60.ロスソニエル(1)
魔力を固めて作られた、美しい水晶でできた小瓶に閉じ込められ、小蜘蛛はもう身動きをとることもできない。あの不快な臭いもなくなり、ミモザはほっと肩の力を――抜けたらよかったのだが、部屋の緊張感がそれを許さなかった。
ガーディアの執務室、彼に会いに来る客と話すための応接セットのある部屋には五人の不老不死の者たちが勢ぞろいをし、シトロンやミモザはどこか居心地の悪さを感じていた。
「あの臭いが俺たちにだけわかったのはドラゴンの気配だったからだろうな」
顔をしかめてガーディアは言った。
「実際の臭いではなく、魂か魔力か――そういうものが変異して腐ったニオイになっていたんだろう。同胞喰のせいで」
「同胞喰って……?」
「そういう風習が昔はあったんだよ」
首を傾げるミモザにキャロックがやさしく答えた。
「君もシトロンもまだ若いから知らなくて当然だ」
「一部の魔族の間にあった風習ですよ。エルフにはありませんが」
「ドラゴンにはあった。俺はやったことがないが」
「やられたらたまったものじゃない」とベレナングレンが嫌そうな顔をした。
「同族の体の一部を取り込んで自分の力を強めることができるんだ。ドラゴンなら角や爪、鱗でもいい――取り込んだ分だけ強くなれる。ただし同族の同意がなければならないし、どんなに同胞の一部を取り込んでも強さには限りはある。それに」
ガーディアは蜘蛛を見下ろした。
「もし相手が同族でなかったり、同意を得ていなかったりした状態で同胞喰を行えばそれは禁呪となって喰った側を呪う――力は手に入るが、体は腐っていく」
「この蜘蛛がその同胞喰をしたんですか?」
シトロンは何となくキャロックの方を見ながらたずねた。シトロンに問いかけられたキャロックはうれしそうで、ミモザから見ても孫に相好を崩す祖父のようだった。
「その可能性は高い。しかも、ドラゴンを喰った可能性がね」
「逆はないのですか?」
そうたずねたのはベレナングレンだ。
「なくはないが……この小蜘蛛を操った本体がどこかにいるのを考えれば、可能性は低いだろうな。ドラゴンなら俺が気づく」
ドラゴンたちの王である星影の竜のガーディアは全てのドラゴンの存在を感じることができる。しかもこのザルガンドで暮らすドラゴンはミモザと蘭の館のクヴィストだけだ。もし他のドラゴンがこの国に来て何か動きを見せればガーディアが気づかないはずがない。
ベレナングレンは納得した様子だったが、キャロックは何かを考えこむように蜘蛛の入った小瓶へと視線を向けた。
「この小蜘蛛は生き物ではなく誰かの魔法そのもののようだね。取り憑いた者の心に入り込むような魔法だ」
黙って小蜘蛛を観察していたベレナングレンの父、エレンヒアは瓶を手に取り目線の高さに掲げてそう言った。
「こういう魔法の術者はそう遠くないところにいるはずだ。離れた場所からこういうものを操る魔法はなかったと思う」
遠く離れた場所からこの小蜘蛛を操るような魔法は最も古い魔族である彼らが知る限り存在しなかった。
「心の弱い部分に入り込み、利用し、うまく動かす――取り憑かれた者は、操られている自覚もないだろう」
ロスソニエルもそうだったのだろうか? ミモザとシトロンは顔を見合わせた。
***
どこか遠くの方で、軍人たちの威勢のいいかけ声が響いていた。
ぼんやりと浮上した意識と視界がまず捕らえたのは、見覚えのある白い天井だ――そこが中枢区にある医療棟“蛇の巣”の一室だとロスソニエルはすぐに気づいた。演習などで負傷した軍人はこの蛇の巣に運び込まれることが多い。負傷した場所が王都内ならばなおさらだ。元々王都で勤務していたロスソニエルも時折ここの世話になっていた。
自分が何をしたのかはっきりと覚えている。
どうしてここにいるのかも。ただ、頭の中が妙にすっきりとしていて、その感覚がむしろロスソニエルをぼんやりとさせていた。
「目が覚めたのですね」
聞こえてきた声に引き上げられ顔を動かす。ロスソニエルは一瞬、そこに母の姿を見て目覚めたばかりの身を強ばらせた。しかしそこにいたのは母ではなく、母と似た顔立ちの女性が、穏やかな春の日の湖のような光をたたえたエメラルドグリーンでロスソニエルを見下ろしていた。
「お、伯母様……」
発した声はかすれている。自分はどれくらい寝ていたのだろうか? その疑問が顔に出ていたのか、軍のトップであるケンタオアを夫に持つロスソニエルの伯母――プリュイは「あなたがここに運び込まれて一日ほどです」と告げた。
「体は?」
「はい……何ともありません……」
体を起こしながらロスソニエルはうなずいた。伯母の顔を見ることはできなかった。雰囲気や性格は全く違うが母と似た顔立ちを見ると暗い気持ちに支配されそうになる。
「そう……よかった」
「えっ?」
顔を上げると目を細めてこちらを見下ろすプリュイと目が合った。その視線にこめられたものに何か聞きたい気持ちになったけれど、口を開いても聞くべき言葉が見つからない。それを見つけようとする思考はしかし、病室の扉を叩く音によって遮られてしまった。
伯母のプリュイが返事をし、「失礼します」とは言って部屋に入ってきたのはシトロンだった。
「まあ、シトロン様」
「プリュイ様、いらっしゃっていたんですね」
「ええ。シトロン様はどうしてこちらに?」
「様子を見に――ミモザも気にしていたので」
シトロンが口にした名前に、ロスソニエルはさっと顔をそらした。
「いつ目が覚めたのですか?」
「ついさっきですよ」
シトロンの問いに伯母が答えるのが聞こえた。ロスソニエルの視界にある白いシーツに影が落ちる。すぐ傍にシトロンが立ったのがわかっても、彼女は顔を上げることができなかった。
「自分がしたことを覚えているのか?」
冷ややかな声が頭の上に落とされた。
「不老不死の方たちの話だと――お前は魔法で操られていたらしい」
魔法……あの使用人のドラゴンを憎む気持ちは魔法によるものだったのだろうか?
「だがその魔法は相手の心の弱さに入り込み、感情を誘導して操るものだ。お前がしたことはお前の心の弱さに起因している。魔法はただのきっかけにすぎない」
ロスソニエルが全てを魔法のせいにして逃避する前にシトロンの厳しい声が現実を突き付けた。口元を引き結んだロスソニエルの表情こそシトロンには見えなかったが、拳を強く握りしめたその手から彼女の感情がシトロンにも伝わってくるようだった。
「あなたはできそこないなのだから」と、誰かが幼いロスソニエルに言っている光景がふと脳裏に浮かんだ。
*** ***
王都の一番外側の区画――第一区には軍の施設が多くある。その中には身寄りのない子どもたちが暮らす施設もあった。この王国にはそういう施設がいくつかあるのだが、軍のそれは――将来、軍に入るかどうかは別にして――子どもたちに読み書きからはじまる基礎教育や、武術、戦闘で使える魔法を教えたり、軍部で荷物運びや掃除などのちょっとした雑用をして給金を与えたりしていることが特徴だった。
子どもたちの訓練には施設で暮らしている子ども以外も通っていた。主に軍部で働く親を持つ子どもたちだったが、シトロンも王宮で暮らすようになるとそこに通うようになっていた。そしてその中に、ロスソニエルもいた。
以前この場所でロスソニエルを見かけたことがあり、その時のことで印象に残っていたのもあってシトロンはすぐに彼女の顔と名前を覚えた。関わり合いにはなりたくなかったが。
「こんなことをさせて何になるのかしら」
水分補給のために剣を振る子どもたちから離れ水を飲んでいたシトロンの耳は、少し離れたところで子どもたちの様子を見学していた大人たちの声を拾い上げた。ちらりと視線を向けると、背の低い女性がとなりにいる夫らしく男性に話しかけている。
ちょうどそこにロスソニエルがやって来たことからシトロンはその大人たちがロスソニエルの関係者であることがわかった。「いつまでこんなことをつづけるの?」と女性がロスソニエルに言うのが聞こえた。
「剣ができるようになって一体何になるのかしら? 魔力も鱗粉も増えるわけではないのに……あなたはできそこないなのだから、無駄なことはせずに大人しく暮らしていればいいのよ」
となりにいる男性が女性をたしなめるのが聞こえたが、ロスソニエルの声は聞こえてこなかった。
その二人がロスソニエルの両親だと知ったのは随分後のことだ。シトロンがその光景を見たのはその時だけだったが、その時の言葉が記憶にある会話にぴたりと繋がるのを感じた。
ロスソニエルは軍の元帥を務めるケンタオアの姪――彼の妻であるプリュイがロスソニエルの母の姉だった――で、彼女は故郷を離れて伯母夫婦のところで暮らしながらこの訓練に参加していた。
ロスソニエルの故郷である“輝きの湖”はこのザルガンドで妖精たちが多く暮らす場所の一つだ。湖の妖精やその周囲にあふれる自然から生まれた妖精たちの中でも特に力が――魔力はもちろん、妖精独自の能力である幻術の力が重要視されていた――強い一族にプリュイとその妹は生まれた。
プリュイは同じ妖精族ではなくケンタウロスである夫と出会い彼の元に嫁いだが、妹は輝きの湖で暮らす妖精族の一人と結婚し、そしてロスソニエルが生まれた。
ロスソニエルは生まれた時から翅の鱗粉が同世代の子どもたちよりも少なく、また、魔力もそれほどパッとしなかった。そしてロスソニエルの母はそれを最大の不幸だというように嘆き悲しみ、ロスソニエルに対してもそういう態度を取りつづけた。
家族はもちろんプリュイを含めた親戚たちもそのことを幾度となく注意したが改善されず、ロスソニエルは自分の鱗粉や魔力が少ないことに対してひどいコンプレックスを抱くようになっていた。それが悪いことで、自分はできそこないなのだと――。
プリュイや彼女の夫はそんな姪にしょっちゅう会うことはできなかったが会うたびに気にかけ、ある日彼女の夫であるケンタオアが気まぐれにロスソニエルに剣を教えたところ楽しそうに学んでいたことから、ロスソニエルの父親と相談し、彼女を預かることを決意した。
ロスソニエルにその話をした時、彼女は少し考え、それからうなずいた。そうして王都にあるケンタオアとプリュイの屋敷で暮らすことになり、ロスソニエルは母から離れることになったのだ。
もちろん、根付いたコンプレックスがそう簡単に消えることはない。
軍でのロスソニエルは以前ほど鱗粉や魔力の量を気になくなったように見えた。しかしそうではなかったのだとプリュイたちが気づいたのは、国王であるガーディアの元にアルディモアから聖女を務めていた王女が嫁いできてからだった。
ザルガンドの王妃となった彼女は人間にしては確かに強い魔力を持っていたが、魔族の中に入ればそれほどでもない。しかし特に人間と魔族の力の差などを気にすることなくのびのびとザルガンドで暮らしていた。
母国でも身寄りのない子どもたちのことで心を砕いていた王妃はザルガンドでもそういう子どもたちが過ごせる施設があると知るとよく顔を出すようになった。このやさしい人間の女性を子どもたちも歓迎した。それはロスソニエルも同じだった。
シトロンが、王妃が軍部の施設の子どもたちの様子を見に行くのにはじめて同行したのは彼が王宮で暮らすようになってそう日もたっていない頃だった。狼の姿のまま王妃の腕に抱かれていた彼は、彼女が王妃と共にやってきた中枢区の文官や軍部の者たちと話しているのに退屈して今は鼻を地面に擦りつけながら興味深そうにあちこち見回っていた。
さっきまで子どもたちに囲まれてやさしい笑顔を向けていた王妃は、今は大人に囲まれて先ほどとは違う微笑みを浮かべている。訓練に戻ったはずの子どもたちは王妃と話せたことに興奮して剣を持ったままあれこれとおしゃべりをしていた。
王妃がほめられていると、くすぐったい気持ちになるのはなぜだろう――落ち着かない気持ちで歩き回っていたシトロンは、ふと聞こえてきた声にぴたりと足を止めた。
「王妃さまはすごいのです――わたしより弱い人間なのにみんなから好かれていて、あの国王陛下だって王妃さまを大切になさっていて」
伯母であるプリュイに熱心に語っていたのはロスソニエルだ。
「全然できそこないじゃありません」
くすぐったい気持ちが吹き飛び、言葉にできないざらりとしたものがシトロンの胸の中に残った。
「ロスソニエル」
プリュイは困ったような声で姪に呼びかけた。少し言葉を選びながらも、次に発した声には厳しさが滲んでいた。
「そんな言い方をしてはいけません。あなただってそんな風に言われたら嫌でしょう?」
ロスソニエルはきょとんとしてプリュイを見上げたが、少し考え、それから神妙にうなずいて謝罪の言葉を口にした。プリュイには彼女が抱えるコンプレックスが原因なのはわかっていた。
ロスソニエルは王妃をわかりやすく慕っていたが、見学に来たプリュイに王妃のことを話す時はたびたびそういう言い方をした。シトロンも何度か耳にしたことがある。そのたびにあのざらりとした感覚が胸を過り、不快になった。
何故、ロスソニエルがああいう言い方をするのか――その原因に触れたのはしばらく後、あの日、彼女の母親の言葉を聞いた時だ。この場所で……。
――あなたはできそこないなのだから
母親からそう言われつづけてきたロスソニエルが、自分より魔力の少ない王妃を無意識にできそこないではないと口にすることで、魔力に関しては王妃よりマシな自分もできそこないではないのだと他の誰でもない自分自身に言い聞かせているのだろうとシトロンは気がついた。




