10、殺される!
ショッピングモールから帰る道のりは地獄のようだった。
ウィズのレヴィンの前に来ると、対向車はドアを全開したり、いきなりスピンしたりした。
信号は気まぐれに色を変え、路上では工事車両がタールを大量にぶち撒いた。
50mおきに交通事故を見た。
走行するレヴィンのボンネットで、事故車から飛んで来たミラーが跳ね、撥ねられた人の荷物がフロントガラスにぶつかった。
野球練習場のネットは腕を組んで倒れ、その上にヘリコプターが落下した。
生きた心地がしなかった。
でも、あたしの目ににじんだ涙は、恐怖のためではなかった。
ウィズは激しく動揺し、落ち込んでいた。
でもそれを少しもあたしに分けてくれないのだ!
一緒にその場にいたのに。 彼の恋人なのに。
こんな時にふたりで愚痴が言えなくて、何のために毎日会ってるんだろう。
何のために婚約したんだろう。
悔しさで涙が頬を伝って、握り締めた拳の上にぱたりと落ちた。
ウィズを責めちゃいけない。
タダでさえ落ち込んでるんだもの。
わざとやってるわけじゃないし、自分で気付いてさえいないかも知れないんだし。
でも、とにかく何とかしないと、街がめちゃめちゃになってしまう。
「ウィズ。 車を停めて」
魔術師に言ったが、反応はない。
「停めてってば!!」
思わずウィズの左腕をつかんでしまった。
途端にガクンとショックがあった。
車は激しく揺れ、半回転して後ろ向きに路肩に投げ出された。 ガードレールで車体をこする、嫌な音が脇腹を震わせた。
右側からスピンして来た対向車を除けそこねて、右前面をぶつけられたのだ。
相手の車は対向車線側にはじき出され、中央分離帯の低木に鼻面を突っ込みながら、お尻を振って止まった。
「美久ちゃん! 何をするんだ!」
ウィズが顔色を変えて怒鳴った。
いかに仙人のようなおっとりボーイでも、大声で怒鳴ると怖い。
体がすくんで、それ以上何もできなくなった。
凍りついたあたしを車内に残して、事故の状態を見るためにウィズは車の外に出て行った。
そこでさらに恐ろしいことが起こった。
魔術師がイラついた動作でドアを閉めた途端、ザアッと音がした。
いきなり車内が水浸しになった。
ものすごい勢いで、上から水が降って来たのだ。
あたしは一瞬のうちに全身ずぶ濡れになった。
車の天井を見上げても、水が出てくる場所なんかないはずなのだ。
でも確かに出てくる、とめどなく出て来る。
ちゃんと確かめようにも、目に入ってくる水の量が多すぎてはっきり見ることが出来ない。
見る間にあたしの足首までが水に浸かり、さらに水位が上がる。
水圧で体がシートに押し付けられる。
ドアを開けようとしたが、どうしても開かない。
逃げ場のない水はすぐにあたしの腰まで浸し、あたしはそこで初めて生命の危険を感じた。
「助けて! ウィズ! 開けて!! いやだあぁ!」
力の限り叫んだら、相手方の運転手と話し合っているウィズがやっと気付いてくれた。
彼はすぐに駆け寄ってドアを引いたが、開かない。
「美久ちゃん、ロック開けて!」
「かかってないわよ!」
「僕はキーを持ってない、そっちから開けないと」
「かかってないんだったら!
水の方を止めなさいよ、ウィズがやってるんでしょう!?」
水面が口元まで来たので、立ち上がって中腰になる。
「溺れちゃうわ、何とかしてよ!
あたしを殺すつもりなの!?」
ウィズが愕然として動きを止めた。
「僕が‥‥? 美久ちゃんを、殺す」
「止めて、水を止めてよ、死んじゃう!」
叫んだ口から水が浸入して来る。
あたしの体が浮き上がり、頭と背中が天井にぶつかった。
すぐに空気がなくなってしまう!
自分がウィズに殺されるなんて、それまで考えた事もなかった。
一度その想像を手に入れてしまうと、恐ろしくて何も考えられなくなった。
ウィズが怖い。
傍を離れたい、逃げ出したい!
出会ってから一度だってとらわれた事のない思いに、あたしの頭が鷲づかみにされた。
ウィズから、逃げなきゃ!
ドアの外で立ち尽くすウィズの顔から、すうっと表情が消えて行った。
あたしの恐怖が伝わったのだ。
途端に、前ぶれもなくレヴィンのドアが開いた。
水が勢いよく道路へ溢れ出し、あたしは水ごと路面に叩き付けられた。
肩と足をひどく打ちつけ、呼吸が止まる。
やっぱり殺される!
水から解放されたのに恐怖は増し、痛みにもかかわらず飛び起きた。
気付いた時には駆け出して、10mばかり走っていた。
ウィズから逃げてしまった!
気がついて血の気が引いた。
足を止め、よろめく体を逃亡から引き戻す。
恐る恐る、魔術師の顔を肩越しに振り返った。
彫像のように、硬質な印象の若者がそこに立っていた。
あたしのウィズじゃない、まるで違う人のような顔つきの青年だった。
仙人のようにおだやかだった顔が、ロボットかサイボーグみたいに見えるのだ。
息を飲んだ瞬間。
全ての明かりが消えた。
街灯も、信号機も、車のライトも。
アパートや民家の窓の明かりも。
遠くでまたたく色とりどりのネオンも。
何もかもが消えて、真っ暗になってしまった。
視界が丸ごと、闇の中に転げ落ちてしまった。
一瞬、立ってるのか寝てるのかもわからなくなった。
次の瞬間、頭上に星空が広がった。
たいして大きくもないと思っていた半月が、妙に大きく空全体を照らしている。
星がこんなにあったなんて、それまで気付かなかった。
そう、辺りは真っ黒な闇。 空はその中で「黒くない闇」だった。
その中に立つウィズの体は、真っ黒な闇の色をして見えた。
彼は一言も口をきかず、黙ってレヴィンの助手席のドアを閉めた。
それから運転席に乗り込み、静かにドアを閉じた。
ライトもつけない車が、街灯もない暗い道路を走り去って行く。
あたしはすくんだまま、ただそれを見送った。
止めることは出来なかった。
彼から逃げたかったあたしの願いは、今かなえられたのだし、ひとりになりたかった彼の願いも、たった今かなってしまったのだから。
真っ暗な夜道を、泣きながら家まで歩いて帰った。
通りには意外に人が出て来ていた。
停電の規模に驚いて、近くの住人が知人同士で話をしているのだ。
切れ切れに主婦らしい集団の会話が耳に届く。
「冷房の使いすぎで‥‥」
「コンピュータの誤作動だって主人が‥‥」
「‥‥だけど電話まで通じないって異常‥‥」
「あら携帯は使えるって、やっぱり衛星使ってると‥‥」
「でもそうすると来年は」
「‥‥ベビーラッシュ?」
どっと笑い声が響いた。
深刻な事態にそぐわない明るさが、かえってあたしの心に突き刺さった。
暗いので側道から公園にまよいこんでしまったり、溝に片足を突っ込んだりした。
ヨロヨロ歩いていても、涙で顔がぐしゃぐしゃでも、誰にも見られないのが幸いだった。
そうして歩くうちに、ひとつのことに気付いた。
あたしの体は、少しも濡れてはいないのだ。
あの水は、ただの幻だったのか。
本当に死ぬことは、なかったんだ。
でも幻だって本物だって、心の絆を切る力は同じだけあったのだ。