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第六十二話 取り戻すために外部から変えられる私、生き残るために変えられた従者

 自室のベッドに寝転がり、天井を眺める。

 最近、つらつらと思考を垂れ流すときにとる姿勢である。

 今日もどうにもなにもやる気が起きず、堕落した生活ではあるという自覚はあるのだが、やめられない。


 波動関数というものがある、らしい。自分の知識ではない。

 世界(ワールド)は確率に支配されている。世界を統べるもの(ワールドオーナー)を自称するガーランドは確率を操作するもの、らしい。

 確率を操作することは魔術行使と同一だという。黒猫方程式によれば(imaginary)( number)を扱うというが、ガーランドはディルファの扱う(void)を扱えない.

 ディルファは位相が変わるというが、それならば(imaginary)( number)もそうであろうと思うのだが。

 我々は数を拡張し続けている。

 整数。物を数えるということ。

 数直線を考えたときに、起点から右に伸ばされる数値。

 それにゼロの概念が持ち込まれた。ものが【ない】ことを示す概念。ほんの少し左へ伸ばした。

 数の間の数値。小数、分数。

 そして数直線はゼロを超えた左、負という値に拡張される。これは数値を180度回したといえる。

 符号ありの掛け算はこの回転を行う。負に負を掛けると正になるのは180度回転されるからだ。

 同じ数を掛ける処理をべき乗計算という。このうち二乗計算は特殊だ。

 同じ数を掛けるという操作は、負であるならば180度の回転を伴うため、必ず正になる。

 正であるならば回転を伴わず、そのまま正だ。

 この逆処理を行うのが平方根。

 1の平方根は1あるいは-1。

 2の平方根は1.41421356.....と永遠に続く無理数という値になる。

 これはまだいい。

 では-1の平方根は?

 そんなものは自然には存在しない。だがそれは()()

 これを(imaginary)( number)という。

 数直線上の解釈で言うならば、90度回転。2回掛けると180度回る。

 黒猫の方程式はこの(imaginary)( number)を利用する。

 波動関数を代入することで古典力学の再定義から積極的に現実(リアル)を操作できるはずなのだが、あくまでも(imaginary)( number)での操作にこだわっている。

 確率密度を扱うことを好んでいる?

 控えめなノックが思考の流れを止める。

「お師様、いまよろしいでしょうか」

「よくはないが、構わんよ」

 ベッドから身を起こして立ち上がり、ドアを開けてやる。

 そこには泣きそうな顔のマリアとオリヴィアがいた。

「どうした、二人で」

 二人に声をかけると、オリヴィアは私に抱きつき、マリアは私の右手を取って両手で包み込む。

 シャーリィとリズも少し離れたところに立っていた。

「あたしゃ、さ。自分で言うのも何だけど、まあまあ優秀な精霊術師だからねえ。大きすぎる心の動きは壁くらいじゃ止まらないんだよ」

「ああ、なるほど。いや、まあ、世界について考えていた。おそらくそれで大きな心の動きになったんだろう」

「ふぅん、なるほどねえ」

 シャーリィがため息混じりの返事をしてきた。苦笑を返しておく。

「まあ立ち話も何だ。ダイニングで茶でも飲みながら話すか」


 シャーリィが熱い黒茶をサーブしてくれる。

「あんまり惚れられた女を不安にさせないほうがいいよ、色男」

《木の股から生まれた疑惑のあるマスターですから、それは難しいかと思いますよ》

 ガーランドの軽口。普段なら気にしないのに、今日は妙に(しゃく)(さわ)る。

「木の股、ね。お前なんか至高の方の切れっ端だろうが」

 ガーランドは激しくレンズを点滅させる。

〈まあまあ、主殿。女性には優しくするものですぞ〉

「混じり合って腑抜けたか、魔剣」

 違和感。

 そこで自分が自分ではない感覚を飲み込むために茶をすする。

「ガーランド、()()やったな?」

《黙秘します》

「人格っていうものは、経験の連続によって構築される。それを途中から強引に混ぜ込むという行為は、壊す行為だ。至高の方は多元宇宙に散った。それをかき集めて一つにこねようとしても、すでに多元宇宙に取り込まれ消えているものもある。そもそもガーランド、お前は自分を維持するために何をした」

「お父さん、怖いです……」

 オリヴィアが怯えている。一度大きく息を吸い込み、吐き出す。微笑みを浮かべ、オリヴィアの頭を右手で撫でる。

「私は別に怒っているわけではない。ただ、これは重要な話なんだ。私が私であることを保証しなければならない」

「お父さんが、お父さんであること?」

「オリヴィアの父であるというのは、私の属性の一つだな。ジャックたちの養父でもあるし、リズとは専属契約を結んでいるギルド職員と冒険者という属性があり、シャーリィは私の身元引受人、マリアは……なんだろうな」

「ひどいですお師様!」

「まあ、押しかけ弟子ってところか」

 マリアの怒りの声に苦笑で答える。

「それらの属性は『経験が形作る私』だ。私が私であること、とも言える」

 茶をすすって喉を潤す。

「だがガーランドはそこに『私ではない経験』という粘土を引っ付けてくる。私の形を変えてくる。それは私を壊す行為だ」

《でも! それは!》

「従者として有能なうちならばよかったんだが、な。余計なことをする。混じり合ったなにものかを分離するというのは悪魔がいなければできないが、その悪魔は系を乱さずに分離することができない。結果分離は何かを犠牲にする必要がある」

 そこで俺はため息を一つついた。

「ガーランド、すべてのグラーフ金貨を吐き出せ」

 テーブルの上にグラーフ金貨が山積みにされる。

「え⁉ これ、全部、グラーフ金貨なの⁉」

 リズが呆れたように金貨の山を見る。

「グラーフ金貨の価値、アルテアの鋳造品という()()。さて、その価値を代償にしてみようか」

 情報はエネルギーだ。1単位を失わせることで k ln 2 のエントロピーを得られる。

 グラーフ金貨の情報量は豊富ではあるが、それでもカフェオレからコーヒーとミルクを取り出すのはかなりの手間になる。おそらくほぼ全てのグラーフ金貨を失うだろう。だが暴走する従者を抱える方が危険だ。

 ガーランドが歪んだのは凶悪なほどのエネルギーの奔流に巻き込まれてディルファと混じり合った結果だ。

 ならば、それを分離してやることでガーランド本来の思考に戻るはず。問題は分離したディルファの一部だが、それは私が引き受けることとしよう。すでに私は肥大化し、その程度では揺るがないようになっている。

 自分自身を分離しない理由は簡単だ。自分を分離している間にこの知識を失えば制御ができなくなる。それは全員の破滅だ。私はそんなことを望んでいない。

 にやにやと笑う悪魔の姿が見えた。

 私もよくわかっていないので適当ですけども簡単な解説。


・黒猫方程式

 シュレーディンガー方程式。これに波動関数を代入して変形すると量子論的ハミルトン–ヤコビ方程式を得られる。これは量子ポテンシャル理論で扱う数式で虚数だけではなく実数も扱う。


・まじりあったなにものかを分離する悪魔

 マクスウェルの悪魔あるいはシラードのエンジン


・1単位を失うことで k ln 2 のエントロピーを得られる

 1ビットを失うことで得られるエントロピーはボルツマンの定義 k ln W により k ln 2。kはボルツマン定数、ln は e を底とした対数。

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