酔生夢死はまだ知らない
あるところにひとりのおんなのこがいました。
おんなのこはおかあさんといっしょに、ふたりでくらしていました。
あるひ、おかあさんはしんでしまいました。おかあさんは、おんなのこがころしました。わざとではありませんでした。まわりのおとなのひとたちはおんなのこはわるくないっていってくれました。
でも、おんなのこはしっていました。
おんなのこはこころにおおきなおおきな、ふさがることのないきずをおいました。
* * *
長い長い時間が過ぎて、女の子は高校生になりました。その女の子は、モルヒネちゃんという名前で、小さい頃は使えなかった漢字もいっぱい覚えて、難しい言葉も使えるようになりました。でも、ぽっかり心は空いたまま、空虚なその穴を埋めるものはその生涯に見つかることはありませんでした。時々もう忘れてしまったお母さんの顔が、靄を纏って頭にチラつくのです。その度モルヒネちゃんは激しい焦燥感に駆られ、襲いくる激しい頭痛に日々苦悩していました。
「おばあちゃん、おはよう…」
眠い目を擦りながらおばあちゃんからコーヒーを貰って少しだけ口に含み、飲み込む。今となっては習慣になっているこれも、「それ、わたしも飲みたい。」なんて言って初めは驚かれていました。最初は苦いのは得意ではありませんでしたが、今となってはこのブラックコーヒーが朝の眠気取りとなっていたのです。パジャマを脱いで、制服を着て、歯を磨いて、「行ってきます。」と。そしてまたこの無意味な一日が始まりました。
学校でモルヒネちゃんは、誰と話すこともありません。ただ窓の外を、空を、木々を、街を、鳥を、風を、ただただ呆然と見つめているだけ。明日を生きる希望も、昨日を捨てる希死も、そんなことを考える脳なんてないのです。誰もモルヒネちゃんに興味は持たないし、モルヒネちゃんも誰にも興味を持ちません。そしてまた、無意味な時間は過ぎていきます。ゆらゆらと流れる時間と、ぐちゃぐちゃに混ざった景色、お日様を浴びて微睡むモルヒネちゃんの耳に、ふと甲高い声が聞こえます。
「ねえ、なに寝てんの?起きなよ、ほら、朝だよっ!」
その声はモルヒネちゃんの机の脚を蹴りました。思わず顔を上げ、モルヒネちゃんはその声の主をじぃっと見つめます。
「なにその目。きもいんですけど。」
声の主、陽茉梨ちゃんはモルヒネちゃんを、まるで汚物でも見るような目で見てきます。なんでかは知らないけれど、陽茉梨ちゃんはモルヒネちゃんをいじめてきます。でも、いつもいつも彼女だけは、モルヒネちゃんを存在するものとして見てくれます。それが少しだけ、モルヒネちゃんには嬉しかった。だから彼女がいじめてくるとき、いつもモルヒネちゃんは笑顔です。陽茉梨ちゃんだけが、モルヒネちゃんの唯一の友達でした。モルヒネという名前も、彼女が付けてくれました。自分の名前が、お母さんが世界に遺したそれが嫌いだったモルヒネちゃんは、自分のことをモルヒネちゃんと呼ぶことにしました。
「まじでなんなの?いっつもにやにやして。ほんとにきもい!」
陽茉梨ちゃんはそう言って、モルヒネちゃんを蹴ります。でも、モルヒネちゃんは笑顔を崩しません。少しの喜びと恍惚ささえ浮かぶその笑みに彼女はまた忌避して去っていきます。そして、少しだけ寂しそうな目をしてから、また机にうつ伏せになります。
ふと、目を開くと空は赤くなっていて、それは一日が終わったことを表していました。辺りを見るとみんな帰りだしています。モルヒネちゃんも早く帰らなければなりません。
「あ、モルヒネじゃん。やっと起きたんだ。どこ行くの?お母さんも居ないのに、帰る場所なんてないでしょ。」
陽茉梨ちゃんがそう言って、一瞬で世界が真っ白になりました。わたしは動悸が早くなって、汗がぽたぽた垂れて、頭がぐわんぐわんして、でも笑みは崩さないまま、「えへっ、えへっ…うぇっ。」と気持ちの悪い喘声を上げて、そしてトイレに駆け込みます。お腹のぐるぐるを全部吐き出して、それから、お薬を少しだけ飲みました。このおくすりはいっかげつまえにひまりちゃんがくれたもので、のむときぶんがおちついてきます。おかあさんのことも、あたまのいたみもぜんぶわすれられます。どこでてにはいるのかはおしえてもらえません。ほしいならおかねをちょうだいっていって、わたしはおかねをはらって、ひまりちゃんからかっています。そのひはそのままおうちにかえってねむりました。
「おはよう、おばあちゃん…」
そう言ってコーヒーを飲み、昨日余ったお薬を持って、また無意味な一日が始まります。今日もいつもどおり、陽茉梨ちゃんにいじめられて、帰ってきたはずなのに、今日は帰ってきたのが夜中でした。夕方に何をしていたのかモルヒネちゃんは覚えていません。お腹のあたりが少し重くて、身体中疲れているような感じがしました。でも、特に気にも留めずに、その日もお薬も飲んで寝ました。
次の日朝目が覚めると、おばあちゃんが心配そうな顔でこちらを見ているのがわかりました。モルヒネちゃんの布団には、赤いのが付いていました。わたしはなんでかは知らないけど、また動悸が激しくなって、頭が真っ白になりました。赤いのを見ると、お母さんを思い出します。お母さんが死んじゃったとき、わたしは赤いのを沢山見ました。お母さんを起こそうとして、モルヒネちゃんの手も赤いのだらけになりました。赤いのは、ダメでした。わたしはそこから逃げ出して、またお薬をいっぱい飲みました。ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ、ぜんぶかきけすためにいっぱいのみました。だんだんとわたしはねむくなって、そこからはおぼえていません。
目が覚めると、そこは薄暗い路地裏でした。どうやらモルヒネちゃんはそこで寝てしまったようでした。身体が空気のように軽くて、気分も何故だか晴れていました。こんな清々しいのは久しぶりです。やっぱりお薬は効いたようでした。今日は学校をお休みしちゃったけど、また明日からしっかり行かないといけません。モルヒネちゃんは一回家に帰って、することもないのでニュースでも見ようとテレビを付けました。
女子高校生が薬物依存で死亡。被害者の日根野恋芥子(16)は知人から受け取っていたヘロインによる薬物中毒で死亡。知人やその兄などから暴行を受けていたとも見られ―――
そのニュースを見て、可哀想な子だと思いました。こけしちゃんはきっと苦しみながら死んでしまったのだろうな、と。でも何故か、とても気分が良かったのです。こけしちゃんは可哀想だけど、何故だか救われた。と心の中で安堵の声を洩らします。おばあちゃんは、泣いていました。
おしまい