夜闇を駆け抜けて
遠く、聖夜を祝う音が聞こえる。
切れ切れに風に途切れたその音は華やかな歌のはずだが、硬い石の塔の上で聴くと曲にもならない。
ひとり。
少女は寝台の上で膝を抱えて座っていた。
狭い小さな部屋は、貴賓のために厚い敷物が敷かれ、寝台も豪奢だ。
けれど、石造りの塔の冷たさを癒すはずの暖炉に、火は入っていない。
窓には格子がはめ込まれ、この部屋が牢であることを示していた。
こぼれ落ちた少女のため息は、淡く白い霞に代わる。
ほんの二カ月前までは、小さな国の幸福なお姫様だった。
父である王は穏やかな賢王だったが、平和を尊ぶ気性で優しすぎたのだ。
善政を心掛け、なんでも話し合いで解決しようとする姿勢を付け込まれて、欲深い叔父に武力で王座を簒奪された。
父の首が謁見室の床に転がったその日から、少女は幸福なお姫様ではなくなった。
少女が生かされたのは、叔父の王位を確固たるものとするため。
いずれ成人すれば、叔父の息子である王太子の妃となる。
それは数年先のことだけれど、それほど遠い未来の話ではない。
血筋を正しく引き継ぐため。
ただそれだけのために、少女だけが生かされた。
その事実を受け止めきれるほど大人ではなかったが、理解できないほど子供でもなかった。
このままここに居たいわけではなかったけれど。
本当は、父母と同じ場所で処刑されたかったのだ。
そうしたら両親と天国で会えたかもしれないのに、それも叶わない。
それがとても悲しい。
生きながら死ぬような未来予想図に、ブルリと身体を震わせた時。
カタリ、と硬い音が響いた。
カチ、カチ、と幾度か金属質の音が聞こえ、カタンとひときわ大きな音がすると同時に、ヒュゥと冷たい風が室内で渦を巻く。
吹き込んでくる風に導かれるように目をやると、あったはずの格子が消えていた。
暗闇から湧き出るように、窓から黒い服を着た男が入ってきた。
暗鬱とした夜闇を背に現れたのは、大きな袋を担いだ大柄の男だった。
遠くから聞こえてくる聖歌に、少女はあきらめたように微笑んだ。
黒いサンタクロースは、悪い子を懲らしめるためにやってくるはずだ。
父も母も殺されたというのに、ただ流されてぼんやり生きる少女の罪はとても大きいのだろう。
幽閉された少女のところには、赤い服のサンタクロースはやっぱりこない。
黒いサンタクロースは、白いひげのあるおじいちゃんではなかった。
儚い気持ちのまま瞳を揺らす少女に、男は風のように近づくと片膝をついた。
「今は何も聞かず、私に攫われてください」
真摯な太い声に、少女はうなずいた。
覆面で顔は見えないけれど、先日惨殺された父王よりも、ブラックサンタはもっともっと若い気がする。
石の塔の頂上に窓から現れるのは魔物かそれに準じるもののはずなのに、その瞳も息使いも普通の人間のようだった。
薄い夜着に毛織の肩掛けを羽織っていただけの少女に、背負った袋の中から暖かな服や外套を取り出して着せていく。
着ぶくれして丸々とした少女がよろめくと、男は少し笑ったようだった。
ブラックサンタは思いのほか優しい手つきで、悪い子である少女を懲らしめる様子はなかった。
粛々と背負い紐を取り出したブラックサンタに、少女は戸惑った。
確かに「共に来てください」とは言われたけれど、ここは石の塔の上である。
人間に抜け出せるような造りをした建物ではなく、細い通路以外に出入り口は存在せず、男の入ってきた窓から地上までは遠い。
空を飛べない少女には、塔から抜け出すことすら途方のない夢だ。
「黒いサンタクロースさま。あなたは、私が悪い子だから連れて行くの?」
思わずそんな言葉がこぼれ出た。
少し驚いたようにまたたいて、男は笑ったようだった。
「貴女は我々の希望ですから。良い子でも、悪い子でも、連れ去ります」
その瞳にイタズラな光があったので、何かを思いついたのだろう。
サイドテーブルの上にあった紙に、男はサラリとペンを走らせる。
少女の目には、メリークリスマスの文字がチラリと見えた。
明日の朝、このメッセージを看守が見つけたら、さぞ驚くだろう。
「どうか、お静かに」
少女を背負い、暗闇に似たマントでその身を覆い隠す。
黒服のサンタクロースは入ってきたときと同じように、踊るように窓から抜けだした。
スルリと細いロープを伝って身軽に下りると、あっという間に地表に降り立つ。
素早くマントを裏返して色彩を白に反転させ、積雪の白さに紛れて少女を背負ったまま闇の中を素早く駆け抜けた。
塔を離れ、裏手にある木立を抜けて、カギ爪のついたロープを投げて塀をよじ登る。
言葉もなく、周囲を警戒しながら移動する男の密やかな息遣いだけが、少女に現実を教えた。
どこに行くのだろう?
建物から離れた森の中。
隠されていた馬の前で、やっと男の背中から降ろされた。
休む間もなく馬上で男の胸に抱き込まれて、細く息を吐いた。
暗闇の中でも、馬は恐れることなく疾走する。
夜風が冷たく頬をなでて、遠くすぎていく。
赤鼻のトナカイはどこにもいない。
鈴の音も、星の光も見えない。
聖夜の歌も、生まれ育った城も遠くなる。
聴こえるのは、闇を裂く風の悲鳴ばかり。
不思議と恐怖も寒さも感じなかった。
ピリピリと尖った気配は消えないけれど、男の腕の中は思いがけないほどあたたかい。
「あなた、もしかして、人間なの?」
思わず問いかけてしまった少女に、男も思わずといった調子で笑った。
湧き出す笑いをかみ殺しながらも、つい「可愛らしい姫様だ」ともらして愉快そうだった。
男はひとしきり笑った後で、ポツリと告げた。
「貴女が自ら望んで、我々の仲間になっていただけるならば、嬉しい」
「なるわ」
少女は迷いなく、即座に答えた。
この男が何者かはわからない。
この先、何を成し遂げようとしているかもわからない。
ただ、この夜を越えれば、幼い頃の平穏な日々が遠ざかる事だけはわかっていた。
それでも。
黒服の男は、少女を希望と呼んだ。
差し込む一筋の光に似た言葉は、この身を掛ける十分な理由になった。
幸福も不幸せも知っている少女は、神に祈る。
自分と仲間たちの未来が、暗闇を抜けた先にある夜明けのような、希望の光で照らされますように。
FIN