51.ミモザの過去Ⅰ
凍えるように寒い、真白な雪の積もった冬の朝を思わせるような澄んだ音が、静かな川沿いの道に響いていた。
「どうしたらできるの?」
父に肩車をされたミモザが濃い紫色の美しい角越しに音が流れる方向へと視線を向けると、母が遠くの方でこちらに手を振っているのが見えた。ミモザも父のまねをしてその音を出そうとしてみるけれどうまくできず、のどからはただ空気が漏れただけだった。
「ミモザにはまだ早いさ」
「どうして?」
父が声を立てて笑うのにミモザはムッとしながらたずねた。
その音が、ドラゴンののどの奥にある竜玉と呼ばれる部分を震わせることで発せられるのは知っていたけれど、幼いミモザは一度だって成功したことがない。
「もっと大きくならないとできないんだ」
「大きくって、どのくらい?」
ミモザはもう内面だけなら十分に大人だったけれど。
アルディモアの辺境、聖女の街の傍に小さな村がある。近くに川があり、農業や染物が日々の暮らしを支えていた。平和で穏やかなその村には、聖女の街が近かったからか人間と魔族が当たり前のように共に暮らしている。そこでミモザは美しい角と容姿を持つ宝石竜の両親と共に暮らしていた。
物心ついた時にはもうこの村で暮らしていたミモザは両親以外の宝石竜に会ったことがない。幼い頃に宝石竜は山奥にひっそりと暮らしているのだと聞いたことはあったが、それ以外で両親が他の宝石竜のことを話したことは一度だってなかった。宝石竜はその見た目から魔族や人間などの種族に問わず欲に目のくらんだ者たち狙われやすく、そのために隠れて暮らしているのだと知ったのは随分後――ザルガンドに来てからだ。
両親がどうしてアルディモアとはいえ人間の国で暮らすようになったのかはミモザにはわからなかったが、大きな体を持ちほがらかで人当たりのいい性格をした父と、美しく少し夢見がちなところはあるが穏やかな気質の母は村の人気者だった。
物心ついた頃にはミモザは、自分に生まれる前の――前世の記憶があることに気がついた。ミモザとして生まれる前の十にもなる人生の記憶はミモザの年には不釣り合いな知識と経験を与え、彼女の心を成長させてしまったけれど、ミモザはうまく自分の心と折り合いをつけ、少しだけ大人びたところのある子どもとして過ごすことができていた。ドラゴンとして生まれたのがはじめてだったから、というのも大きいかもしれない。
それに、父はミモザに少し不思議なところがあると気づいているように思うのに、それを気にせずにミモザを愛情かけてかわいがってくれた。愛らしい母も同じだった。だからミモザはミモザとして両親に思い切り甘え、子どもらしくすねたりわがままを言ったりすることもできた。
「お母さんみたいに、素敵な女性になったら」
父は言った。
「そのくらいになったらきっと伴侶が見つかって、自然とできるようになる」
「はんりょ?」
意味はもちろん知っていたが、ミモザは子どもらしく知らないフリをした。
「愛しいと思う相手のことだよ。この音はその相手に大切だよ、愛しているよって伝える音なんだ」
「ふうん」とミモザは返事をしながら父の鈍色の髪に頬をつけた。少しごわごわとした髪が、西に傾きはじめた太陽の光で時折銀色に見える瞬間を見つけるのがミモザは好きだった。
父の音に返すように、似たような澄んだ音が聞こえる。母からだ。少しずつ近づいてくるその音が止んだ時、ミモザは顔を上げた。
「あら、ミモザ。どうしたの?」
娘がふてくされていると思ったのか、母がたずねた。ミモザは顔立ちこそ母によく似ていたが、母の瞳と角の色は美しい湖のようなエメラルドの色をしていた。
「なんでもないよ」と言うミモザを肩車したままの父に、母が寄り添って歩き出す。となりに住んでいる人が父を訪ねて来たので散歩に出かけていた二人を捜しに来たのだと言った。父はよく村の住民たちに頼まれごとを――力仕事が多かった――する。みんなが父を頼りにしていてミモザはそれが自慢だったが、母は少し不満そうだった。
母はいくつになっても少女のように父に恋していいた。父も母を愛していたが、母の気持ちの方が強いことはミモザの目から見ても明らかだった。もちろん母がミモザをないがしろにするようなことはなかったし、母のそういう面も含めてミモザは母を慕っていたがどこか不安な気持ちを覚えずにはいられなかった。
***
その不安が的中することになったのは、ミモザが生まれて十年ほどたった頃――見た目は人間でいうと五歳くらいの子どもだった頃のことだった。その年、村の近くを流れる川が大雨で氾濫を起こした。村の人間の子どもが一人川に流されミモザの父がその子を助けたのだ。自分の命と引き換えに……。
父は最期まで本来の姿には戻らず、濁流に飲み込まれた遺体はその後発見されたがボロボロで、村の人たちが協力して立派な葬儀をしてくれた。
ミモザは母と二人きりになった。
予想していたことではあったが、母は父がいないとダメだった。すっかりふさぎこみ、家にこもってばかりになった。夢見がちで、ふわふわと頼りなく、誰かに守ってもらえなければ生きていけない性格が表に出はじめつつあった。
それでもミモザにはやさしい母で、ミモザが懇願すれば少しは外に出てくれることもあったし、決してミモザにつらく当たることはなかった。いつか母が元気になってくれるのを信じていた。しかしミモザが二人の生活を支えなければならなかった。ミモザが懇願して外に出てくれるといっても働きに出てくれるわけではなく、あくまでちょっとした散歩やせいぜい必要な物の買い物につき合ってくれるだけだ。
村の住民たちはドラゴンの母娘を気にかけて手を貸してくれたが、母と二人きりで生活をしていくには、ミモザはもう、ただのミモザでいることはできなかった。まだ親に甘えたい年頃の、ドラゴンの子どもではない……千年の時の中で何度も生まれ変わり、様々な生涯を送ってきたミモザにならなければ。その知識と経験が、ミモザと母を助けてくれると彼女はちゃんとわかっていた。
教えられていない家のことができても、母は何の疑問にも思わない。村の住民の手伝い――畑や染物などの仕事の手伝いを申し出て大人よりうまくそれをこなしても、村の住民たちは父に教わったのだろうと思ってくれた。生活費はミモザが稼いだ。父が生きていた頃よりも稼ぎは減ったが二人だけならなんとか暮らしていけた。
***
父が亡くなり、六年ほどたとうとしていた。母は相変わらずふさぎこんでいることが多く、父が亡くなったばかりの頃よりも外に出ることは多くなったがその雰囲気はいつも陰を含んでいた。ミモザの見た目は少し成長していたが人間でいうとまだどう見ても子どもで、今ではあの日父が助けた子の方が大きくなっている。
村は平和だった。未だ父の墓には毎日のように花が添えられ、墓の掃除なども村の住民たちはみんな手伝ってくれている。もちろん、一番助けてくれるのがあの日父が助けてくれた子なのは言うまでもない。大人たちは専門家を雇って川に堤防を作り、あのような氾濫が起きないように考えて行動してくれた時は本当にうれしかった。
「五日後くらいに行商が来るんだってさ」
その日、畑で採れたイモを運びながら村の子どもであるジョアンが言った。ジョアンはあの日、父が助けた子どもだ。あの時はミモザと同じくらいの見た目だった彼も、今はミモザより少しだけ年上に見える。そのせいか、この頃はミモザに対して兄のように接していた。
「ケイトの家族と行くんだけど、一緒に行かないか? おばさんも誘ってさ」
「ケイトが嫌がると思うけど」
あきれたようにミモザが言うと、ジョアンはきょとんとした。ケイトはジョアンと同い年の女の子で、村で唯一の食堂を開いている。この村の住民たちは特別な日にその食堂で食事をするのがお決まりで、ミモザも幼い頃に家族三人で食べに行ったことがある。今は足が遠のいてしまったが。
ケイトは明るく、そばかすが可愛らしい女の子で人気もあったがミモザの目から見ても明らかにジョアンに好意を寄せていた。おかげでこの頃――ジョアンがミモザに兄のようにふるまうようになってから――ミモザはケイトにちょっとだけ嫌われている。
「……お母さんと、二人で行くから大丈夫」
「そっか。最近、おばさんどうなんだ?」
「いつもと変わらないよ」
淡々とミモザは言った。それが変わることになるとはその時は思ってもみなかった。
その男は、村にやって来た行商の一人だった。
この村は聖女の街から馬車で半日ほどの距離にあったので何か買い物がある時は村の住民が協力し合って数人が代表で買い物に出かける。一方で、こうして旅の行商が聖女の街に来たついでにとこの村を含めたいくつかの近隣の村々に脚を向けてくれることがあった。
ミモザはジョアンに告げたとおり、母を誘って行商たちが開いた露店へと出かけた。珍しい食べ物や服飾品、本やボードゲームなどの娯楽品、行商によって様々な種類の商品が並べられている。途中、ジョアンとケイトがそれぞれの家族と一緒に買い物に来たのに出くわして少しだけおしゃべりをしつつ、ミモザは母と一緒に保存食と、新しい服を作るための布を購入した。
「お嬢さん、よかったらこちらも見ていきませんか?」
荷物を抱えた母娘がそろって顔を上げると金髪碧眼の、行商にしてはどこか品のある男がにこやかに声をかけてきたところだった。男は母に声をかけたらしく、母のとなりにミモザの姿を見つけると驚いたように目を丸くした。
「し、失礼……奥様でしたか。かわいらしいお嬢さんですね」
母は少しだけ表情をやわらげ、「ありがとうございます」と言った。男の露店をのぞくと、どうやら装飾品を取り扱っている商人らしい。凝った細工の物から日常で普段使いにできそうな物まで様々な商品が並んでいた。
母は父が亡くなってから装飾品なんて身につけなかったし、ミモザもあまり装飾品には興味がなかったので見ているだけだったが、男はそんなことを気にしない様子で今まで行った街や村の様子などを穏やかな声で語って聞かせ、母娘は思いのほか楽しい時間を過ごすことができた。
行商たちは数日間滞在した。最終日には昼食会が開かれ、村の住民たちが腕によりをかけたごちそうがふるまわれた。装飾品の行商の男は母娘を見かけるとよく話しかけてくれ、最終日には二人でおそろいの髪飾りを買うまでになった。
昼食会の時にミモザから少し離れたところで親し気に話す二人の姿を見た時からなんとなくそんな感じはしていたが、母と男の距離は確実に近づいていた。しかも男は行商たちが立ち去って一週間もしない内に再び村を訪れたのだ。
「聖女の街の知り合いがやっている店を間借りして、商売をすることにしたんです。期間限定ですが」
母に会いに来た男がそう穏やかに語るのをミモザも聞いていた。
「しばらくは聖女の街に滞在します。もし迷惑でなかったら……こうしてここに、あなたに会いに来てもかまわないでしょうか? あなたのことが、もっと知りたいんです」
「まあ」
差し出されたのは小ぶりの花束だった。母はそのエメラルドの瞳を丸くして男と花束を交互に見つめていた。
母が拒絶したら男は村に来るつもりはなかったようだ。しかし母は拒絶せず、男は足しげく村へと通った。やがて母が聖女の街に男に会いに行くようにもなり、二人の仲は急速に縮まっていった。
男は母に夢中のようだった。ミモザという娘がいてもかまわないようで、ミモザにもよくお菓子などを手土産に持ってきてくれた。ミモザは生まれてから十六年ほどだったが、男はミモザの見た目からまだ十歳にもならない子どもだと思っているらしい。ミモザは母のためにも自分の年齢については男に真実を告げないことにした。
母は男に少しずつ好意を抱くようになっていた。父を亡くしてからすっかり暗くなっていた母の表情が明るくなったことに村の住民たちも喜んでいた。
数か月後、男が聖女の街を去る時が来た。母と男がもう恋人同士と呼べる関係になっていることをミモザは知っていたし、母からもきちんと報告を受けていた。相手は人間だが、かつて人間として魔族であるガーディアと愛しあったこともあるミモザにはそれが反対する理由にはならなかった。寿命の違いなどは母と男が考えるべきことだ。
男は母にプロポーズをし、母もそれを受け入れた。結婚は男の故郷に行ってからになる。男はアルディモアの国民ではなかったからだ。ミモザは母と生まれ育った家を片づけ、村の住民たちに父の墓のことを頼み、男の荷馬車に乗って男の故郷へと引っ越していった。
それがベライドだと聞いたのはもちろん引っ越しの話が出た時でミモザはそれを不安に思った。ベライドでは魔族に対する偏見が強いのは有名な話だし、母もそのことは不安にしていた。
男はアルディモアと友好な関係をつづけるには偏見をなくそうと考える貴族が増えていること、何かあったら自分が必ず守ることを母娘に誓い、引っ越しの説得をした。荷馬車は順調に旅をつづけ――途中の宿泊先で母娘が冷たい視線にさらされた時、男は誓いのとおりに二人を守った――男の故郷へとたどり着いた。
男はベライドの伯爵家の出身だった。伯爵は彼の兄で、継ぐ領地や爵位がなかった彼は独立して商売をはじめたのだという。男は実家へ結婚の報告に言ったが母娘が男の家族に会うことは叶わなかった。「いずれ顔を合わせる機会を設けるよ」と男は言った。保証人のサインだけはすんなりもらえたらしい。
教会で、その結婚届に男と母はサインをした。しあわせそうに笑う母のとなりで、ミモザもまた男と親子になるための書類にサインをする。新しい父親として書かれた男の名前――ラングドール・バラガンという名前を見た時、ミモザは胸の奥にざわりと不快な感情が這い出したような感覚がした。




