59.同胞喰
冷たい風がミモザの頬を打った。使用人の誰かが悲鳴を上げるのが聞こえ、ミモザは咄嗟に身をひるがえして庭へと飛び出した。瞬間、ミモザのすぐ傍で丁寧に形を整えられた低木がその枝や濃い緑色の葉を飛び散らせた。
庭を担当する使用人たちに申し訳ない気持ちを抱きながら振り返ると同時にぞわりと肌をこする感覚がして、ミモザは魔法でその強い斬撃を防いだ。ロスソニエルの剣だ。細身のそれはそれなりに使い込まれている。軍人たちは皆、普段愛用している武器を召喚できる術を持っているというが、こんな王宮の庭園で、不審者がいるわけでもないのに武器を出すのはありえないことだ。ただの使用人であるミモザだってそのくらいは知っている。
眉をひそめたミモザに、ロスソニエルの剣の切っ先よりも鋭い視線が向けられた。幼い頃から直情的なところはあり、言葉であれこれと責めるところはあったが、こうして手を出してくることはなかったと思う。
剣を受け止めるように差し出していた腕を振れば見えない魔力の盾がバチンと音を立ててロスソニエルの剣をはじいた。その勢いで数歩後退したロスソニエルがいら立ちも露わに舌打ちをするのが聞こえる。
どうして突然こんなことを――それに、あの悪臭は明らかにロスソニエルからしていた。
「やめて」と口にする前に視界からロスソニエルが消え、一気に間合いを詰められる。軍人として鍛えているロスソニエルの斬撃は鋭く、その速さは相当のものだろう。ただの使用人であるミモザが魔力任せのところもあるとは言えそれを防げるのは過去の――前世の経験が大きいからだろうか。
「お前さえいなければ!!」
ロスソニエルの声には憎しみさえ宿っているようだった。
「わたしがいなくなったところで、死んだ人は生き返りません」
魔力の盾で斬撃をいなし、ミモザはきっぱりとそう言った。鍛えていないこの体では反撃は難しいが、本来の姿に戻ればあるいは――しかしこの美しい庭園はそう開けているわけではなく、ミモザが本来の姿に戻るには狭すぎる。
「誰にとなりを許すかも、陛下はご自分で選びます――」
いつだって、彼はそうしてきた。彼自身が、彼の最愛を捜しに来た。
「自分が同じドラゴンだから選ばれると思っているのか!?」
「そんなこと言っていません」
「うるさい!!」
振り上げた剣に視線を取られる――同時に、あの悪臭がはっきりと強くなるのを感じミモザはひどい吐き気に襲われた。呼吸が辛くなるような臭いだ。あまりの臭いに視界が揺れる。のどの奥から、胃液がこみあげてくるような――
臭いに意識をとられ、振り下ろされる剣に対し防御が遅くなったのがわかった。
「母上!!」
しかし別の方向から飛んできた魔力の塊がロスソニエルの剣を弾き飛ばした。
ミモザを庇うように、金色の毛皮を持つ狼がその毛を逆立て、低いうなり声をあげてロスソニエルに対峙している。包み込むような魔力によって悪臭が和らいだのを感じた。駆け付けたシトロンがミモザを守るために防御魔法で彼女を覆ったおかげだ。
「シトロン……!!」
憎々し気にロスソニエルがシトロンを睨んだ。ミモザに対する悪感情とは違う種類の感情に見えた。昔もそうだった。ミモザの前世である王妃に実の子のように扱われるシトロンに対し、ロスソニエルは嫉妬に似た感情を抱いていた。
「シトロン、どうして……」
彼にだけ聞こえるようにささやきかけると、シトロンはロスソニエルを警戒したままちらりとミモザを振り返った。
「陛下と一緒にいたんだ。母上のところに行くように言われて……陛下は手が離せなそうだったから」
たしかにこの騒ぎをガーディアが気づかないはずがない。それにサンルームには関係のない使用人もいた。誰かを呼びに行ってもおかしくはなかった。
「シトロン、なぜそんな女を庇う!!」
「彼女には俺が妃候補になるよう頼んだんだ。危険な目に合わせるわけにはいかない」
駆け付けた時シトロンが思わずミモザを母と呼んだことに、ロスソニエルは気づかなかったのだろうか? ミモザは疑問に思った。
それに、鼻のいいシトロンはこの臭いが平気なのだろうか?
「王宮の庭園で平時に剣を抜くことが許されると思っているのか?」
「その女は陛下を惑わしてる! 排除するのは当然だ!!」
「バカを言うな」
ロスソニエルとは対照的にシトロンは冷静だった。
「それに口には気をつけろ。お前の言葉は、陛下が若いドラゴンに惑わされる程度の存在だと言っているようなものだぞ、ロッソ」
鋭い爪のある前足が地面を微かに削る音がした。しかしシトロンから攻撃することはない。ロスソニエルが剣を握り直すのを注意深く見ながら、あくまで正当防衛の範囲に収めておく方が後々面倒が起きないだろうと彼は考えていた。
「大体妃候補は他にもいるのにどうして彼女だけを攻撃する? 辞退した妖精の候補者が幻術を使っていた時は何もしなかっただろう」
惑わしているというなら、フィアレンセの方がよほど惑わしていた。彼女は実際に幻術を使っていたのだから。
「うるさい!! わたしが幻術をうまく使えないとバカにしているのか!!?」
「そんなこと言ってないだろ……」
あの臭いがまた強まった気がして、ミモザは眉をひそめた。
「さすがに様子が変だと思う……」
あきれた様子でロスソニエルを見据えるシトロンにこそりと耳うちする。シトロンもうなずいた。
「変な臭いもするし……」
「臭い?」
「何かが腐ったみたいな……シトロンはしないの?」
「いや……ただ、ロッソにしては魔力の気配が強い気はする……」
困惑しながらもシトロンはじっとロスソニエルを観察した。ミモザの言う臭いはシトロンの優れた鼻でどういうわけか感じ取ることができない。しかし一方で、ロスソニエルから普段は感じられない強い魔力の気配を先ほどから感じていた。
「何をコソコソ話している! わたしをバカにしているのか!?」
猛然と向かってきたロスソニエルにシトロンが文字通り牙をむいた。
どんなに速く鋭い攻撃も彼の前では無意味のようだった。切っ先を恐れることなく四肢で地面を蹴り、彼女が剣を持つ利き腕に食らいつく。
しかし軍人としての意地がそうさせるのか、痛みで顔を歪めてもロスソニエルは決して剣を離そうとはしなかった。代わりにシトロンの腹部めがけて茶会のためにいつもよりかかとが高く装飾の多いブーツで蹴りが飛ぶ。
それを予想していたようにシトロンは食らいついていた腕を放し、ひらりと身をひるがえして音もなく地面に降り立った。手ごたえのなさにロスソニエルはますますいら立った様子を見せた。蹴りは彼の腹部をかすりもしない――軍人でも何でもないこの狼は、しかし歴戦の勇士のように隙なく構えている。
それすらも、腹立たしい――。
蹴りをしくじった脚が地面を蹴り、隙が無いならば作るまでとロスソニエルはシトロンに向かった。その判断が間違っていたことに気づいた時には、彼女の振り上げた剣はもう収めることができなかった。
魔力が大きく膨れ上がる。
ロスソニエルにはない、強い魔力が――咆哮と共に見えない魔力の塊がロスソニエルを吹き飛ばした。サンルームのガラスの壁にその体は魔力の塊ごと打ち付けられ、耳障りな音が辺りに大きく響き渡り、ガラスの破片が飛び散って日の光の下でこの状況には不釣り合いに美しく煌めいていた。
さっきまでロスソニエルから感じていた悪臭がゆらりと揺れるのを感じ、ミモザは不吉な予感に襲われた。「母上!?」とシトロンの声を背中で聞きながら、ぐったりと意識を失っている様子のロスソニエルの体に思わず駆け寄ろうとした。早くしなければ、何かまずいことになるような気がした。
「おっと」
また別の、場の空気に不釣り合いなのんびりとした声が響いたのはその時だった。
ガーディアとは対照的な白が、何の前触れもなくその場に現れたのは。
「!! キャロック様!!」
人型に戻りながらミモザに駆け寄ったシトロンが驚いたように声を上げた。白い男はミモザを見ると一瞬だけ驚いたように目を丸くしたが、やがて穏やかに微笑んだ。
「ひどい臭いだ」
キャロックはその手に小蜘蛛を捕まえていた。ぐったりとして、死んでいるようにも見える。しかし確かにあの臭いがその小蜘蛛からしていた。
「あなたは……」
「私はキャロック。宝石竜の子、今の君の名は?」
「……ミモザです」
ミモザはキャロックとどこかで会ったことがあるような気がした。その気配はドラゴンに似ているが、全く別のもののような気もする。「私は星明けの山脈の主をしている」とキャロックは言った。ここからも見える白い山脈そのものなのだと。だから知っている気がしてもおかしくないと。
「不老不死の方ですか?」
「そうだよ」
何でもないようにキャロックは言った。
「随分な騒ぎだね。シトロン、ケガはないかい?」
「はい……」
シトロンはサンルームを破壊してしまったことを気にしているようだった。
「宝石竜の子、君は?」
「わたしも平気です。それより、その蜘蛛……」
「ああ……何だろうね」
「この臭いが、キャロックさまもわかるんですか?」
「君も? ではやはり――」
キャロックの表情が厳しくなった。と同時にガヤガヤと誰かが近づく気配がして三人は振り返った。制服姿の軍人がちょうど到着したところだった。中枢区の警備を担当している者たちのようだ。
「ミモザ!」
別の方向から声が聞こえ、ガーディアとベレナングレンもやって来た。ベレナングレンは壊されたサンルームを一瞥し、それからシトロンを見たが身をすくませたシトロンに何か言うことはなかった。
軍人たちはサンルームにいた使用人が呼んでくれたようだ。幸い、サンルームが壊された時にはもう中に人はいなかった。ベレナングレンが素早く指示し、意識を失ったままのロスソニエルはそのまま軍部へと運ばれることになった。手当てを受け、意識が戻ったら事情を聞く必要があるからだ。
「ロスソニエルがミモザを?」
ガーディアは眉をひそめた。
「まさかこんなことまでしでかすなんてな」
「彼女の心の弱さが招いたことだが、彼女だけに責任があるわけではない」
キャロックが静かに言った。
「これのせいだろう」
小蜘蛛を見て、ガーディアは思わず顔をそらした。
「酷い臭いだ……」
「臭い?」
聞き返したベレナングレンに、ガーディアは信じられないような視線を向けた。
「ベレナングレンとシトロンにはわからないだろうね」
「どういうことだ?」
「私とガーディア、それからこの宝石竜の子にはわかる臭いだ」
ミモザはその意味がわからず、ガーディアを見上げた。金色の瞳が大きく見開かれる。信じられないとその顔には書いてあった。
「まさか……」
「どういうこと?」
ガーディアはキャロックに捕らえられている小さな蜘蛛を憎々しげに見た。のどが低く唸りを上げる。そんなはずはない――しかし、それ以外には考えられなかった。
「……同胞喰だ」
これで第二章はおしまいです。
ここまでが改稿分だったので三章からは完全新規投稿になります。
ある程度書き溜めてから更新をはじめる予定です。
再開の時はTwitterでお知らせします。よろしくお願いします。




