15.蘭の館にて
妃候補として茶会や夕食会に参加するには衣装や化粧品がミモザには足りなかった。当然、それを準備するだけの余裕もない。ドレスに関してはシトロンが出資してくれると言うので申し訳ないがそれに甘えることにした。
着付けや化粧などは普段は使用人頭の補佐をしているスティナが手伝ってくれるらしい。それに加えて、ミモザは同期のメンバーには妃候補になったことを報告したのでみんな手が空いていたら手伝うと言ってくれた。
王妃の座を狙っているわけではないのだが、事情を話しても「わかっている」と笑ってかわされるだけだった。どうやら同期のメンバーは一部の妃候補へのうっぷんが貯まりつつあるようで、彼女たちの鼻を明かすようなことをした気持ちが強いようだ。
「この色もいいんじゃないかしら?」
「もう少し落ち着いた色でもよさそうですが……」
机の上いっぱいに並べられた化粧品を見ながらあれこれ口を出しているのはスティナと蘭の館の魔獣族の娼婦であるミルヴァだった。
ドレスはシトロンに出資してもらうが、化粧品などはきっと普段も使うだろうと自分で用意することにした。状況を考えれば安物を使うわけにはいかないが、予算は少ない。そこでミモザは蘭の館の姐さんたちに安く化粧品を譲ってもらえないかと相談することにしたのだ。
休みを取って蘭の館に帰ってきたミモザにスティナが弟である軍人のエメを伴ってついてきた。蘭の館に向かう前にドレスを買い、一緒に化粧品を選んでくれることになったのだ。エメは荷物持ち兼護衛である。シトロンからきちんと仕事として依頼されたらしく、軍服姿だった。
「本当にここにあるものどれでも選んでいいの?」
ミモザが蘭の館に着いて妃選びのこととその候補者になることになった事情を蘭の館の主であるファレーナに説明すると、娼婦たちにすぐに伝わり、みんなそれぞれ使っていない化粧品などを持ち寄ってくれた。出入りの商人が置いていった試供品や、客――さすがにもう来なくなった客からもらった贈り物などで、当然、どれもそれなりに高価なものだ。
「もちろん。余らせてももったいないもの」
ミルヴァはたまたま今日が休みの日だったのでスティナと一緒に意見を出して化粧品を選ぶのを手伝ってくれていた。ミモザがドラゴンであることを知らなかったミルヴァは随分と驚いてはいたが、すぐに張り切って化粧品の物色をはじめた。元々おしゃれやメイクが好きな彼女は、身近にドラゴンがいないのもあって好奇心がくすぐられた様子だった。
エメは少し離れたところで疲れた顔をしてお茶を飲んでいる。スティナがドレスを選ぶのに随分と時間をかけたため気疲れしたらしい。
“家”の談話室は落ち着いていたが、開店が近づいた蘭の館は準備に忙しそうだった。なんとなく手伝った方がいいのでは? という気持ちになるのをグッとこらえてドレスと化粧品に視線を戻す。
「ドレスにもだけど、天気とか、室内なのか室外なのかとかそういうことにも合わせた方がいいかもしれないわ。でもミモザはかわいい顔しているからそんなにしっかりとメイクしなくてもいいかもしれない……肌もこんなにきれいだし」
ミルヴァはそう言ってミモザの頬をちょんとつついた。
「そういえば、髪はどうするの? ここも」
自身の額を指し示しながらミルヴァは言った。
「そのスカーフ、いつも巻いていますね」
スティナの目がミモザの頭に巻かれたくたびれたスカーフを鋭く見たので「母の形見で……」とミモザは言葉を濁した。母の形見なのは本当だが、頭に巻いているのは折れた角を隠すためだ。
「もちろん、ちゃんとしたスカーフとか帽子とかを使うつもりです」
今日はスカーフを買っていないが、明日ティンクとアンナベルを誘って買い物に行くことになっているのでそこで選ぶつもりだ。
「髪型はその日のドレスや化粧に合わせてその都度考えましょう」
「王宮の使用人の方は髪結いもできるのね」
ミルヴァが心底感心しながら言った。「すごいわ」と褒める言葉は純粋で、スティナは少し恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「わたしは母から教わったので……母は昔、亡くなった王妃様の傍仕えをしていましたから髪結いや化粧も勉強したそうです」
「王妃様に髪結いしてあげられるほどならきちんとした腕前だったんでしょう? わたしたちもこういう仕事だから自分でできたらいいけれど、わたしは苦手なの。うらやましいわ」
「ミルヴァ姐さんは不器用だから」
「そうなのよねぇ」
のんびりとミルヴァは言った。ここでは苦手なことはみんなで補いあうのが当たり前なので、彼女は言うほど気にしていなかった。
その後もあれこれ意見をかわしながら化粧品を選び、スティナとエメの姉弟は買ったドレスと選んだ化粧品を持って王宮へと帰って行った。ドレスなどは使用人寮ではなく王宮内の部屋で保管をしてくれるらしい。
ミモザは蘭の館に残り、今日は泊まって、明日は買い物に行ってそのまま王宮へ戻る予定だ。ミルヴァは日頃の肌や髪の手入れをミモザに教えると張り切った。
「でも種族が違うからわたしと全く同じじゃない方がいいかもしれないのよね」
さっきまで化粧品でいっぱいだった机の上にはミルヴァが普段使っている化粧水や香油などの瓶が並んでいた。どれも愛らしいデザインの瓶なのがミルヴァらしい。ちょっと待っててとミルヴァが席を外し、連れて戻ったのはアデラだった。今日のアデラは休みではなかったはずだが売れっ子の彼女にしては珍しく手が空いていたのだろうか?
「暇だったから大丈夫よ」
ミモザの視線を察して、アデラは微笑んだ。
「ミモザにいろいろ体の手入れの仕方を教えたいのだけど、種族が違うから同じでいいか迷ってしまって」
「わたしだって妖精だもの。種族が違うわ」
あきれたようにアデラが言った。
「人の姿の時は同じだと思うけど……」
「ダメよ、思い込みなんて。もし違ったらどうするの?」
「ミルヴァはどうなの? 人の姿の時と、本来の姿の時と」
「そうねぇ……肌も髪もきれいにしておくと、毛並みがよくなるの」
「人の姿になれる魔族ならドラゴンも似たようなものじゃない?」
「でもドラゴンって、なんだか違う気がするのよね」
「そんなこと無いと思うけど……」
ミモザは言った。しかしミモザも両親を亡くしてからは身近にドラゴンがいなかったので自信がなかった。
「ミルヴァの思い込みでしょう?」
「でももしわたしたちのやり方がミモザの肌によくなくて荒れたら大変じゃない! わたしとアデラだって違うことだってあるでしょう?」
「それはそうだけど、だったらどうして妖精のわたしを呼んだの? お客さんもいないからよかったけれど」
「アデラの方が顔も広いし、何か知っているかと思って」
「それなら母さんに聞いたらいいのに。それか、父さんか」
「そうねぇ」
たしかに店主のファレーナはこの花街の中でも一番と言っていいほど顔が広く、知識も豊富だ。ただ、その夫的存在であるクヴィストはドラゴンだが身なりにはどちらかというと無頓着なのでいい意見が聞けるかはわからないが。
ちょうど店から従業員がアデラを呼びに来たので、ミモザはミルヴァに促されて店主であるファレーナの元へ向かった。
蘭の館の主であるファレーナは、店の営業中は店の二階にある彼女の部屋にいる。となりにある小さな事務室と室内が扉でつながっていて、事務室ではクヴィストと数名の従業員が彼らの仕事をしていた。
ファレーナは客を取らないので部屋の中はゆったりとくつろげる応接セットを中心に居心地のいい空間ができあがっている。昔娼婦だった彼女と話だけでもしたいという客が今でも後を絶たないため、そういう客が訪れた時はこの部屋で話し相手をすることもあった。
客がいない時は手が空いた娼婦や男娼がひと休みしたり客の愚痴をこぼしにきたりしに来ていた。今日もファレーナの傍には仕事着のまま床に敷かれたやわらかな絨毯に寝そべってくつろぐ娼婦が一人いた。客に散々飲まされてしまったらしく、休んでいるらしい。
ファレーナは豊かで美しい黒髪と豊満で魅惑的な肉体をした美女で、蛇の下半身を持つラミアだった。若い頃は花街一番の娼婦でこの蘭の館で働いていたのだが、娼婦をやめてからは当時の店主夫妻から店を譲り受け、ここで働く魔族たちを実の子のようにかわいがりながら店を切り盛りしている。
アデラの言うとおり、ファレーナはミモザのような若いドラゴンが人間の姿の時にどうやって肌や髪の手入れをしたらいいのかをきちんと知っていた。ザルガンドにドラゴンが定住することはほとんどないが、それでも時折迷い込んだように現れたドラゴンがこういう場所で働いて、去って行くことがあるという。ファレーナも昔ドラゴンの娘を雇っていたことがあり、その際に勉強したのだという。
「それにクヴィストもいるからね」
ファレーナはミモザの手に乳液を落としながら言った。
「クヴィストは顔はいいんだけどこういうことには本当に無頓着だからね。こうして手とか荒れているとこっちが気になるんだよ」
ファレーナに言われた通りに手の中の乳液を伸ばして顔に塗る。
「やり方はどんな魔族も変わらないけど、成分は気にするといいよ。ドラゴンは丈夫だから肌に悪いことはないけど、合うものを使った方がよくはなるからね」
「俺のことを話していた?」
となりの事務室からクヴィストがひょっこり顔を出した。人間でいうと四十代から五十代ほどの見た目だがその顔立ちは整っており、頭には二本のねじれた角が生えていた。背は高く、痩せていて、骨ばった指先にはインクの汚れがついている。
「父さんの顔がステキっていう話」
笑いながらミルヴァが言った。「それはどうも」と答えるクヴィストは苦笑いを浮かべていたので、きっと褒められていたわけではないと気づいているのだろう。
「ミモザ、帰ってたんだね」
ファレーナのとなりに寄り添うように座りながらクヴィストは言った。
「うん、ちょっと用事があって」
「ミモザ、お城のお妃様選びに参加することになったのよ」
「ミルヴァ姐さん!」
「妃選び?」
クヴィストが少し眉をひそめた。
「そういえばそんなことをすると客が話していたね……だが彼は――」
「政治的ないろいろがあるみたい。わたしはその……数合わせみたいなものだから。頼まれて、仕方なくというか……」
「でもミモザはかわいいもの、王様だって気に入るかもしれないわ。ドラゴンって、どういう化粧の仕方が好みかしら?」
「気に入られない方がいいと思うけどね」とクヴィストは言った。
「化粧は似合っているものが一番だよ。ドラゴン同士なら髪がきれいな者が好かれやすいけど。たった一人を追い求めている相手にそれをしたって意味がないだろう」
「嫌味なんて言うもんじゃないよ」
ファレーナがたしなめた。
「どうして髪なの?」
場の空気を変えようとミモザは口を開いた。
「髪というか、鱗だね」
「ああ、なるほど……」
「どうしてなるほどなの?」
「ドラゴンが人の姿になる時、鱗の色がそのまま髪の色になるんだけど――」
「鱗の美しさもそのまま髪の美しさになるんだよ」
「つまり、髪がキレイなドラゴンは鱗もキレイっていうこと?」
「そうだね」
「ミモザのこのステキな髪色、鱗の色だったのね」
毛先に向けて白くなるミモザの金髪を撫でながらミルヴァは言った。この髪も蘭の館で暮らすようになってから手入れをしたおかげで随分とよくなった。ここに来るまでは痛んでボロボロで、きっと本来の姿に戻っていたら鱗も見られたものではなかっただろう。
ファレーナやミルヴァから手入れの仕方を学んでいたところで、ミルヴァが常連であるガシェが店に来たのを聞いて会いに行ってしまったのでその場はお開きになってしまった。ミルヴァとガシェは昼間に観劇に行って以来、いい関係をつづけているらしい。ファレーナやクヴィストも二人のことを応援していた。
「それで」
三人だけになったファレーナの部屋で、クヴィストが改めて口を開いた。
「本当に妃選びに参加するのかい? 国王の?」
ミモザはうなずいた。
「あの方は今の“星影の竜”だ」
「もちろん知ってるけど、そのことはそんなに気にしてなくて……」
「ミモザは変わっているね。俺も他人のことは言えないが」
ドラゴンにも様々な種がいるが、それとは別にある条件を満たした最も強いドラゴンが星影の竜とドラゴンたちが呼ぶ、ドラゴンたちの王となる。この国の国王が当代の星影の竜だった。
「力自慢の者を中心に星影の竜の地位に憧れるドラゴンは多いが、あの方はもう千年近くその地位にいる」
ミモザの父も子どもの頃に星影の竜に憧れていたと話してくれたことがある。実力のある者ならばただの子どもの頃の夢で終わらせず、今現在も虎視眈々とその座を狙っているだろう。しかしそういう者がどれだけいてもこの長い間その地位にいるこの国の王がどれだけ規格外なのかよくわかる。
「その地位を狙う者でもない限り、みんな星影の竜には近づきたがらないものだ。特にあの方は過去が過去だからね――もし何か嫌なことがあれば、すぐにここに戻ってくるんだよ?」
ミモザはうなずいた。クヴィストが特別に星影の竜を嫌っているわけではないと彼女は知っていた。ドラゴンは基本的に星影の竜を好いてはいない。その地位を狙う者たちだって、自分がその地位になる分にはいいけれど他の誰かがその地位にいるのは不快に思うだろう。
「どうしてそんなに自分たちの王様のことを嫌がるんだい?」
クヴィストの透明感のある薄い緑色の髪を触りながらファレーナがあきれた口調でたずねた。
「星影の竜は全てのドラゴンのことがわかると言われている――どこに誰がいるかとかね。あまり知られて気持ちのいいものではないよ。それにあの方は星影の竜になる前、随分と悪いドラゴンだったらしい」
「ミモザがあまり気にしないのはまだ若いからかな」とクヴィストは心配そうに言った。
たしかに本能的な部分で忌避感のようなものはある気がするが、クヴィストほどではない。両親はどうだっただろう? 父は幼い頃、星影の竜に憧れていたと話してくれたことはあるが、それはあくまで星影の竜という地位で彼のことではない。母は――母は、そういう話をしなかった。
ミモザはあいまいに笑って、クヴィストの心配の言葉には何も返すことはできなかった。そういう感情が薄いのは、前世の――人間だった時の記憶があるからだろうか? きっと他のどのドラゴンよりもミモザは彼を知っている。