55.不老不死の者たち
「まあ、あんなに空が割れてしまって」
おっとりとした口調で女は言った。腰まで伸びた美しい金髪がやわらかな風に吹かれている。澄み切った青空の下、名も無き王都を包む結界は大きくヒビ割れて空をいびつに歪めていた。
「よほど腹に据えかねることがあったのだろう」
女と寄り添うように立っていた男が言った。
「ヴァラドールはまた彼の愛する者とめぐり合ったようだ。彼女に何かあったのか……」
「しかしこうして朝や昼が訪れているのだから問題はないのだろう。我々が呼び出されたのは結界の修復のためのようだし」
別の男がそれに答えた。岩を思わせる質感の髪を持つ、真っ白な男だった。
「ヴァラドールのことはともかく、どんな理由であっても久しぶりにあの子に会えるのはうれしいわ」
うっとりと女は言った。二人の男はあいまいに笑うだけに留まった。彼女が楽しみにしていてもあちらがそうだとは限らないからだ。
一陣の風が吹き、そして止んだ。もうそこに三人の姿は見つからなかった。
***
翌日は朝から冷え込んでいたが、部屋の窓を閉め切ればそこから差し込む日の光が生んだひだまりが心地よい空間を作り出していた。今日はまだ休むように言われたミモザは寮の自室でのんびりと過ごしている。今朝、ガーディアの部屋で目が覚めてから戻ってきたのだが、ガーディアは少し残念そうな顔をしながらも送り出してくれた。客が来ることも一因だろう。
「ベレナングレン様はずっとイライラしているよ」
「帰って来たからずっとだけど」と、茶菓子を持ってミモザの部屋を訪れたシトロンが言った。彼も今日は休みになったらしい。ガーディアからミモザがしっかり休んでいるか見張るように言われたのだという。
「王都の結界のこと、母上は知ってた?」
「ちょっとだけ」
温かいお茶にスライスしたオレンジが浮いている。このハーブはオレンジの甘味を引き出してくれて、寒い日にはとても人気だ。
「前世でこの国に嫁いできた時に説明を受けたの。王都の壁の数だけ結界があるって」
シトロンもベレナングレンから聞いて今回はじめて結界について知った。名も無き王都はこの中枢区までに四つの壁があるが、同じ数だけ結界がはられていること。今回は四つともヒビが入ってしまったこと。ベレナングレンの力だけではそれを直せないことを。
「その、彼は夜を呼ぶでしょう? この国ができた頃はザルガンドだけじゃなくて周囲の人間の国も夜になってしまうことがあったみたいで、それを防ぐために結界をはった理由の一つみたい。一番の理由はガーディア自身らしいけど……」
ザルガンドの国土である暗闇の森もその入口には結界がはられているが、それはどちらかというと外敵を阻むためのものだ。しかし王都の結界はその逆の役目がある。シトロンは驚いたような、妙に納得したような顔をした。今回、ガーディアの怒りを目の当たりにしたからだろう。あんな風にガーディアが怒ったのをシトロンが見たのははじめてだった。
「陛下を防ぐ結界か……」
いつも不機嫌そうなベレナングレンが帰国してからずっとイライラしていた理由がシトロンにはわかった。ガーディアはドラゴンたちの中で最も強いといわれる星影の竜だが、そもそもが全ての魔族の中でも最も力が強い魔族でもあった。
ベレナングレンも強い魔族ではあるが、彼一人の力ではガーディアの力を防ぐための結界をはるのは難しい。ならばどうするか――同じように力の強い魔族と協力して結界をはったのだ。
「今日、誰が来るのか聞いてなかったけど……」
シトロンは興味深そうに黒い瞳に浮かぶ月のような瞳孔を丸くした。
「不老不死の方たちが?」
魔族は総じて人間を含めた他の生き物――植物はその限りではないが――より長命だ。それは体に宿る魔力の量が関係していると言われている。魔力が多く、強い者ほど寿命も長く、若い期間――厳密に言うと身体的にも魔力的にも最も優れた期間が長くなり年を取るのもゆっくりになっていく。
もちろん、どんなに寿命が長くてもいずれは死が訪れるし、病気やケガなどで死ぬこともありうる。しかしこれに当てはまらない魔族がこの世には五人いた。
彼らは、不老不死の者たちと呼ばれて魔族たちから畏敬の念を抱かれている。
不老不死の者たちはその呼び名のとおりある一定の年齢から年を取らず、どんな要因であっても死というものが訪れない。たとえば普通なら命に関わる傷を負ってもその強大な魔力がその傷が命をおびやかさないよう無意識にふるわれるのだという。
ガーディアはもちろん、ベレナングレンも不老不死の者たちの一人だ。
早朝の霜を踏みしめたような高い音がして、ミモザとシトロンは顔を上げた。窓を開けて外を見るとなんとなく空気が変わった感じがする。
「ヒビが――」
ミモザが空を見上げると、今朝まではそこにあったヒビが消えてなくなっていた。
「不老不死の方たちが帰ったら、ベレナングレン様の機嫌もマシになるかな……?」
それはどうだろう……ミモザは何とも言えなかった。今世ではまだほとんど話してもいないが、前世の記憶を思い返してもベレナングレンはいつもあんな感じだ。
「そんなに彼のことが苦手なの?」
「苦手というか……尊敬はしているよ、もちろん」
言いづらそうにシトロンは言った。
「母上が亡くなった後も陛下とは養子縁組をする話が出なかったから、従者みたいなことをしてたんだけどずっとそればかりってわけにもいかなかったし……それで秘書官って役目を作ることになったんだけど、仕事をベレナングレン様から教わったんだ」
「ああ……」
さぞ厳しかっただろう。
「陛下は俺を甘やかすからって……そんなことないと思うけど……」
「そう?」
なんだかんだ言って、ガーディアはシトロンには甘い気がする。ミモザもそれに関しては他者のことを言えないが、どうにもならない親心なのだ。
***
「ああ、会いたかったわ、ルシオン! わたしたちの太陽」
まぶしい笑顔で両腕を広げて駆け寄ってくる女性の姿と自分のとなりでごっそりと表情を落とした男の姿にガーディアは笑いをかみ殺した。女性は全く気にもせず、太陽と呼んだ男――ベレナングレンをしっかりと抱きしめた。
ルシオンは生まれた時に名付けられたベレナングレンの元々の名前だ。彼がこの名前を心の底から嫌っているのをガーディアは知っていた。それに何より“魅力ある者”という意味の名前がこのいつも不機嫌なエルフには似合わな過ぎて、最初の頃は腹を抱えて笑い転げていたくらいだ。
「あなたときたらちっとも会いに来てもくれないし、手紙さえくれないんですもの」
「この子も忙しいんだから仕方ないんだよ、ティヌヴィエル」
遅れてやって来た男がやさしく言った。
「それにこの子ももう大人なんだから」
今度こそ吹き出しそうになったガーディアをベレナングレンは恨めしそうに睨んだ。
「久しぶりだね、ベレナングレン。それにガーディアも」
先のとがった耳を持つエルフの夫婦は思考の森と呼ばれる場所で暮らすエルフたちの長だった。思考の森はザルガンドができる前からエルフたちが暮らしており、彼らはその時の名残で今でも王や王妃と呼ばれている。
エルフたちの王であるエレンヒアは美しい銀色の髪と緑色の瞳、涼やかな美貌を持っていた。運命を見る力に優れていると言われ、彼の元には国中から多くの者が助言を求めて訪れる。
その妃であるエレンターリは薄い色の金髪と新緑の瞳を持つ絶世の美女で、かつてはティヌヴィエルと呼ばれていたが、エレンヒアの妃となったことでエレンターリと呼ばれるようになった。そしてティヌヴィエルと呼ばれていた頃、彼女は夫よりも強大な魔力を持っていた。今でも魔力の扱いに長けている。
そして二人はベレナングレンの実の両親だった。ガーディアも昔から――ザルガンドができる前、彼は一時思考の森で過ごしていたことがあったため――この親子を知っている。エレンターリは息子を溺愛していたが肝心の息子はそれをわずらわしく思っていたため、できる限り両親と関わらずにいたがっていた。
だから結界にヒビが入って彼の機嫌が悪くなったのだ。この結界をベレナングレンは一人で直せない。他の不老不死の者たちの力を借りなければならなかった。
「ガーディア」
最後にやってきた一人が穏やかにその名を呼んだ。笑いを引っ込め、ガーディアは顔を上げた。白い岩肌のような髪と肌、薄い灰色の瞳を持つ、おそろしく美しい男がそこにいた。
「キャロック……」
「元気そうだ」
男は微笑んだ。キャロックはこの五人の中でもっとも古くから生きていると言われている。実際のところ、彼がいつこの世に生を受けたのかは誰も知らない。キャロックは星明けの山脈の主で、普段はめったに姿を現さなかった。
「シトロンは? 一緒じゃないのか?」
「今日は休みを取らせている」
「君の愛する者と一緒にいるのかな?」
ガーディアの眉がぴくりと動いた。
「それなら早く仕事を終わらせましょう」
エレンターリがほがらかに言った。
「わたしたちもこの子と一緒に過ごせる時間が長くなるし、キャロックもシトロンに会いに行けるわ」
「結界を直し終わったらすぐに帰ってください」
「まあ、そんな悲しいこと言わないで、ルシオン」
「今の名はベレナングレンです」
うなるようにベレナングレンは言った。
「とにかく仕事をしてしまおう。色々と聞きたいこともあるんだ。何にせよしばらくは滞在させてもらうよ」
とりなすように言ったエレンヒアの声には、有無を言わさぬ響きがあった。
***
ロスソニエルは内心のいら立ちが顔に現れないように奥歯を噛みしめた。いら立ちの原因はいくつかある。一つは夜会が終わった翌日からガーディアは妃候補の中からあの使用人を選ぶのでは? と噂されるようになったからだ。夜会でのガーディアの態度はもちろん、翌日にガーディアがあの使用人の候補者を星宮に連れて行ったのを見た者がいたらしい。
ロスソニエルもまた妃候補だがドゥーイの牽制の意味合いで軍部がねじ込んだ候補だったため、自分が選ばれないのは全く問題がない。しかし、ロスソニエルは亡くなった王妃以外をガーディアのとなりに認めたくはなかった。
そしてもう一つのいら立ちの原因は、今、目の前にいる母だった。夜会にともに出席するために王都へやって来た母はまだ帰らずに王都に留まり、今日もこうしてロスソニエルに会いに来ている。そして母もまた、どこかで噂を耳にしたらしい。
「折角候補者に選ばれたのに……」
「何度も言っているけど、わたしが候補者になったのは財務大臣のドゥーイを牽制するためだ」
「だけど人間だって王妃になれたのだから、魔力が少ないあなただって希望があるわ」
母の言葉にロスソニエルは今度こそ眉をひそめた。
母はいつもこうだ――家族の中でも魔力が少なく、その上妖精族特有の力である幻術の源となる翅の鱗粉も少なかったロスソニエルを悪気なく貶める。幼い頃からロスソニエルはそれが嫌でたまらなかった。
仕事に戻らなければいけないと言って、まだ何か言い足りなそうにする母の前から立ち去り、ロスソニエルは伯母に頼んで母に早く帰ってもらおうと決意した。ロスソニエルの言葉より伯母――母の姉の言葉の方を母は聞き入れるのを知っていた。
誰の気配もない廊下を進んでいる間も、いら立ちは収まらない。別に王妃になりたいわけではないし、むしろ亡くなった王妃のことを今でも尊敬している。母にあんな風に言われて腹が立たないわけがない。
アルディモアの聖女だった亡き王妃は人間にしては強い魔力を持っていたが、魔族しかいないこのザルガンドではその強さも大したことはなかった。それでも国民から慕われる王妃のことをロスソニエルもまた慕っていた。
幼いながらに魔力が弱いことをコンプレックスに思っていたロスソニエルは、王妃という地位にいる自分より魔力の弱い人間を慕い傍にいることで、自分は母に言われるほどひどくはないと、そういう風に貶められる筋合いはないと安心したかったのかもしれないが、彼女にその自覚はなかった。
立ち止まり、いら立ちを発散するように壁を殴った。すぐ傍にある窓は外と中の温度差のためか結露し、その曇りは本来見えるはずの美しい庭園の風景をぼんやりとさせている。しかしどうしてか、窓のすぐ外にある蜘蛛の巣だけがはっきりと視界の端に映りこんでいることにロスソニエルは気づかなかった。そして、
こんなにイライラするのは母のせいだ――母さえいなければ……いや、夜会さえなければ母は王都へ来なかったはずだ。それに――それに、あの使用人の娘が陛下に不必要に近づかなければよかったのだ。あの使用人の娘が、陛下に近づきさえしなければ……。
そして、窓の外の蜘蛛の巣に留まっていたはずの小蜘蛛がいつの間にか窓の内側にいたことにも、ロスソニエルは気がつかなかった。




