15、湊社長の特別室
あたしと林田は、ウィズに頼んで湊社長の所に連れて行ってもらうことにした。
ウィズはすでに彼女と直接、電話で話をしたと言う。
何か秘密裏に決め事もあったようだった。
「氷川さんを飛び越して、向こうから連絡をくれたんだよ。
『氷川が失礼なことを言って申し訳ない』と謝ってくれた。
それでもう一度、直接交渉したんだ。
僕としては、是が非でも本物の林田 のぞみに恩返しする方向で行きたいからね!」
具体的なことはよくわからなかったが、不安顔の林田にあたしは笑いかけた。
「ウィズって、一旦動き始めると相当しつこいの。
全員が納得するまで絶対やめないから、覚悟してお任せするしかないよ」
魔術師が元気になったので、あたしも安心してついて行くことができる。
次の土曜の昼過ぎに、3人で湊社長を訪問した。
昼間じゃないと行けないとウィズが言った理由は、建物を前にして初めてわかった。
病院だったのだ。
テレビの報道番組で、何度も目にしたことがある、個人経営の総合病院だった。
最新の癌治療システムを取り入れた病院、というテーマの番組で初めて知ったのだが、ごく最近では、末期患者の看護メニューを脅威的に多様化したことで、別の報道の対象になっていた。
離棟最上階。
どう見てもVIPルームとしか思えない広さの病室の中は、小さな事務所が丸ごと引っ越して来た様な状態だった。
「患者本人の希望を叶えるのが、この病院の方針なんだ。
末期癌が最終段階を迎える前に、会社の経営を引き継いでおきたい、という湊社長の希望でこうなった。
治療を受けながら仕事が出来るように、主要スタッフ3人がここに出勤してる。
あそこでパソコン打ってるのが、社長の長男さん」
ドアを開けた途端に現れた、病院らしからぬ光景に仰天するあたしたちに、ウィズが小声で説明してくれた。
パソコンの前に陣取っているのは、色白で繊細な印象の、若い青年だった。
まだ大学を出たてといった年代の、このお兄サマに会社を継がせようというのは、かなり苦渋の選択と言うヤツかもしれない。
唯一事務所らしくないのは、部屋の真ん中にドンと置かれた、白いベッドだ。
ベッドの上では、中年のひどく痩せた女性が、横になったまま書類を読んでいた。
これが間違いなく湊社長だ。
彼女が書類を持つ手を下げると、林田があっと叫びかけて口をつぐんだ。
あたしも息を飲む。
湊社長の顔は、包帯と白いガーゼとテープで、隙間なく埋まっていた。
しかも凹凸の具合から、顔面の異様な状況が見て取れる。
包帯の下に隠れた顔には、すでに鼻も口唇部分もなくなっているに違いなかった。
ホラー映画に迷い込んだ気分で、あたしたちは彼女の顔を見た。
思わず目を逸らそうとしたあたしと林田を、ウィズが意味ありげに振り返った。
そうか。
彼は林田に、この女性の顔を見せたかったのだ。
あたしたちに気付いた湊社長は、笑顔になって半身を起こした。
「いらっしゃい! わざわざお越し頂いてありがとう。
怖い顔のオバチャンでごめんなさいね、小さい子なんかには泣かれちゃったりして、ほんと困るのよ」
なんともあっけらかんと笑うので、あたしも林田もどういう顔をしていいかわからなくなった。
社長はそれを見て、ますます楽しそうに続けた。
「わたしの病気は上顎癌の一種です。
鼻から発病して次に口をやられて、鼻も口唇も取ってしまったの。 切らなきゃ死ぬって言われて、仕方なくアッチを切りコッチを切りしてるうちに、顔がなくなって来ちゃった訳よ。
死神が追いついて来るまで、この顔、残ってりゃいいけどねえ」
社長の口調は他人事のように呑気で、笑顔は穏やかだ。
死に瀕した人とは思えないし、周囲の人の態度からも悲壮感は感じられなかった。
とにかく、みんな明るく一生懸命働いていた。
「もし言葉が聞き取りにくい時は、遠慮なく聞き返してくださいね。
‥‥ああ氷川さん、あなたたちは構わず仕事しててちょうだい」
氷川さんは、社長の制止を振り切って立ち上がり、あたしとウィズに向かって頭を下げた。
「あの‥‥先日は失礼なことを申し上げました、お詫びいたします!」
「いえ、僕の方の配慮が足りなかったので」とウィズ。
湊社長が笑顔で首を振った。
「如月さんのせいではないのよ、ごめんなさいね。
わたしに時間がないものだから、氷川も焦っているのよ。
喜んであげないとすーぐ落ち込んじゃって、もう気を使うったらないんだから」
「もお、社長!」
子供のように唇を尖らせて、氷川さんがすねて見せた。
この人でもこんな表情をするんだ。
湊社長は、あたしたちに椅子を揃えて勧めてくれた。
腰掛けたウィズを見て眼を細め、
「噂どおりのハンサムさんだわね、如月さんは。
‥‥うわやだ、この言い方はオバサン臭かったわねえ? イマドキはイケメンと言うのよね」
悪夢に出て来そうな包帯だらけの顔にそぐわない、可愛い声で笑った。
ウィズはきっぱり首を振る。
「僕のこの顔は生まれつきで、誇りでも手柄でもないです。
でも湊さんのその笑顔は、人生の戦利品ですよ。
だから氷川さんみたいな優秀な人が、骨身を惜しまず働くんでしょう?」
「ほら聞いた? 氷川さん。
これがオトナの態度と言うものよ、いい人でよかったわね」
「‥‥わかりましたから、もういじめないで下さい」
氷川さんがぼやいた。
ひとしきり笑ってから、湊社長は林田に笑いかけた。
「さてと、林田‥‥のぞみさん、でいいのよね?」
「あ、はいそうです‥‥」
うなずく林田の声が妙に素直だ。
「会えてよかったわ。
小学生のあなたに、わたしは救われました。
あれからずっと、何かお礼がしたかったのに、なかなか出来なかったのよ。 人間って、死ぬ段にならなきゃ、死ぬ時の準備なんて、思ってても出来ないものよね。
でも、病気のお陰であなたに生前分与することができて、結果的にラッキーだったのね」
「私、子供だったからあまりはっきりした記憶がないんです。
なんかすごく生意気な言い方をしたように思うんですけど、なんて言ってお止めしたんですか?」
林田が尋ねた。 湊社長は、包帯の隙間からそこだけ見える目を、懐かしそうに細めた。
「のぞみさんはね、『おばちゃんはきれいな顔をしているのになんで死ぬの? 顔のきれいな人は、人に好かれるから死ななくていいんだよ。
わたしなんか汚いから、死ね死ねって言われるけど』と言って、とても悲しそうな顔をしたのよ。
人って、自分の悩みで死ぬほどの苦しみを味わっていると、他のことで人より恵まれていても少しも気付かないのね。 いいえ、気付いても、それが今なんの足しになるかが判らないのよ。
事業に失敗してお金に困っていると言っても、即、殺されるわけじゃないわ。
路上で生活してでも生きるつもりになれば、命の危険はなかったの。 それが出来なかったのは、わたしの発想からプライドというものが抜き取れなかったからなのね。
そのプライドをかなぐり捨てたら、まだまだやりようはあったわ。
美しさは武器になる。
わたしはね、投資してくれていた企業の会長に泣きついて、その愛人になったの。
初対面のお嬢さんには信じてもらえないかもしれないけど、当時のわたしはそういう外見だったのよね。
関係者に嘲笑され、後ろ指を刺されながら、会長の愛人として経済的には安定したわ。
でも、それは怖い暮らしだった。
考えても御覧なさい。 美しさなんて、若い頃だけのものよ。
せいぜい10年20年のもの、薄氷を踏むような栄光だったわ。
いつの日にかしわくちゃになって、パトロンに飽きられて愛想をつかされる日が来る。
そうなった後でも、まだ長い人生は終らないのよ、普通はね!」
どのみち醜くなった後も、人生は続くのだ。
あたしの横で林田が、黙って唇を噛むのがわかった。
ああ、今回動きが少ないまま終ってしまいました。
3000字前後の長さで1回分を切っているんですが、一度も盛り上がらない回も出たりして、連載は難しいですね。