31.フィアレンセ
星明けの山脈の麓に大きく広がる森はザルガンドが建国される前から暗闇の森と呼ばれている。その中には更に細かく地名があった。森の中で暮らす魔族は基本的に種族ごとに固まって暮らしているが、自分たちが暮らす場所にそれぞれ名前――静かの森や輝きの湖など――を付けていたからだ。ザルガンドができる前からあるその名は、今も引き継がれている。
“静かの森”は植物から生まれた妖精が好んで暮らす土地だった。緑と花にあふれ、蔦の絡まった木の家が不規則に建てられた集落のようなものが点在していた。その中の特に大きな集落に、静かの森の妖精たちの首長とも呼べる妖精が住んでいた。美しい花の妖精で、優れた幻術の使い手でもあった。
広場には木の皮を編んでできたテントがはられていた。その下のテーブルにはたくさんの色とりどりの花と、おいしそうな食事が用意されている。新鮮な野菜のサラダには果物をすりつぶして作られたドレッシングがかけられ、香草と一緒に蒸した鶏の丸焼きの中にはスパイスで食欲のそそる味と香りを付けた米が詰め込まれている。飲み物は果実水と、この地の特産でもある熟成された果実酒の瓶が十二分に用意されていた。
静かの森の妖精たちはせわしなく会場の準備に追われている。
首長の幼い娘はその様子をうきうきとした気持ちで眺めていた。こんな風に広場が飾り付けされるのはおまつりの時くらいだ。しかし、今日はその日ではない。理由はわからなかったが楽しいことが起きるのだということはわかったので、娘も、彼女と一緒に会場を見ている他の妖精の子どもたちもみんな頬を紅潮させていた。
「フィアレンセ」
娘――フィアレンセは、母親に呼ばれてぱっとその場を離れ母に駆け寄った。「はい」と返事をするとほっそりとした手がフィアレンセの薄緑色の髪をやさしく撫でた。
「あなたにお仕事を頼みたいの」
「お仕事?」
「そう、今日、これからここにザルガンドの国王様と王妃様がいらっしゃるの」
フィアレンセは目を丸くした。
フィアレンセの母は、フィアレンセもわかりやすいように国王陛下が去年婚姻を結んだ人間の国の王女を伴って国中を旅していること、今日ここに立ち寄ってその歓迎の宴がこの広場で開かれることを語って聞かせた。
「王様と王妃様に歓迎のお花を渡してくれる?」
フィアレンセはこくりと頷いた。このザルガンドで黒いドラゴンと人間の女性の恋のお話は絵本になるくらい有名で、フィアレンセも幼心に憧れを抱いていた。絵本を読み聞かせしてくれた母から、その話がこの国の国王と彼の愛する人の話なのだと聞いた時、その憧れはそのまま国王に、そして彼と結婚した王妃に向けられた。
その二人に会えるなんて、夢のようだとフィアレンセは思った。二人はどんな姿をしているのだろう? どんな髪や瞳の色? どんな声で話すのだろう?
やがてその時になり、旅の一団が静かの森に到着した。黒い馬車は金色で美しい植物の模様が描かれ、窓には白いカーテンがつけられていた。妖精たちは心を躍らせながらその扉が開き、この国の国王夫妻が降りるのを待った。馬車の扉が静かに開かれ、まず中から背の高い、白銀の角を持った男が降りてきた。硬い生地に繊細な刺繍模様が入った詰襟の服、長い脚はそれを引き立たせるような細身のズボンと膝下まであるブーツに包まれている。薄い生地でできた丈の長いローブを羽織っていたが、それがまた絵物語の王子さまのマントのようだった。
妖精たちの歓迎を受ける表情は冷たく、金色の瞳は凍り付いているようにも見えて、フィアレンセは表情を強ばらせた。彼に歓迎の花を渡すことがとても恐ろしいことのように感じた――が、彼は妖精たちの歓迎も、その中の一人が恐ろしさで身を震わせたことも気にすることなく馬車の方を振り返り、当たり前のようにその手を伸ばした。
手袋に包まれた、ほっそりとした腕が馬車から伸び、その手が王の手に重ねられた。ゆっくりと馬車から降りてきたのはふわりと膨らんだスカートが印象的な白いドレスに身を包んだ若い人間の女性だった。彼女は王と違って、妖精たちの歓迎を見てにっこりと嬉しそうに笑顔を浮かべた。
フィアレンセはほっとして肩の力を抜いた。人間の王妃は王のとなりに立ち、背の高い夫を見上げて妖精たちに向けたのとは違う笑顔を向けた。愛する人に向ける、甘い笑み――子ども心になんてステキだろうと思った。となりに立つ王が、妻が見上げたのに気づき視線を向ける。そして、
そして、自然とやさしい笑みを浮かべ、甘いまなざしを妻へと送った。
その時の気持ちを、フィアレンセは今でも忘れられない。あの甘く、やさしい笑みと視線を。あの美しい横顔を。
また冷たい表情に戻った王に歓迎の花を渡した時もその表情が忘れられなかったし、その花の中の一輪を王妃の髪に飾った時にまた見せたやさしい笑みも忘れられなかった。
自分もあの表情を、あの視線を、向けて欲しいと心から思った。
それはフィアレンセが成長しても変わらなかった。しかし名も無き王都にいる国王に会うことはもちろん見ることすら叶わない。それでも気持ちは強まっていくばかりだ。言い寄ってくる同じ妖精族の青年には見向きもせず、国王のとなりにいるのが自分だったらと何度も思ったし、王妃が王女を生んで亡くなった時はほんの少しの喜びを感じた。
王妃が亡くなった後は国王のとなりにいるのが自分だったらという想いはますます強まり、しかしこの国で一番有名な恋の話のことが引っかかり、フィアレンセはどんな方法でもいいから王の愛する人になれないか、その方法を探しはじめた。王妃が王の愛する人の生まれ変わりなら、王妃が生きている間にすでに生まれていた自分はそうでないことをフィアレンセはちゃんとわかっていた。
だからこそ――だからこそ、何でもいい。どんな方法でも――せめて姿形だけでも彼の愛する人になれば、そうすれば、彼はあのやさしい笑みを自分に向けてくれるはずだ。そう信じ、そしていつしかそうすれば彼は自分のことを愛しい人の生まれ変わりだと思って愛してくれると思うようになっていった。
そして“妖精の雫”にたどり着いた。静かの森に伝わる、どんな願いも叶えてくれる妖精の宝。しかしその作り方は難しく、何度も何度も挑戦しては失敗することをくり返した。その間に役に立つかもしれないと妖精族だけが使える幻術も鍛え、密かに彼女の親以上の使い手となった。
そして念願の“妖精の雫”が完成したタイミングで、名も無き王都の王宮で働く親戚から妃選びについて聞いたのを、フィアレンセはまさに運命だと思った。妃候補になるための条件も特に決められていなかったのを幸いに立候補し王宮へとやってきた彼女は、しかし肝心の国王が姿を現さないことにがっかりした。
それでもいずれ彼と顔を合わせた時のために周囲には自身の姿があまり印象に残らないように幻術をかけた。“妖精の雫”に願うことは決まっていたが、それには他でもない国王の魔力が必要だ。だからあとはひたすら大人しく、国王が姿を現すのを待ちつづけた。
新入りの使用人が妃候補に加わり、しかも国王がその存在を気にかけているらしいと聞いた時、フィアレンセは頭に血が上る思いをした。しかし同時に国王が立ち入り禁止だという“白い庭”と呼ばれる場所に姿を現していると知って気を取り直し、フィアレンセは自ら国王に会いに行くことにした。王に会い、“妖精の雫”が生み出した金の蝶が王の魔力を得れば、フィアレンセの願いは叶う――。
そして叶えた願いで彼の愛する人に姿を変え、フィアレンセは国王の前に姿を現した。顔を合わせた国王は見るからに動揺していた。心に今まで感じたことのないような喜びを覚え、フィアレンセはきっと国王は自分を選んでくれるだろうと信じた。予想外だったのは変わった姿が定まらず、フィアレンセが気づかない内に変わってしまうことだった。最初はそれでも、どの姿も幾人かいるという彼の愛する人の生まれ変わりの姿なのだろうと思った。
これできっと、あの方はあのやさしい笑みをわたしに向けてくれる。
わたしのことを愛してくれる。
そう、信じていた。
王がはじめて姿を見せたあの雨の日のお茶会の時も、この“白い庭”に彼が姿を現した時も、そう、信じ込んでいた――信じ込みたかった。
そうでなければ自分の本来の姿に戻ることができない、この気が狂いそうな状況に耐えることはできないだろう……。
*** ***
フィアレンセの絶望に染まった視線と、ガーディアの射殺すような視線がぶつかりあっている。風の音も草花のささやきも聞こえない中、フィアレンセが恐怖で震える音だけが聞こえてくるようだった。
「わ、わたしは……陛下、わたしは……」
わたしは陛下に運命を感じたのです――
フィアレンセの口からその言葉が紡がれると、またひび割れる音が大きくなる。ミモザは持っていた荷物をさりげなく地面に置いた。この音の正体をミモザは知っている。
「運命だと?」
ガーディアが鼻で笑った。
「そ、そうです……! 陛下とはじめてお会いした時、この胸に感じたのです……! 特別な、気持ちを……陛下もそうではないのですか? この“白い庭”の外でお会いした時に動揺していらっしゃいました」
「それはここにいるはずのない姿を見たからだ。お前が勝手に借りていた――」
「わたしは何もしていません!」
フィアレンセの声はどこまでも必死だった。ガーディアを恐れる気持ちも消えないのか足は地面に縫い付けられたように動かなかったが、声だけは縋りつくようだった。
「どちらにしろ、俺の運命は一人だけだ」
ガーディアの金色の瞳が静かにミモザに向けられた。しかしその甘さを含んだ視線よりも、そんなガーディアを見たフィアレンセの表情がミモザの目に焼き付いた。
フィアレンセがガーディアを想う気持ちは本当なのだろう。
ガーディアに選ばれたくて妃選びに参加した。しかしそのやり方はどうしたって間違っている。フィアレンセの絶望に満ちた瞳を、ミモザはただ静かに受け止めた。
本当は気づいていた。
あの雨の日の茶会……ガーディアがはじめて妃候補たちの前に姿を現したあの茶会で、フィアレンセはずっとガーディアを見つめていた。他の候補者たちの言い争う声もどこか遠くに聞こえるほどに。だから、気づいたのだ。
あの日――いや、あの日だけではない。この“白い庭”の前でやっと会えた時から気づいていた。
元々、ガーディアがミモザを気にかけているのは噂として知っていた。しかしこうして目の当たりにして、フィアレンセは気づいてしまったのだ。
ガーディアの、視線に。
幼い頃に見たのと同じ、視線――あの、やさしい笑み。
それはフィアレンセが心から望んでいるものだった。ずっと心から、自分にそのやさしい笑みが向けられる日を夢見てきた。
それがミモザに向けられている――その意味に気づかないほど、フィアレンセは愚かではない。部屋の片隅にいた小さな蜘蛛が目の前を過った気がした。
「あ……あなたが……」
ガーディアに対していた時とは違う震えがフィアレンセの声に現れていた。
「どうしてあなたがっ!!」
“星の涙”の花びらが大きく舞い上がった。フィアレンセの背から虹色に透き通った美しい翅が現れる。ミモザは咄嗟に身構えた。フィアレンセの翅から金色の粉が舞う。その怒りと悲しみに不釣り合いな幻想的な光景の中、視界が大きく歪み、ひどい吐き気がミモザを襲った。
「ミモザ!!」と彼の叫ぶ声と、あのひび割れる音が聞こえた。
それは考えてした行動ではなかったと思う。
歪む視界と吐き気をこらえ、ミモザはフィアレンセの華奢な体に飛びついた。肩から背中にかけて熱が走り、ぐっと眉間にしわが寄る。倒れ伏した地面は、“星の涙”の香りで満たされていた。
「なぜ……」
低い声が、愕然とつぶやいた。ミモザは一度強く目を閉じて肩から背中にかけての痛みをこらえると、ゆっくりと目を開いた。驚きと困惑、怒りと悲しみ、いくつかの感情が混ざりあった色をたたえた瞳で、フィアレンセがミモザを見上げていた。
フィアレンセを助け起こすことなくミモザは立ち上がり、声の主――ガーディアを振り返った。ひび割れる音はもうしない。彼はひどくショックを受けた様子で、ミモザを見つめていた。
「ダメですよ」
ふと地面に視線を向ければ“星の涙”が一部消え去っていた。彼の魔力を感じる――心臓が凍り付くような感覚と、指先に小さな震えを覚えたが、ミモザは気づかなかったフリをした。そっとガーディアに近づき、自分の手を握りこんで震えを止めると、そのまま彼の腕に触れた。揺れる金色の瞳に、困ったような笑みを返した。
さりげなく、残っていたフィアレンセの翅の鱗粉を魔法で吹き飛ばす。これ以上吸い込めばきっと幻の中に囚われてしまうだろうと思った。歪んだ視界には、別の光景が混じっていたから……近くに川のある、小さくて穏やかな村の風景と、それから――……。
背中が痛む――ミモザはガーディアの腕に触れたのと反対の拳を握りこんだ。手のひらに食い込む爪の痛みで、背中の痛みを紛らわせたかった。
その光景を、フィアレンセは呆然と青ざめた顔で見上げていた。体が凍ったように動かない。“星の涙”が消えた場所から感じる国王の魔力も、向けられた怒りも、フィアレンセの体を恐怖で固めるのには十分すぎた。
きっと彼女も、自分に向けられたものではないとは言え、この圧倒的強者の怒りを目の当たりにして震えたはずだ――指先の震えに、フィアレンセは気がついていた。でも、彼女は国王の傍に行き、フィアレンセはこうして地面から立ち上がることができないでいる。
静かに、ミモザが振り返った。
「姿も言葉も偽って、陛下に気持ちを押し付けて、そんなやり方で陛下に想いを返してもらえると本当に思ったの? それでもし陛下の気持ちがあなたに向いたとしても、それは一時の幻にすぎないと思う……あなたはそれでもよかったの?」
「わたしは……」
今はミモザと同じ紫色の瞳が一度大きく見開かれ、それから強く細められた。
「わたしは……」
あの日見た、愛しい人にだけやさしい笑みを見せた冷たいドラゴンの王――そのやさしい笑みを向けて欲しいという気持ちはフィアレンセの全てだった。
「あなたは……本当のあなたを見てもらえなくてもいいの?」
うつむいたその瞳からこぼれ落ちた涙の意味は聞かなくても大丈夫な気がした。
フィアレンセから視線を外し、ゆっくりと息を吐く。再びガーディアに視線を向けると、彼は複雑そうにミモザを見つめていた。
「……陛下の怒りは“星の涙”を傷つけます」
ミモザは言った。もう充分にフィアレンセは責められ、傷ついたと思う。もちろん“妖精の雫”は処分してもらいたいが、これ以上ガーディアに責められる必要はないだろう。それに、
「彼女のやり方は間違っていたけれど……誰かを想う気持ちは、陛下が一番よくわかるはずです」
ミモザにも、誰かを想う気持ちはわかる。彼の腕に触れている手に、ガーディアのもう片方の手が重ねられた。遠い昔と同じように。ミモザの手は、もうしわくちゃではないけれど。
「ミモザ……」
ガーディアの瞳に浮かんだ感情に、ミモザはそっと笑みを浮かべた。そこまでが、限界だった。




