第六十三話 破局への歩み
混ざりあった混沌から秩序の再構築というのは、アガディームを殺す行為ではある。
それに対立する復讐の女神の手によるグラーフ金貨をコストに支払うというのはなかなか興味深い構造だ。
ニヤニヤ笑うエントロピーの悪魔がガーランドに触れる。
『引き剥がすことで彼女は浄化されるだろうが、忘却の川の水を飲まぬことで混乱を生むかもしれんな』
悪魔はガーランドを見つめながらそう呟く。
「嘆きの川を超えるよりは遥かにましだろうさ」
悪魔はニヤニヤ笑いを消して私を見上げる。
『そうか、すでに……いや、まあいい』
再び悪魔はニヤニヤと笑い、ガーランドを見つめながら撫でていく。
冷たく、硬い感触。何かが内側から引き出され、ぼんやりとした何かが空中に渦巻く。
『受け取れ、罪人』
悪魔はその渦巻く何かを私に流し込んできた。貼り付けられた粘土を意識していたのはこれが初めてだ。
歓喜と怨嗟と渇望と怠惰と希望と絶望と傲慢と卑屈と慈愛と冷酷と……無数の対立を飲み込み、あるいは分断する。
「なるほどな。これはなかなか味わい深い」
ガーランドは灰色から銀に。
『さて、グラーフ金貨は食い尽くした。まだ足りぬ。レンの眼は返してもらおう。我が従者がうるさいのでな。それにしてもアーカットの信徒、貴様の働きは素晴らしい。天秤に色を与えるなどとはな』
悪魔はそう言うと私の左目に触れた。世界が暗転する。
〈主殿?〉
不思議な感覚だ。
《マスター?》
手袋を外す。銀色に光るガーランドがそこにある。
「ラルフ、あんた……?」
年若い褐色肌のエルフが語りかけてくる。
「お父さん」
「ラルフ」
「お師様?」
テーブルについている女性たちが次々と私に向かって声をかけてくる。
ああ、そうか。
私はラルフ・クロトフ。
元ディーフヴァルター帝国軍人。
オリヴィアの父。
リズの専属契約冒険者。
マリアの師。
そして
世界を統べるもの
頭を振る。そんな大層なものじゃない。私は不名誉除隊された、元軍人。
〈主殿、それは儂の一部じゃろ?〉
背中からディルファを取り出し、テーブルに置く。
〈嬢から分けられたあれはもともとは儂のものじゃからの。方向づけられていたとはいえ多少儂にも戻ってきたようでなぁ〉
「なるほど、世界を統べるものってのはお前の属性か」
〈ああ、それは儂の一部と至高の方のある種人間の部分が混ざり合ってできたものじゃろて〉
「ああ、そういう。なるほど」
見えていない左目の眼帯を触る。丸いものを感じない。眼帯を外す。
「鏡を」
リズがおずおずと手鏡を渡してくれた。元の顔、だ。
「さて、ガーランド。気分はどうだ?」
《最悪ですね。分断された記憶を予測で埋めているところですが、随分と私は罪深い存在となっていたようです》
〈お嬢には悪いことをしたの〉
「人のような応答をするな、疑似知性。お前らは所詮道具でしかない」
《その気……そんな、まさか》
「違うな。重なり合いを多重化した結果、というのは似ているが、ね」
彼は分岐した同じ存在、我らは彼の欠片を持つ者たち。
よって更に罪深く救いようがない。
堕落した魔術師。
甘ったれの次男坊。
少女を救うために神を殺すハッカー。
幾多の人間を無理やり重ね合わせ、こねくり回し、人の形にして焼き上げたもの。
アーカットが見たら何と言うか。
〈儂に飲まれておるのかの。儂はそんなに強大な存在ではなかったはずなんじゃがのう〉
「幾多の世界で呪詛を撒き散らしておきながら、強大ではない、とは謙遜がすぎるぞ魔剣」
「ねえちょっと! ラルフどうしたのさ!」
シャーリィが私の肩を掴んで揺する。
「人格は経験が形成する。では自らのものではない経験を言語を通じてではなく知覚することができる存在、それはいったいなんなのだろうな?」
更に言うならば人の形をしていないものの経験までも飲み込んでいる。
たかが魔剣一振りと侮った自分。それが今こうして降り掛かってきているわけだ。
とはいえ、これを本来の持ち主に返したら……これはガーランドと混じっていたがために助かったのだ。
「私は私である、という確信を失ったのはだいぶ前になるが、今はもうそのことすら曖昧でな」
数多の可能性の重ね合わせ。観測され収縮するはずだったなにものか。彼はきっと美しい式であったろう。
我が身はだめだ。欠片を持つということ、ただその一点でのみ交わっただけのホワイトノイズ。
「お父さん、やだぁ!」
幼子のような泣き声。不安定であった私がほんの少しだけ安定する。
「いなくなったら、あたしはまた一人になっちゃう! やだぁ!」
オリヴィアの頭を撫でる。
「いずれ、人は死ぬ。私には安寧ななにかがあるとはもう思えないが、それでもその事実は揺るがない。それが早いか遅いかの差はあれど、真実だ」
オリヴィアはイヤイヤと首を振る。
「めでたし、めでたし、とはいかないもんかねえ?」
シャーリィがため息混じりに問いかけてくる。
「私が英雄ならば、そうなっただろうね。だが残念ながらその器ではなかった。器からはみ出た粘土を落ちないようにするだけで精一杯だ」
リズはまっすぐ私を見ている。彼女はこの館の住人の中でおそらく最も強い。愁嘆場は数え切れないほどあっただろう。
「リズ。契約の途中解除についてはすまない」
「そう、ですね。でも、仕方がない、かな。これは」
そんなリズであっても震える声でそう答えていた。
「マリア。修行の途中で投げ出す形になってすまないな。だが基礎は叩き込んだつもりだ。あとはそれをどう自分の中で昇華するか、だ」
マリアは大きく頭を縦に振り、拳で目を擦った。
「そろそろ時間だろうな。シスター・イザベルやジャックたちにもよろしく言っておいてくれ」
時空を操作し、飛び込んだ。




