36.ここからはじまる
むっつりと黙り込み、腕を組んだ彼――アーゴルは目の前に広がる畑を睨んでいた。厳密に言うとそこにいる女をだ。
この小さな家の居候になって数日もすれば、ケガがだいぶよくなったのを理由に女はアーゴルに仕事の手伝いをするように言ってきた。図々しいヤツだと思ったが、彼が頼んだわけではないにしろ彼女の手当によって一命をとりとめたのは事実だったため嫌と言うこともできず、こうして畑にやって来たのだ。
「畑仕事したことある?」
立ったまま様子をうかがっていたアーゴルに気づいて女が駆け寄ってきた。その手には使い古された鍬が握られ、顔には土の汚れがついていた。
「あるわけないだろう」
不機嫌な声でアーゴルは答えた。
「そう――じゃあ、ちょうどあっちの方を少し広げようと思ったの。みんな食べ盛りだし。順番に教えてあげる」
奥の方を指さして、女は空いている手でアーゴルの腕をつかむとぐんぐんと畑を横切り進んで行った。人間の女の手はこんなに小さいのかと荒れた手の感触に奇妙な感覚に陥りながらされるがままになっていたアーゴルは、その場に到着すると当然のように女に鍬を渡された。
「この切株をとればちょうどいい広さになると思うの。根元を掘って――できるだけ根っこから抜きたいからちょっと大変だと思うけど」
もう一本鍬を持ってきて女は古い木の切株に手を乗せながらそう言った。「こうやってやるのよ」と鍬で根元の土を掘りはじめた女を、ため息交じりでアーゴルは手伝いはじめた。筋がいいと褒められてもうれしくない。畑仕事なんて、本来彼には無縁のものだからだ。
アーゴルと違って女は人間なので疲れやすく、時折休憩をはさみながら切株の周りの土を掘った。ある程度の深さまで掘った頃に「そろそろごはんのしたくをしないと」と女はその手を止めた。
朝誰よりも早く起きて朝食のしたくをし、朝食を終えると片づけや洗濯、掃除をすませ、朝食と一緒に用意しておいた簡単な昼食を食べて午後からは畑仕事などをする――それから夕食や風呂、寝るしたくをする。全て子どもたちが積極的に手伝っているとはいえ、彼女の仕事量は多かった。アーゴルが居候に来る前は彼の元にもほぼ毎日通っていたのだから、どうやって時間を作っていたのか心底不思議だ。
女は疲れた様子は見せるが、それを苦にする様子はなかった。子どもたちが楽しそうにしていればそれを笑顔で見つめ、ちょっとした手伝いにも喜び、子どもたちが悪さをすれば怒って見せ、その全ての感情を子どもたちのために使っているようだった。
夕食の手伝いをしに行った子ども以外は畑仕事の片づけをし、まだ仕事の手伝いをできないような幼い子どもたちが遊んでいたのに声をかけて面倒を見てやっている。太陽は西に傾きはじめ、そんな子どもたちの影を長く伸ばしていた。
「えっ!?」
翌日、畑に出た女は驚いて声を上げた。切株がどういうわけか地面から抜かれてぽっかり空いた穴の傍に転がっている。となりに立つアーゴルを見上げれば、彼はいつもと変わらぬ不機嫌そうな顔をしていた。
「もしかして……アーゴルがやってくれたの?」
「……あんな面倒なやり方じゃ見ていてこっちがイライラする」
人間の姿になってもドラゴンの姿の時と力は変わらない――人間の姿の時は無意識に力加減をしていたが――もしこれが切株になる前の姿でも、彼には抜くのがたやすかっただろう。
「あ、ありがとう」
驚きに目を瞬かせながら女は言った。子どもたちには見せない表情に、アーゴルは心臓をカリカリと引っかかれたような気がした。
「これはどうするんだ?」
「えっと……よかったら、物置小屋の近くに運んでもらえる? あとで切って、薪にしたいから」
「わかった」
重さなどないように切株を持ち、家の裏手にある小屋に運んだ。子どもたちがすごいすごいと言いながらまとわりつくのがうっとうしいが、どうしてか邪険にできなかった。
日々は穏やかに過ぎて行った。アーゴルのケガがすっかり治った後も、彼は変わらずに小さな家で過ごしていた。子どもたちも――アーゴルには不本意なことだったが――すっかり彼に懐き、彼女もそれを微笑ましく見守っていた。
「男手がなくて不便だなと思っていたから、あなたがいてくれてすごく助かってる」
ある日、彼女はそう言った。
今日は仕事はお休みだと言って森の中を子どもたちと出かけ、美しい川の傍でのんびりと過ごしていた。いつもは積極的に彼女の手伝いをして働いている子も、今日は幼い子どもに混じって水遊びをしながらはしゃいでいる。
「いつもありがとう」
少し離れたところにある広葉樹の下に敷物を敷いてアーゴルは彼女とその様子を眺めていた。ささやくように告げられた言葉に振り向くと、彼女の視線は真っ直ぐに子どもたちを見つめたままだ。
アーゴルは何も答えなかった。ふとそらした視線の先に、白く透き通ったひし形の花弁を持つ野花が咲いているのを見つけ、おもむろにアーゴルはその一輪を手に取った。その一輪を、そっと彼女の髪に飾る――突然髪に触れられて、驚いたように彼女は振り返った。それから触れられた場所に違和感を覚え、働き者の手を伸ばして彼が飾った花を外してしまった。
その手の中の花と、不満そうな彼の顔に彼女は笑った。おかしそうに、しかし嬉しさを抑えきれないような笑顔だった。
働き者の手の中から花を取り戻し、アーゴルはまた同じようにその髪に花を飾った。はにかむ彼女の表情をいつまでも見ていたかった。
それから彼は毎日のように、その白く透き通ったひし形の花弁を持つ、小さな野花を彼女に贈るようになった。いつしか口づけを一つ添えて。
「もう“アーゴル”なんて呼べないわね」
子どもたちは成長し、小さな家から巣立っていく。アーゴルが人間の国を襲わなくなって十年ほどになるが、ドラゴンの脅威が去ったと思った人間の国はドラゴンに対抗するためにあった武力を国同士の戦争に使いはじめ、元々多かった戦争はますます激しさを増すようになっていた。巣立った子どもたちの人数以上に小さな家にも子どもが増えていった。
人間の十年は長いのだろうか? アーゴルは今も変わらず彼女にあの小さな野花を口づけと共に贈っていた。不思議な魔力を帯びているせいか、どんなに厳しい冬でもあの花はけなげに咲いている。
子どもたちが水遊びをするようにはしゃぎながら洗濯を踏んで洗っている横で、洗い終わったシーツを干しながら彼女はそう言った。古い神話の神の一柱であるアーゴルは、破壊と再生を司る。もう破壊をしない彼に、その呼び名はふさわしくないように彼女は感じていた。
「呼び名なんてどうでもいい。元々名前なんてないのだから」
心底そう思っている声で彼は言った。その金色の瞳が、この十年の間で随分とやわらかく子どもたちを見つめるようになったことを彼自身気づいていなかった。
そして彼女も、彼がそうなったのは他でもない彼女が子どもたちを心から大切に想っているからだということを知らなかった。
洗い終わった洗濯物をたらいに入れて、二人の子どもがそれを運んでくる。今日は天気がいいからよく乾くだろう。彼がぱちりと指をはじくと、洗濯場からシャボン玉が舞い上がり、洗濯をしている子どもたちにも、それを運ぶ子どもにも降りそそいだ。「わあ」と明るい声が上がる。小さな手が喜んでそれを追いかけようと伸ばされるのを、彼女が目を細めて見つめていた。
「……あなたはいつまで、ここにいてくれる?」
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
「だってもう十年もたつし、あなたがここにいる理由はないもの……」
「いない方がいいのか?」
「そんなこと……! ただ、あなたはドラゴンで……わたしは人間だから」
「……君が望んでくれるなら、俺はずっと君といたい」
そういう感情が自分に生まれることを、彼は知らなかった。
「君とここで過ごしていると、退屈を感じない。それに……君が笑っているところを、こうして見ていたい」
彼女の頬がバラ色に染まるのに、彼はめったに見せない笑みを浮かべた。
「名前を呼んでくれ。君がつけてくれたなら、アーゴルでもなんでもいい。今日から俺はその名前になる」
困ったように眉を下げ、ちょうどたどり着いた二人の子どもから洗濯物を受け取った彼を彼女は見つめた。
やわらかな風がシーツを揺らし、二人を包み込むように駆け抜けていった。
「それなら……ガーディアと」
「ガーディア?」
「わたしの故郷の言葉で、“守る者”という意味よ」
そっと彼女は微笑んだ。それは大切な、守りたい相手に呼びかける時の言葉なのだとそう言って。
*** ***
中庭の隅に植えられた広葉樹はその葉を生い茂らせ、建物の陰となっているその場所をよりいっそう暗くさせていた。いつも元気に中庭いっぱいを走り回る子どもたちでもこの場所は少し怖いのか近づかない。
耳に届く子どもたちのはしゃぐ声が、遠い昔のことを思い出させる。こんな風に子どもたちの声の傍で過ごしていた日々。森の中にぽつんと建っていた、そこで暮らしている人数に大して広さが見あっていない小さな家――こんな庭はなかったがすぐ目の前に広がる森が庭の代わりだった。ガーディアと過ごした、最初の日々。
無意識に口からこぼれた彼の名前が伝わってしまったことへの動揺から逃げるように、ミモザは呆然とするガーディアに背を向けて駆け出していた。今はその中庭の大きな木の下で、その樹の幹にほとんど額がつくくらいの距離で向かい合っている。
心臓が口から飛び出そうだ。胸元を抑え、振り返ることはできなかった。ただ、背中にガーディアの気配を感じていた。
「ミモザ――」
緊張をはらんだ少しかすれた声が風に運ばれてきた。ピクリと思わず跳ねてしまった肩に、彼はどんな顔をしただろう。
「ミモザ」
二人の間を沈黙に支配されてしまう前にガーディアはまた彼女の名前を口にした。もう、彼はわかっていた。ただ彼女がそれを隠していたことを問いつめる気持ちはなかった。
「突然訪ねてきて、すまなかった」
ゆっくりと、ガーディアはつづけた。
風が洗剤の匂いと子どもたちの明るい声をここまで運んできた。ゆっくりと振り返った紫水晶の瞳は気まずさを湛え金色の瞳と重なった。
「……陛下」
「ガーディアと」
問いつめるつもりはなかったが、無意識にその口調は強くなっていた。
「呼んでくれないか? ……昔のように」
ミモザは眉を下げた。昔のように――バレてしまったことをなかったことにはできない。
「どうしてここに?」
名前を呼ぶ代わりに、ミモザはたずねた。
「シトロンから君が俺と話したいと思っていると聞いて……俺も君に言いたいことがあったから」
ガーディアはそっと金色を伏せた。
「君に謝りたかったんだ――傷つけるつもりはなかった……本当にすまなかった」
「気にしないで」
名前を呼ぶことはなかったが、ミモザは肩の力を抜いた口調でやさしくガーディアに声をかけた。
「大したケガじゃなかったし、宝石竜は表皮が丈夫だから。陛下も知っているでしょう?」
「それはもちろん知っているが……それとこれとは別問題だ」
表情を険しくしたガーディアは、“白い庭”で起きたことを思い出しているようだった。
「でも本当に、気にしないで欲しいの。わたしが勝手に飛び出してケガをしただけなんだから」
「……わかった、でも謝罪は受け取って欲しい」
風がガーディアの長い髪を揺らした。夜の闇を思わせる色に、白銀の角が美しい。ドラゴンならば誰もがその角の色に崇拝の念を抱くだろう。しかしミモザは同時に、前世で彼と出会った頃とは違うその色にどこかさみしさも覚えていた。
「ミモザ――それで、君の話したいことは?」
言葉を選ぶような慎重さのある声でガーディアは言った。
ミモザは眉を下げて微笑んだ。いざ彼を目の前にすると、どう切り出していいのかわらかなくなる。それに、こんな風に前世のことを覚えているのだと彼にバレるのは予定外でますますどうしたらいいかわからなくなってしまう。きっと彼は、ミモザが話しはじめるまでいくらでも待ってくれるだろうけれど。
「知りたいことがあって――」
二人の間には、中庭のさわやかな風に反してほんの少し息苦しさを覚えるような気まずい空気が鎮座していた。ガーディアはミモザの言葉をどこか恐れているようにも見えた。金色の瞳の奥には、彼には似合わない不安が揺らめいていた。
「今のわたしになって、はじめて疑問に思ったの。生まれ変わるたびに見た目も性格も何もかも違っていたのに、どうしてあなたが同じ気持ちを向けてくれるのか――もし無理をしているなら、」
「ミモザ」
ガーディアは遮った。
「俺の気持ちは、俺と君のものだ。無理をしたことなんてない。俺はずっと君を……君のことだけを……」
何かを飲み込むようにガーディアは一度口をきつく閉じた。
「たしかに君の言うとおり、生まれ変わるたびに君は違っていた。今の君なんて種族さえ違う――ドラゴンであることは、俺にとってうれしい誤算だが――それでも、ふとした瞬間に繋がるものを感じる。君や君の前世が、同じだと」
恐れを感じながらも自分に触れる細い指先をガーディアは思い出した。
「君の魂はいつも同じだ――根本的な本質は。俺にはそれだけで充分なんだ。見た目にこだわりがあるわけじゃない。内面は本質に繋がるものだから、違っていてもどこかで繋がっている。それに」
ふわりと風が、ミモザの髪を揺らした。
「それに、その積み重ねを含めて、君なんだろう? ミモザ」
彼女自身がはっきりと明言しない以上、ガーディアも言葉にすることはなかった。それでもかまわなかった。大切なことはもっと他のことだ。
「……過去も今も何もかも含めて、わたしはわたし」
静かにガーディアを見つめながら、ミモザはゆっくりとそう言った。ガーディアはきっと、それをわかってくれているだろう。でも過去とは、彼にとっては前世のことかもしれないがミモザにとっては前世のことだけではない。
「妃選びなんか関係なく、ちゃんと君との関係をはじめさせてくれないか?」
「ガーディア……」
ガーディアは微笑んだ。いつの間にか二人の間にあった距離はなくなっていた。手を伸ばせば届く距離にお互いがいる。
「今の君との関係を――ミモザのことを知りたいんだ」
差し出された手に、少し迷うようにミモザは自身の荒れた手を重ねた。彼とここからはじめる関係で、彼がもし他の誰かに惹かれたらその時はこの手をちゃんと離そう。でもここからはじめた上で彼が自分を選んでくれたなら、それほどうれしいことはない。
重なった手の先にあるミモザは微笑んでいたけれど、その表情に安心と不安が混ざっていることにガーディアは気がついていた。
子どもたちがミモザの名前を呼ぶ声がした。ずっとガーディアと話していたミモザが気になっていたのだろう。ガーディアの手を離したミモザは明るい笑顔で子どもたちに答えている。そのまま駆け足で洗濯の輪の中に戻っていくミモザの後を、ガーディアはゆっくりと追った。はだしの子どもたちが白い洗濯物を楽しそうに踏み、時にはぱしゃぱしゃと音を立てて跳ねまわっている。
ぱちりと、ガーディアは軽く指を鳴らした。子どもたちの足元からシャボン玉が舞い上がり、「わあ」と歓声が上がった。日の光を反射して虹色に輝くそれは、穏やかな風に乗ってどこまでも空高く飛んでいく。
ミモザがそれを視線で追っていくのを、ガーディアは見つめていた。彼女の横顔は懐かしそうな笑みを浮かべている。ガーディアがこの光景に懐かしさを感じているように。
どこまで覚えているかまではわからないが、きっと最初だけではなく、くり返し生まれ変わった全てを覚えているのだろう。
「ミモザ」
振り返った彼女は、たしかに今までガーディアが出会ってきた彼女の前世のどの姿とも違っている。美しい黒い角も、グラデーションになっている金色の髪も、紫色の瞳も、何もかもが。それでもガーディアにとって、彼女は唯一無二の存在だ。ミモザはどう感じているかわからないが、少なくとも彼にとってそれは決して変わらない事実。
この心の内から湧きおこる気持ちは、ますます溢れるばかりだった。
「名前を呼んでくれないか?」
かつての彼女がつけた名を、その唇に乗せて欲しい。




