった。
キラキラとした瞳でイラストやアニメについて語る夏樹を見ていて、杏は、この人となら一緒に人生を歩いてもいいかもしれない・・・とも思ったものだった。
しかし現実はそんなに甘くなかった。
コロナが終わって経済に活気が戻っていた。世間ではそう言われていた。
人手不足だ。売り手市場だ・・・。
そんなことが言われていたが、夏樹は希望したデザイン会社に入ることができず、小さな広告会社で思い描いていたのとは違う仕事をすることになった。
会社は副業を認めていたから、頑張ってNETに動画やイラストを投稿し続けていたが、今はそんな人がいっぱいいる。見つけてもらうのは簡単じゃない。
そんな夏樹の活動を見た専門学校時代の友人たちの紹介で、いくつかのイラストやキャラクターデザインの仕事が単発で舞い込んだりはしていた。
夏樹は思い切って会社を辞めてフリーになったが、甘い夢はまたしても現実の前に跪くことになった。すぐに仕事が増えるわけでもなく、辞めた会社の下請け仕事をやるようなことになったりと、生活もマインドも楽じゃない。
杏は杏で、大学で所属していたバンドはインディーズの活動だけで終わってしまい、できれば音楽の世界で生きてゆきたい——という夢は、夢のままで終わってしまった。
杏は大学の学部で学んだことをベースに、地元の中小企業に就職して地に足のついた道を歩み始めた。環境関係の検査会社で、これからの世の中では食いっぱぐれはなさそうな会社だ。中小といえど、待遇もそれなりにいい。
畢竟、杏の収入で夏樹の生活を支えるような状態が続いたまま、なんとなく2人とも20代後半を迎えてしまっている。
生ぬるい妥協の生活が続く間に、夢はいつしか古い幻燈機の映し出す絵を昼間に見るみたいに霞んだ力ないものになって、生活の隅っこに置き去りにされていった。
わたしは何がしたかったんだろう?
夏樹の夢がわたしの夢なんだろうか?
夏樹のことを嫌いになったわけじゃない。今だって夏樹の描くキャラクターも好きだ。
・・・・・でも、・・・わたしはどうしたいんだろう? このまま年だけ重ねてしまっていいんだろうか?
夏樹とちゃんと結婚する?
それが、今のこの中途半端な気持ちを整理する方法?
それとも・・・、夏樹から自由になりたい・・・?
杏は、初めから道を辿り直してみたかったのかもしれない。だから、いつもは2人で来るここに1人で来たんだろう。
そうして、お賽銭箱に5円玉を放り込んで願ったことは・・・。
夏樹の絵が認められますように——。
杏は、手を合わせ終わってから少し自嘲の笑いを漏らしてしまった。
それは・・・、今でも本心だろうか・・・?
きっとあの黒板のイラストが気になっちゃったのは、そんなことと関係しているのかもしれない。
綺麗な絵だった。
そのイラストを描いた人に会ってみたかった。
草の中の小路みたいなアプローチに入ってから、杏は少し躊躇した。
大丈夫なのか? こんなところに入って・・・。
改めて前を見る。
建物の壁は漆喰なのだろうか。ところどころ小さなひび割れが入り、枯れた蔦が絡まっている。
ペンションや喫茶をやっているなら、どうしてこれを掃除しないのかな・・・?
本当に営業しているの?
窓は桟で細かく区切られた昔風の洋風両開き窓で、そこに1枚1枚はめ込まれた硝子はやはり昔の硝子なのだろう、表面が少し波打っていて、映している景色を歪めていた。
その硝子の中から、何か良くないモノがこちらを眺めているような気がして、杏は思わず足を一歩引いた。
ざわっ・・・と、風もないのに夏草が揺れる。
小さな不安が、杏の中で頭をもたげる。
このまま進んでいいのだろうか・・・?
そんな杏の気持ちをつなぎ止めたのは、アプローチの先の玄関ドアだった。
重厚なそれは少し傷んでいる部分もあるようだったが、最近オイルが塗られたらしく、艶やかな濡れ色をしていて、杏を誘っているように見えた。
杏はそのままアプローチを進んで、玄関ドアの真鍮製の取手を引く。ドアベルがカランと音を鳴らした時、背中にぞくっとしたものを感じたような気がして、杏は思わず背後を振り返った。
アプローチの小路は曲がっていて、さっきの門は茂った草の陰に隠れて見えなくなっている。
あの先に、ちゃんとさっきの門はあるのだろうか・・・?
わたし、何やってるんだろう?
まずかったかもしれない・・・。こんな所に入ってきて・・・。
ここ、絶対妖しいじゃん。
「いらっしゃいませ。」
玄関の中で明るい声が聞こえて、杏はそんなかすかな疑惑から解き放たれて前を見た。
そして・・・。思わずのけぞった。
そこにいたのは、太ったガマガエルみたいな人で・・・。いや、人じゃないのか?
大きなぬるんとした顔で、目は笑い目だけど、両側に開いたような位置に付いている。鼻はただの2つの穴で・・・、大きく横に裂けた口は、間違いなく両生類か何かのそれだ。
太った胴体には、まるで似合わないエプロンを着けていて、そのエプロンの胸のところには『幸』というロゴがプリントしてある。
そのエプロンだけが現代的で、その下には何か紋付の羽織のようなものを着ていた。出鱈目なファッションだ。
その得体の知れない化け物が、精一杯の笑顔(?)を作って杏の前に立っていた。
笑顔・・・だよね? これ・・・。でもって・・・人間じゃ、ないよね・・・?
ここは・・・化け物屋敷・・・?
杏が思わず来た小路を戻ろうと後退ると、奥からもう1つ明るい声が聞こえた。
「いらっしゃい。あれ? 新しいお客さん?」
声の主は若い男性だった。年の頃は杏と同じくらいか。爽やかで温かい眼差しの人だ。同じように『幸』のロゴの入ったエプロンを着けている。
「新しいお客さんにいきなりヤモさんが出たら、そりゃあびっくりするよね。大丈夫。害はないよ。ここの家守りさんなんだ。どうぞ、入ってください。」
「ほうきゃあも? サービスのつもりだったんだが・・・。ほら、悪かったなも。気にせんといてちょう、わしは家守りだで。」
ヤモさんと呼ばれた妖怪(神様?)は、そんなふうに言って、にまあ、と大きな口で笑うと、すうぅ、と薄くなって消えてしまった。
あとにはエプロンだけが浮いている。あの体型だから紐の長さが足りなかったのか、後ろで何か別の紐を継ぎ足して結んであった。
それがふわふわと奥へと漂っていった。
それを見て、青年がくすりと笑う。
「別に消えなくてもいいのに——。」
「オカルトや廃墟趣味の方じゃないんですね? 珍しい。」
エプロンをした青年は、上がり框のところにスリッパを用意しながら杏に言った。
「私は鬼乃崎九郎といいます。ここのオーナー社長です。ここはそのテの趣味の人むけのホーンテッドペンションで、ランチや喫茶もやってます。お泊まりの方にはもれなくオバケがついてきます。あ、でもご心配なく。害のあるモノはいませんから ♪」
は? なんて・・・?