人生は諦めが肝要なのです
こんにちは~!! ひだまりのねこですにゃ!!
皆さま、日々心穏やかに過ごせていますか? 充実した毎日を送れていますか?
え? 出来ていないのですか……だったらね、いい方法があります。
聞きたいですか?
にゃふふ~、それはねえ。
と、その前に〜。
なんで不満でイライラしたり不安になるかわかりますか?
欲求不満です。欲が満たされていないからです。
だからね、思いきって諦めましょう!! 人生諦めが肝要。
解決になってないじゃないかって?
そんなこともないのですよ〜。
今日は、諦めについてのお話をしましょうか。
「諦める」と聞いて、皆さまはどういうイメージを持ちますか?
やっぱり、泣く泣く、無念、苦しい、みじめ、挫折、夢破れる、負ける、逃げる、みたいな、マイナスイメージが浮かんで来ますよね。
それに、うかつに諦めるなんて口に出そうものなら、周囲から根性無し、無能、無責任、意志が弱い駄目な人間といったレッテルが貼られてしまうかもしれません。
たしかに諦めないことは社会的な美徳ですし、それ自体は悪いことではないですよ、きちんと目的地が見えているのならば。
「継続は力なり」「石の上にも三年」「初志貫徹」って誰もが知っている格言もありますし、
「諦めたらそこで試合終了」「諦めなければ負けはない」なんて成功者たちもおっしゃってます。
努力は裏切らない、塵も積もればとか、挙げればきりがないですけど、これでもかって言うくらい諦めるという言葉にネガティブな属性が付いちゃってます。
これじゃあとても簡単には言えないですよね、諦めるって。
だから、多くの人は内心無駄だと思っていても、意味がないと感じていても、その決断を下せない。我慢して耐えて耐えて、ボロボロになるまで頑張ってしまう。
無理なのです、全方位で頑張り続けるなんて。人間は神様ではありません。
仮に出来ていると思っていたとしても、それは諦めないことを諦めないようにただがむしゃらに頑張っているだけ。
右と左と上と下と後と前。同時に進めますか? そんなことをしたら一歩も進めないでしょう?
だから諦めるのです。
大丈夫、そんな悪い話じゃあありません。
そもそもね、本来諦めるという言葉にネガティブな意味は無いのですよ。
諦って、仏教用語で、真実、真理、悟りの意味だし、諦めると、明らかにする、つまびらかにするは同源なのです。
だからね、諦めるとは、
真実を明らかにして、不要なものを捨て去ること。それだけのことなのです。
さっきの例で言えば、自分がどちらへ行きたいのかをまず考えてみる。
右に行きたいならば、それ以外の選択肢は捨てる。それだけ。
とってもシンプルで合理的でしょう?
大切なことは、必ず自分で納得したうえで諦めること。
親に言われたから、経済的な理由が、周りが、才能が、社会の常識や圧力が〜!! なんて環境や周りのせいにして諦めてはいけません。
どんなに実現困難に思えたとしても、自分の想いに嘘をついたら、いつか必ず後悔することになるのです。
楽しい、嬉しい、ワクワクする方を選ぶだけ。他でもない自分自身にしかわからないことです。
「あの、私って今何を食べたいと思っているか教えてください」
なんて他人に聞いたりしたら、この人大丈夫? って思われちゃいますよね。そういうことですよ。
結局どこへ向かったとしても、絶えず困難はやって来るのです。
同じ苦労するなら、楽しみがあった方が良いに決まっています。旅行だって、目的地に向かう過程そのものが楽しいでしょう?
旅行をするなら、荷物は軽い方が良いに決まっています。思い切って不要な荷物は諦めましょう。自分に嘘をついたら、後悔という重荷まで余計に背負わなければならなくなって、せっかくの旅行が楽しめなくなります。
行く先が間違っていると気付いたなら、そこから向かえばいいのです。諦めることに遅すぎるということはありません。常に手段はあります。道はどこからでも繋がっているものなのです。
目的を見失わないこと。手段と目的を間違えないこと。
例えば小説家になる。
これは目的ではなく手段。なぜなりたいのか、小説家になってどうしたいのか? 何を得たいのか? それが本当の目的です。逆に言えば、それがわかっているならば、手段は小説家でなくても構わないわけです。
本が好きだから、文章を書くことがわりと得意だから。せっかく続けてきたから。
小説家になることが目的になってしまえば、終点の無い山手線です。無限ループとなって他の手段を選べなくなります。
諦めることも、諦めないことも、手段であって目的ではありません。
人生の目的を達成するために諦めて、諦めない。
テストの目的はなんですか? 理解できていない部分をあぶりだすことですよね。
良い点をとることは美徳かもしれませんが、目的を見失ってはいけないのです。
そして行き先を決めたとしても、常に諦めることを忘れないでください。
たとえば東京へ行くという目的地があったとして、新幹線がトンネル崩落で通行止めだったら?
車を使う、飛行機や在来線を使う、徒歩や自転車だって、目的地へと至る手段は他にもあります。その選択は当然ですよね? 新幹線を諦めて他の手段に切り替えることは、ちっともマイナスイメージではありません。むしろ臨機応変で柔軟な判断が出来るというプラスの評価になりませんか?
チケットを買ってしまったから、本当だったらもっと早く到着できたのに、と手段に固執して新幹線に乗ること自体が目的になってしまってはいけません。
新幹線に乗ること自体を諦めろと言っているわけではありませんよ。後日復旧したらでも良いし、目的地に着いてからでも乗れるのですから。別の路線にだって新幹線は有りますし、リニアだってあります。
人生、山あり谷あり千里の道も一歩から。一度に選べるのは一つだけ。通れる道も一つだけ。何かを選び決断するたびに、私たちは他の何かを諦めているのです。それが生きるということです。過程が楽しめるようになればしめたものですよ。
コロナ禍で飲食店は壊滅的な影響を受けました。
頑張って店を存続させようとする人がいる一方で、早々に店をたたみ、新しい道へと切り替えた人もいます。
どちらが正しいとか、賢明だったという話ではないですよね。
オーナーが何を目的にしていたか、それが大切です。逆にそれがはっきりとしていなければ判断を誤るかもしれないのです。
その場所で飲食店を続けることが目的ならば、存続させる方向で全力を尽くす。
目的が場所でも、その店でもなく、料理が出来ればどこでも良い、あくまで生活の手段であるというならば、傷が浅いうちに早々に諦めて違う店で働くことを模索するのもありでしょう。
最終的に同じ決断をしたとしても、そこに辿り着くアプローチはまったく異なるのです。
言えることは、どんな時も一番大切なものを意識しながら諦めるということ。すべてを守ろうとすればすべてを失ってしまうことになりかねません。
お金や名声も権威も権力も手段です。
お金や名声さえあれば、大抵のことは叶います。手段も使い放題かもしれません。
目的なんてどうでも良い。金や名声さえ手に入れてから考えれば良いと思いますか?
でもね、人って、あまりにも多くの選択肢を持ってしまったら、見失ってしまうのですよ。
諦める必要が無い人間がどうやって真実、真理、悟りにたどり着けるのか、私には想像も出来ません。
中学生の頃、自分がどんなに頑張っても世の中の本が読みきれないと知って絶望したことがあります。
でも、自分がどうして本を読むのか、何を求めているのか、気付いたら楽になりました。
本を読むことはあくまでも手段であって、目的ではないのですよね。
だから、世の中すべての本を読むということを諦めることが出来たのです。
みんな仲良く楽しく暮らしたい。
理想を言えばそうなりますけれど、現実は違います。
実際には性格や価値観が合わない人や苦手な人もいますから。
だからより正確に言うなら、自分にとって好ましい性格で共有できる価値観が多く、一緒にいたいと思える人たちと仲良く楽しく暮らしたい、でしょうね。
もちろん、自分にとって不要だから諦めて切り捨てるのかと言われればそう簡単ではないです。
家族や親せき隣人、仕事、生きていくなら関わらずに過ごすことは難しい。
だからみんなが少しずつ諦めやすい社会になれば良いですよね。全ての人に好かれることも、好きになることも難しいんですから、適切な距離感で付き合うことが許容される社会になって欲しいのです。
人生たかだか数十年、限りある中で、自分自身が何を求めているのか?
どうすれば心穏やかに過ごせるのか?
それに気付くことが出来れば、諦めることに迷いがなくなるはず。
私にとって、エッセイを書くことは手段です。目的ではありません。
私が書いたものを共感してくれたり楽しんでくれる人がいてくれて、そういう人たちと残された日々を過ごして生きたい。世界に向けたお手紙のようなものです。
私にとって、絵を描くことは手段です。目的ではありません。
私がイメージしていることを見てもらいたい。知ってもらいたいから絵を描きます。今は上手く描けないから、そうなれるように練習を頑張っています。
私の目的は、小説投稿サイトで気の合う仲間たちと作品を通じて交流することです。
季節の企画やイベントをともに過ごし、自主企画に参加したりしなかったりすることです。
ここで出会った作品から感じたイメージを絵にして喜んでもらうことです。
リアルでそんな関係作れますか? そんな人を見つけられますか? 私には絶対に無理だと断言できます。
だから、それが私の守りたいもの。
他のことも出来る限り頑張りますが、大切なものを守れなくなるなら諦めることができます。
人は必ず死にます。人生という旅の終着点は、自覚しようがしまいが、設定しようがしなかろうが、実は最初から決まっているのです。
『分け登る麓の道にとどまりて 高嶺の月を見ることもなし』
一休禅師の詠んだ歌のように、生きることは登山のようなものなのかもしれません。
頂上へと至る山道は無数にありますが、歩ける道は常に一つだけ。
迷わず一気に頂上へ至る人もいれば、行き止まりに何度もぶつかり、引き返し、道なき道を進む人もいるかもしれません。
どちらが良い人生ということはありません。徒歩と新幹線ではその過程で見える景色が異なるだけのことです。
辛いとき、迷ったとき、空を見上げてください。
上を向いて歩き続けるならば、決して迷うことはないのです。
人生最後のとき、どんな月が見たいですか?
心穏やかに、綺麗な月を綺麗だねと微笑みながら、惜しまれながら。
そんな風になりたいなあと思うのです。
叶うなら、刹那でも長く心通わせた仲間たちと、
私は、同じ月を眺めていたいと思うのですよ。