異世界召喚であてがわれた旦那様は稀代の極悪犯罪者だった ― その後の物語 ―
ご要望を頂いたため、続編を書きました。
この物語は「https://ncode.syosetu.com/n7009ge/」の続きです。
「ね~、まだ……? お尻痛くなっちゃって、もう少しも座ってられないんだけど」
すっかり弱りきった声に、思いのほか傷つく。そもそもこれが傷ついたということなのかもわからないが、とにかくその声色に今まで感じたことのない胸が悪くなるような気持ちが湧いた。
なんだか嫁が来てからはこんな気持ちになることが多いなと思いながら、眉を下げて文句を垂れる女の方を見た。
「悪いが――おい、待て。お前、なんて格好をしてんだ」
先程までは尻を高く揚げて――いわゆる女豹のポーズでウンウン唸っていたはずの女は、膝が痛くなったのか今は腹を出して大の字に転がりながら青い顔をしている。
まくれ上がった服を直す余裕もないらしい。
「まったく……」
かたやダグラスはと言えば、牢獄を出たときとは打って変わって綺麗に整えられた髭と髪、そして身の丈にあった服をきっちりと着こなしていた。
前髪は後ろに流してあり、今まで意図せず隠れていた硝子のような目は哀れみに満ちた色を浮かべている。
「……しかも私、酔ってる」
「…………」
この女、驚くほど三半規管が弱かった。
あの国を出てから数日。最初こそ殊勝な顔をして文句は言わないようにしていた女だったが、訳あって体調不良は隠すなときつくダグラスに怒られた。
その原因というのがまたどうしようもないもので、最初の宿にたどり着いたときに女が盛大に戻したあと丸一日使い物にならなかったのだ。
少しでも頭の位置が変わろうものなら草むらに駆け込む始末で、周囲はおめでたいなと笑っていたがとんでもない。
しかも木でできた安い馬車のせいで体中を痛めていたのに何も言わなかったと知ったダグラスは、青アザや擦れたあとを見て女のあまりの弱さに心底驚いた。
こと他人の心情や体調を察するということが苦手なダグラスは、頼むから全部隠さず言ってくれと泣きついたのだ。あの、ダグラスが。
尋問・拷問をするときには誰よりも人の顔色を読むのがうまいくせに、この手のことは全く気がつかない。
「おいおい、酔いそうになったら言えと言っただろう」
慌てて馬車を停めて荷台の方に駆け寄れば、女は静かに目を閉じて大きくため息をついたところだった。
「だって酔いそうって思った瞬間に体が自覚して急激に酔ったんだもん……私のせいじゃない……」
じゃあしょうがないか、酔ったことがないからわからんがそういうものなのだろう、と頷く。
「ほら、これを噛め。酔ったあとでも効果があるらしいぞ」
「……何これ」
「どうせこのあとも酔うだろうと思ってなあ。薬草だ」
「……ありがと」
今何も口に入れたくないんだけどな……とブツブツ言いながらも小さい口で葉っぱを噛む。
その口元から何故か目が離せず、ゴクリと生唾を飲み込んだところで女がキラキラと目を輝かせた。
「効いたか?」
「うん、これ凄い。魔法みたい。ありがとう! 凄いね! これ高かったんじゃない?」
女がニコッと微笑んだ瞬間、目をそらす。
ああ、なぜ目をそらしてしまったのかと思うものの、今更視線を戻すのも変な気がしてそのまま前を向いた。
「いや、別に……効いたならいい」
胸元から布袋を取り出し、投げてよこす。
「さっきの雑草――薬草が入っているから。具合が悪くなったら噛め」
「雑草……?」
「薬草」
「……まあいいか。ありがとう」
そうだ、なぜ思い出さなかったのかと膝を打って、二日前に立ち寄った町で買ったものを漁る。
使われずに袋の中にしまったままにしていたふかふかのクッションが、ようやく取り出された。女の方へ投げて渡せば、いつ買ってくれたのだと嬉しそうに笑う。
「ふかふかだ~! しかも二個も!? 寝転がりながら頭と腰に使えるじゃん! 嬉しい!」
最初から出せと怒るのではなく「ありがとう!」と言って笑う女に、ダグラスは酔ってもいないのに吐きそうになった。
「……おう」
嬉しすぎると吐きそうになるのか、俺は……と顔をしかめながら、いったいいつになればこの感情の起伏の激しさに慣れるのだろうと、何度も唾液を飲み込みながら小さくため息をつく。
しかしすぐにこいつが嬉しそうならいいかと思い直し、再び馬車を操るのだった。
「それで、あとどのくらいで着くの?」
「ステノンを発ったのが二日前だから、何事も起こらなければもう今日の夜にでも着くんじゃないか?」
「そうなの? 楽しみだなあ。どんなところなんだろう。あれ、あんたの家ってあるの?」
「…………」
急に黙り込んで考え始めた男に、思わず顔をしかめる。
「え、何、実家消えた?」
冗談のつもりでそう言ったが、ダグラスの顔は晴れない。
これは地雷を踏んでしまっただろうかと女が申し訳なく思ったその瞬間、ようやくダグラスが口を開く。
「さてどうかな。わからん。あると思うが……親父は俺が殺して壁にはりつけてやったのでいないんだ。母親は殺してねぇから、まだ住んでいるんじゃないか? たぶん」
「ふーん、そうだったんだ」
ん? 殺して壁にはりつけた?
あまりにも平然と言うものだから流してしまったが、とんでもない単語が聞こえた事に気づき、女は生唾を飲み込む。
しかも旦那が殺された家に、まだ母親が住んでいるという。
「……それは――」
いや待て。と女は言葉を引っ込める。
果たしてこの男に「なんでお父さん殺したの?」「あんたが帰ってきたって知ったら、お母さん嫌がるんじゃないの?」と聞いてもいいのだろうか。
「…………」
良いわけがない。
女には優しいのですっかり忘れていたが、そもそもにして目の前の男は平然と人を殺して国の転覆を狙った犯罪者なのだ。
その片鱗は今までも現れていなかったわけではない。
助けてくれたとは言え、一番最初に会った野盗は顔の形が変わるほどボコボコにされていたし、道中に泊まった宿屋でチラチラと女を見てくる男たちがいれば烈火の如く怒り狂って喧嘩を仕掛けに行くので、腰にすがりついてなんとか止めたほどだ。
勿論、そんなことがあってからは渋るダグラスを押さえつけてまで「RPGっぽい宿屋の食堂でご飯を食べるのが夢だったの。せっかくそういう機会があるのに、部屋で二人きりでご飯食べるなんて嘘でしょ」とは言っていない。
「……まあ……いいか、行けばわかるよね」
そして困った女は、考えることを放棄した。
「言い忘れていたが実家には行かねぇぞ」
「いや、そうだよね。それがいいと思うわ本当に。そもそも別の地域でも良くない?」
思わず食い気味にそう言ってしまい、ダグラスには女が何を考えているのかが手にとるようにわかってしまう。
そして吹き出すと口元を手で覆った。
「悩んでいたところ実に申し訳ないが。あの辺りはいわゆる巨大なスラム街みたいなものでな。俺みたいなやつが住むには丁度いいんだ。お前は嫌かもしれないが、あそこなら強ささえあれば最高にいいとこなんだぜ」
「強さがまったくない私が行くと死ぬ未来しか見えないんだけど」
「そんなの俺が許すとでも? 俺の側にいろ。そうしたら守ってやる」
振り返って鼻で笑う。
顔がいい男にそう言われて何も思わないでもないが、全ての元凶はこいつなんだよなと思うと感動も薄れる。
複雑な心境を抱えた女が何を考えているのかなど気づくこともなく、ダグラスは機嫌良さそうに口笛を吹くのだった。
+ + + + +
「そら、到着だ」
夜も更けた頃。
ダグラスの生家があるという土地についたのは、そろそろ眠くなってきたなと女が思い始めた頃だった。
「うわ……何これツギハギ要塞……?」
あちこちから吹き出す水蒸気に、何かの鉄同士が擦れる音。日中と同じくらい明るい街。
ガヤガヤとうるさいそこは、まさに不夜城といった様子だ。
街の周囲は中が見えないほど高い鉄製の壁で覆われており、あちこちにサビが浮いたり壊れた部分をついで補修したような跡がある。
「鉄の要塞と言われている。ここに来るやつは違法な手段で武器を手に入れたいやつだな」
「……そうなんだ」
「馬車も馬もここでは高級品だ。このまま置いておけば誰かが盗っていくだろう」
「もういらないの?」
「馬だけは持っていくが、馬車はいらんだろう。次使いたくなったらもっと座り心地のいいやつを買うさ」
そう言うが早いか、ダグラスは器用に馬を馬車から解き放ち手綱を引いた。
「ねぇねぇ、ここに入るのに入国審査みたいなやついるの?」
「入国……? ああ、あの金を払うやつのことか」
「そう」
スッと視線をそらして街を見て、そしてニヤリと口角を上げる。
「安心しろ、俺は顔パスだ」
「全然安心できない言葉だね」
「まあ見ていろ。それから門をくぐったら……いや、門の手前にある掘っ立て小屋が見えてきたら、お前は絶対に口を開くなよ」
不安になり小さな声で本当に大丈夫なのかと何度か確認していると、声をかけてくる男がいた。
「おやあ? ダグラスの兄貴じゃないですか? てっきりブタ箱に閉じ込められて一生出てこられないんだと思いやしたが」
声のする方へ顔を向ければ、小さな掘っ立て小屋の窓から髪の毛のない歯抜けの男がエヘッエヘッと笑いながらこっちを見ている。
歯はどれも虫歯で黒く染まっており、肌はガサガサで見るからに不健康そうだ。そして手が常にブルブルと震えている。
「今日の門番はお前か」
「へえ、そうでさあ。トットの野郎が女の具合が悪いってんで俺が代わりに」
「そうか、ご苦労だな」
「旦那はどうしてここに――お、お、お、女ぁ!?」
今の今まで死体のような顔色をしていたというのに、女を見つけた瞬間に“血色が良い”を通り超えて不健康な赤さになる。
「俺の嫁だ」
「だだだ旦那に!? だんっ……旦那の嫁ぇ!?」
「見るな。唾が飛ぶから向こう向け」
心底気持ち悪いといった表情で男を蹴飛ばすと、女を引き寄せてコートの内側にしまう。
「門を開けろ」
「いや、その前に……え、つーか……ああ~クソ聞きてぇことがありすぎる……!」
すっかりパニックになった男をげんこつで黙らせると、もう一度門を開けろと面倒くさそうに言う。
「おおおお嬢さぁん……い、い、良いお方の嫁になりましたなあ。この街でこの男を恐れない男はいないんだ。あんた一生安泰だよ」
「おい、早くしろ。次は首をはね飛ばすぞ」
「うぇっ……そう怒らないでくださいよ旦那ぁ……さあ、金獅子の凱旋だ! 唸れカンパーナ!!」
男がだみ声でそう叫んで掘っ立て小屋に付けられたスイッチを叩いた瞬間、街中の煙突から水蒸気が吹き出し、仕掛け鐘が轟音を立てる。
何事かと街中の人が顔を上げ、そしてその鐘の音の意味を知る。
― 王のお帰りだ ―
サッカースタジアムに行ったときのような轟音。誰しもが自分の推しているチームを声を張って応援するように、みなが大声でそう叫ぶ。
この男、そんなに凄いやつだったのかと青ざめていると、自分を見ている女に気づいてゆるゆると口角を上げて女の耳へと口を寄せた。
「言ったろ? 顔パスなんだよ俺ぁ」
「あ……あ、あの、さあ……!? な、なんか……なんか嫌……!」
叫ぶようにそう言った女と、ガチリと固まるダグラス。
「あ!? じゃなくて……! そうじゃなくて、そう言いたいんじゃなくて、つ、つまり、その……」
冷や汗をかきながら手をバタバタさせる女に、天を仰いだダグラスは優しくポンポンと女の肩を叩く。
「ああ、わかってる」
何がなのか。
わかってないはずだ。
そう思って「あの、聞いて、そうじゃなくて」と声をかけ続けるのに無視をされる。
怒って無視をしているのでは勿論ない。
真顔だが、女はここ数日ダグラスと一緒に過ごしてわかっていた。あの顔は深く傷ついている顔だと。
つまり自分の声が聞こえないほど傷つけてしまったのだと。いや、鐘の音や街の人の馬鹿騒ぎで大声を出すか耳元で話さないと声は聞こえないが。
「ね、ねぇ……待って……! あのっ……あっ、ごめんなさい! ぶつかっちゃた! うわっ、ごめんなさい、またぶつかっ――」
立て続けに誰かとぶつかり、慌てて方々へ謝る。
「えっ……あれ……ちょっと……わ……!!」
しかしお祭り騒ぎでダグラスに駆け寄ってくる男どもは女のことなど見えもしないようで、次々に走り寄ってくる男に弾き飛ばされながら、女はとうとう路地裏まで追いやられてしまった。
「やだ……どうしよう……」
ダグラスの姿は見えない。
典型的な迷子。
果たしてあの男は気づいて迎えに来てくれるだろうかと青くなり、何気なく路地裏へ視線をやる。
「うわ」
割れた注射器の残骸。人のものとしか思えない頭骨。異臭を放つ黒い水たまり。
やはり路地裏から出てダグラスを探そうと振り返ってはみるが、あまりの人の多さに身動きが取れない。
「どーしよお……」
情けない声を聞くものはいない。
そう、迫りくる影をのぞいては――
+ + + + +
「旦那ぁ~! 今までどこに行ってたンすか! あ、監獄か! ガハハ! 一人で帰ってくるたあ旦那らしいや」
そう言われ、ハイハイと聞き流していた男の思考が止まる。
「…………」
慌てて後ろを振り返れば、自分の後をついて来ているはずの女は消えていた。
常に無い様子で慌てだすダグラスの様子を見て、馬鹿騒ぎをしていた男たちの間に動揺が走る。
なんだ、あの金獅子がこんなに焦るとはいったい何事だ。そういう声があちこちから上がるが、当の本人には聞こえていない。
「…………」
名前を呼んで探そうとして、呼ぶべき名前を知らないことを思い出す。
盛大に顔を引きつらせながら舌打ちし、大きく息を吸い込んだ。
「黒髪の女を探せ! 探したら触らず近寄らず俺を呼べ! 怪我をさせるな、話しかけるな、必要以上にジロジロ見るな!!」
一瞬その場にいたものは何を言われたのかわからなかった。
みんながみんなして呆けた顔で見ているのに気づき、青筋を立てながら「早く散れ!」と怒鳴る。
しかし誰も動けずにいた。
「旦那ぁ、牢獄に閉じ込められていて頭でもおかしくなったんですか? この世界に女なんかいやしませんぜ」
「俺の嫁だ馬鹿! お前らが詰め寄ってくるからはぐれただろうがクソ野郎ども!!」
「よ、嫁ぇ!?」
「金獅子に嫁が……!? いったい監獄にいる間に何が……」
そこでまた一騒動起きようかとしていることに気づき、いらだちを隠しもせず舌打ちした。
その様子を見た男どもは慌てて散ってく。
その時のことだった。
「名前は? 呼んだほうが早いだろう? 流石にもう名前くらい聞き出したよな?」
聞き覚えのありすぎる声。
振り向けば、いつも真夜中に牢へとやって来る男がニヤニヤと笑いながら立っていた。
明らかに浮いているこの場に似つかわしくない、顔の綺麗な男だ。金色の髪に青い目と、わかりやすくかの潰した国の王族にしか現れない色を持っている。
「…………」
「教える気はないって? 脱獄を手引きしてやったのにケチだな。嫁を助けるためなんだから、それくらいいだろうに。友達だろう?」
それを無視して歩き出すダグラスに、男は焦ったように駆け寄った。
「おーい、ちょっと待てよ。いつ帰ってきたかとか聞かないわけ? 俺の心配とかしなかった?」
「興味ない」
「友達がいの無いやつだな」
「一族ごと死んだことにして国を潰し、挙げ句俺にその罪を全部なすりつけたやつをどうやって心配しろと?」
「悪かったよ。でも代わりに守ってやっただろう?」
立ち止まり、噛みつきそうな勢いで振り返る。
男の胸ぐらをつかんで勢いよく壁に押し付けると、額を突き合わせて睨みあげた。
「悪いな、小僧。今気が立っているもんで、優しくしてやれねぇんだ」
「あのときは優しかったのになあ。国を潰したいから手を貸してくれって言ったら、見返りも聞かないうちから乗り気になったじゃないか」
「あのときはな? 王族殺しなんかなかなかできるもんじゃねぇだろ? 楽しかったぜあれは。全員殺せなかったのが残念だ。お前も含めてな」
首を絞め上げられているのにニタリと笑う男は、ようやくこの街に相応しい表情になる。
「ダグラス。お前、あれだろう。巷ではあと少しで国を潰せるってときにやめたのは“飽きた”からだのなんのって言われているけど、本当は婚姻紋が浮き上がって動揺していたんだろう? よく牢屋番に見つからずに一ヶ月も過ごしたよなあ」
首の締め付けがきつくなる。
「俺の依頼は一晩で国を潰せだったよなあ? 依頼もまともにこなせないやつが、何を偉そうにしているんだ?」
「王様、まさかとは思うがあの依頼が成立していたとでも言うつもりか? お前は色々手引きしたと思っているようだし、実際にそうしたのかもしれんがな――いいか、クソガキ。俺は一度もお前に“手伝う”とは言ってねぇ」
首を絞められた男はしばらく考え、そして花が咲いたように笑う。
「確かにそうだ! 言っていないな。僕の勘違いだったようだ。すまないね」
「可愛いこぶってもこの手は離さねぇぞ。俺は今、残り少ない王族を殺すと決めたんだ。家族の死を願うやつなんか生きていても碌なことがねぇからな」
「自分の親父を殺しておいてどの口が言うんだ?」
心底不思議だと思っている、という顔をして煽る。
常ならば鼻で笑って流すが、気の立っているダグラスにはよく効いた。
「あ、待ってくれダグラス。首の骨がきしんだ。謝るので離してほしい。君は旧知の友を殺す気か?」
「こちらは子犬が勝手に懐いただけだという認識だ」
「いや……ちょっ……いよいよ呼吸が――」
「だ、旦那ぁ~! 嫁が見つかりましたぜ!」
今までの殺伐とした空気が嘘のようにはれ、声の方へ走っていく。
手を離された男――滅びた国の王は、何度も咳き込んで首をさすった。
「……痣になるな」
少しからかいすぎたかと反省し、大きくため息をついた。
ダグラスの後ろ姿はもう見えない。
+ + + + +
「あ、あのぉ……」
女は困ったことになっていた。
路地裏でどうしようかと眉根を下げていたのを発見したのは、あの門番の男だったのだ。
男は笑顔で「ありゃ? なあ~んでまたこんなところに一人でいらっしゃるんでございますか? あ、俺は終業時間がきたんで他のやつに引き継いだんすけどね」と話しかけてきた。
はぐれてしまったのだと困ったように言えば、自分が鐘を鳴らしたせいで騒ぎになったことを反省し、男は下手な敬語で丁寧に謝罪をした。
問題はその後だ。誰か他の男にちょっかいを掛けられたらまずいと、騒ぎが落ち着くまで隠れられるところにいようと提案したのだが、はぐれちゃならんと――正確に言えばやましい気持ちがないわけでもなかったが、はぐれてしまったら元も子もないからと、仕方なく女と手をつなぐことを提案した。
不安になっていた女はすぐさまそのいかつい手を握り、男はその手の柔らかさと自分を否定しなかったことに感動して声を上げてわんわん泣き始めたというわけだ。
しかしそれもつかの間――
「えーと……その人、生きてますよね?」
風のように現れた複数の男たちは、誰も女の質問に答えない。
わんわん泣きながら安全な場所に連れて行くと言った男は、その後すぐにこの男達に囲まれて「お前殺されるぞ!!」と言われて殺されかけた。
何が起こったのか、女も男もまるでわかっていなかった。
ただボコボコに殴った男たちだけが「危なかった、こいつ殺されるところだった……」と青い顔をして言うのだ。
そしてビタリと固まった後、女の方を見ないようにしながら「どうする?」と言ったかと思えば、我先に「俺が旦那を呼んでくる」と先を争うようにして駆け出し、そして「いや、見張りがいないと困る。誰かここにいろ」と揉め始めたというわけである。
その揉め事の間、女はボコボコにされて倒れ伏した男の側にしゃがんで生きていることを確認済みだ。
しかしあまりにも動かないので心配になってきた。
だというのに――
「この人、病院に連れていきたいんですけど……」
「そういやこの街の男はめちゃくちゃ頑丈だから、ボコボコにされても寝てりゃ治るってのは常識だったかァ?」
「あ~~~忘れるところだったが、確か常識だったなァ!」
――と、このように会話が成り立たず“あくまでも男同士の世間話”という体で女に返答をする始末である。
女も誰かがダグラスを呼びに行ってくれているらしいということ、また既婚女性は男性と直接話さないということはわかっていたが、正直どうすればいいのかまるでわからなかった。
「……早く来ないかな」
その一言に緊張が走る。
女はまるで気づいていなかったが、辺りは一瞬にして緊張に包まれた。
そもそも女が金獅子のことについてどれほど理解しているか――いや、かけらも理解していないが、この街にとって金獅子の称号を持つ男というのは国の王と同じ意味合いを持つのだ。
その伴侶が「早く旦那に会いたい」と望んでいるのに、それを叶えられる人はここにいない。
「……どうする?」
「どうって言っても……」
男たちの顔色はどんどん悪くなる。
ダグラスは決して圧政を強いるような男ではなかったし、下の者は大事にする。しかし殺気溢れる“俺の女を探せ宣言”で肝を冷やさなかった男はいないだろう。
だからこそ困っていたのだ。まさか目の前の女の一言で、自分の首が飛ぶようなことになったら……と。
どうすればいいのだと泣きたくなってきた頃、先に女の方に我慢の限界が来た。
「あ~もう!! 遅い! 何が側にいろだよ!! 弱い私ができるわけないでしょ! 弱いと側にいるだけのことすらできないって何で気づいてくれないかなあ~!!」
ワッと泣き出した女に、もう周囲の男立ちは倒れる寸前であった。
どうやって泣いている女を慰めればいいのか。いや、そもそもこんなところを万が一にでもダグラスに見られでもしたら――……
女は女で自分がむちゃくちゃを言っている自覚はあったが、知らない土地で強面の男たちに取り囲まれ、何かされるわけでもなく、しかし移動しようとしたら怯えたような顔をしながら棒きれでつついて行く手を阻んでくるので動けもせず、自分を助けてくれたはずの男は暴行されて意識を失い、すっかり混乱してしまった状態でもう何一つ我慢することができなかった。
「うわ~~~ん! ダグラスの馬鹿ぁ!!」
そう叫んだ時のことだ。
どん、とかガシャン、とか。
とにかく固いものが転がったり割れたりする音を派手にたてながらダグラスは登場した。
「うわ、びっくりした……えっ……?」
床に転がったまま真っ赤な顔で、目も口も開きながら女を見つめる。ダグラスの心底びっくりしたような顔に女の方が驚く。
しかしすぐに正気を取り戻し、眉根を寄せて口をとがらせながら肩をいからせ、足を踏み鳴らしてダグラスのもとへ行く。
「ちょっと!! 遅い! こちとら初めての土地なんだから迷子になるに決まってるのに! どうして先に行っちゃったの!!」
「…………」
「……あっ、いや、私が酷いことを言ったせいだとは思うんだけど、それはごめんなさいなんだけど、でも私、聞いてって言った! あれはそういう意味じゃなくて、あんたただのおじさんだと思ってたのに、なんか凄い人だったみたいで、急に離れて行っちゃった気がしてビックリしたというか――」
言い訳をしたり謝罪をしたりとうろたえていたが、まるで反応しないダグラスに気づいて顔を歪める。
「……ねえ、聞いてる?」
「おま……俺の名前……覚えてたのか……」
「はあ?」
「俺ぁてっきり、お前は俺の名前なんか忘れてんだとばかり……」
ダグラスはゆっくり起き上がって座り直し、手で顔を覆う。
その姿を見た女は酷い罪悪感に襲われ、恐る恐るダグラスのもとへ歩み寄る。途中門番の男を蹴っ飛ばしたが、それには気づかずダグラスの前で跪いた。
「あ~……いや、まあ確かにあんたとかそんな呼び方ばかりだったけど、別に悪気があったわけじゃ――」
まるで自分が迷子になったかのような泣きそうな顔で、ダグラスが女を引き寄せる。
大事に腕の中に閉じ込めると、首元に顔をうずめて大きなため息をついた。
「悪かったよ。もう置いていったりしねぇから、許してくれよ」
「あれは……わざとじゃないじゃん……私が選んだ言葉が悪かったからでしょ。むしろこっちが……その、ごめんなさい」
「……おう」
あまりにもぎゅうぎゅうに抱きしめるものだから苦しくて息がしづらかったが、女は我慢して動かなかった。
やがて満足したのか、ダグラスは顔をあげると後ろを振り返って男たちを見る。
「お前らも悪かったな。タパーニャで好きなだけ飯食って飲んでいってくれ。店主にあとでカーンが支払いに行くと伝えておいてくれると助かる」
男たちは何度も頷くと、我先にと路地裏から飛び出していく。
その姿を見送りながら、女は息を吸い込んだ。
「えーと、それで……あっ、そうそうあそこに倒れてる……門のところにいた人、あの人が助けてくれたんだけど、ちょっと困ったことになってるんだよね」
言われて初めて存在に気づいたダグラスは、ああと小さくつぶやいて立ち上がり、女の手を引きながら倒れ伏す男の横へしゃがみこんだ。
「おい、生きてるか……駄目だな。完全に落ちてる」
「……死んだりしないよね?」
「ああ、このぐらいじゃあな」
といってもすぐに起きるわけでもなさそうなそれを、ダグラスは肩に担いで歩きだす。
「こいつの家はすぐそこだ。悪いが付き合ってくれ」
「もちろん。私のせいでそうなっちゃったから……」
心配そうに別の男を見るのは腹立たしいが、自分の妻を守った男であるというのはわかっていたので我慢する。
表通りに出ればすぐさま人に囲まれるが、女とつないでいた手を離して、代わりに女の肩を抱き寄せた。
「おいクソ野郎。近づくな。またはぐれるだろうが」
「旦那~! やっと帰ってきたんだな! アンタの実家はまだあるぜ。女達が旦那の母親の世話やいてんだ」
「あいつは世話なんか焼かなくても生きていけるだろうが」
「まあ、そう言わず会いに行ってやってくれよ旦那。きっと涙流して喜ぶから」
実に楽しげに言う男の台詞に、女は肝が冷えた。
なんてことを言うんだこいつはと驚愕の眼差しを向ければ、その視線に気づいた男はニッと笑って手をふる。
「そっちのが旦那の嫁だろ? 俺も探してたんだけど、見つけたのが別のやつで残念だな」
「……離れろ」
わりと強い力で突き飛ばされ、男がたたらを踏みながら笑う。
「悪い悪い。まあ、そんなわけだから実家に一度は帰ってやってくれよ~」
そう言って去っていく男を見送りながら、女はそうっとダグラスの表情を伺った。
苦い顔をしてはいるが、それは実家のことを口に出されたからではなさそうに見える。
そして視線が合い、ダグラスの顔は盛大に歪んだ。
「……お前が何を考えているのか当ててやろうか」
「……なによ」
「お前、俺がおふくろと――」
「お~! 旦那じゃねぇかあ! 本当に帰ってきてたんだなあ! 俺は久々に凱旋ラッパを聞いたぜ! ガハハ!!」
そういう風に少し歩いては誰かに話しかけられ、会話が進まない。
しかしどことなくダグラスは嬉しそうで、女は旧知の友に会ったようなダグラスの表情を見て少しだけ安心した。
「……あんた犯罪者だし、人殺すし、頭のおかしいやつだと思われて浮いてるんじゃないかって心配してたけど、結構慕われているのね」
その台詞にキョトンとした顔を向けながら、ダグラスはボソリとつぶやく。
「ここにいるやつで人を殺したことがないやつなんか、女どもぐらいだが」
「…………」
スッと顔色をなくした女に「なんだどうした」と言いながら、オロオロして顔を覗き込む。
「あんた、ここ、理解のあるやつが多いって言ってたけど……」
「ああ」
「……まさか、ここ……犯罪都市じゃないでしょうね」
「その通りだが。ここは犯罪者しかいない街だ」
遠い目をして黙り込む。
「……嫌か? ならすぐにここを出よう」
「えっ!? 旦那ぁ、せっかく戻ってきたのに……ここに住むんじゃないのかよ!」
「嫁が嫌がるなら出る」
そう言って肩に回した手に力を込めれば、女は細い声でつぶやいた。
「……いや、いい……多分だけど、あんたの権力が強いところにいたほうが私が安全だと思う……」
残念ながらその通りだった。
ここであれば女が悪い男に襲われる可能性は低い。
しかし――
「でもお前、他の女と同じで犯罪に関わったことがねぇんだろう? 街の女達は行くところがなくて仕方なくここにいる場合が多い。ただ俺らは大なり小なり何かしらの犯罪をやっているからな。女は潔癖だから、大体の夫婦仲は悪いんだ」
そうはなりたくないから、なら出ていこう。
そう提案してくれているのは嬉しいが、そもそもにして女が潔癖だから夫婦仲が悪くなっているわけではないと声を大にして言いたかったのを、女は何とか飲み込んだ。
犯罪者の伴侶になってしまった時点で色々と諦めなければいけない事が多いということもわかっていた。
それにここはダグラスの故郷で、こんなにも慕ってくれる者がいる。それを自分の都合で変えさせるというのは流石に気が引けた。いや、もちろん限度はあるが。
「……とりあえず、ここで。ちょっとどうしようもなく嫌なことが起こったら、そのときにまた話させて」
「……わかった。おい」
後半の呼びかけは話しかけてきた男向け。
そして肩に担いでいた男を押し付けると、悪いがこいつを家に戻しておいてくれと言って金を渡して女に向き直った。
「なあ、ちょっと話がしたいんだ。飯でも食いながら話そうぜ。お前、お腹空いただろう?」
「……うん」
急激に萎れてしまった女の機嫌をなんとか良くしようと抱き寄せる力を強めて、甘い声を出しながら顔を覗き込む。
「何が食いたい? 肉でも魚でも……野菜もあるぞ」
「……野菜」
「わかった。なら野菜にしよう。ハマルボーンって店があるんだ。あそこの野菜は自分のとこで作っているやつで、みずみずしくて美味い」
いまいち反応が鈍い女にどうしたものかと眉根を寄せる。しかしどうすればいいかわからないダグラスは、鈍いながらにも反応を返してくれる女に必死に話しかけ続けた。
やがて店についてから、内装が気に入ったのか目をキラキラさせ始めたのにホッとしながら、久しぶりに会った面々と挨拶を交わす。
「……あのさ」
ようやく席についてメニューを眺めているときのことだった。
店内は騒がしいが、何故かこの女の声はよく聞こえる。
「なんだ」
「私ね、正直犯罪者とかと一緒にいたくないの。だって悪い人ってことでしょう? それ、いつか私も酷いことをされたり、殺されたりするんじゃないかと思うと怖いの」
「俺は当然そんなことしねぇし、ここなら俺の嫁にそんな事をするやつもいねぇし、万が一そんなやつがいたら俺がそいつを殺してやる」
「いや、だから……」
だからそういうところなんだよ。
ボソリとつぶやかれた言葉に、ダグラスの肝が冷える。心臓がギュッと押しつぶされたかのように痛み、顔が歪む。
「でも、あんたが……慕われている? っていうのかな。色んな人に声をかけられているのを見て、私の世界でよく言われていた“悪人でも身内には優しい”っていうのはあるんだなと思ったと言うか……いや、本当に失礼な言い方なんだけど、みんなちゃんと人間だったんだなって思ったと言うか……」
迷いながらもポツリポツリとつぶやき、視線を下げていく。
「つまり、私は――」
「ま、そんな悩むことないんじゃないかな」
突然降ってきた声。
そして真横の椅子が引かれて誰かが座る気配。
頭を跳ね上げれば、金髪碧眼の美しい男がいた。
「だ……」
誰ですか。
その言葉を飲み込み、慌てて立ち上がってダグラスの影に隠れる。
「相席は許可してねぇが」
ダグラスの低い声に男が笑う。
「さっきぶり。話が終わる前に消えるもんだから追いかけてきてしまった」
「お前と話すことはない」
「こちらにはあるんだよ。それにさっき自分で言ったじゃないか。子犬が勝手に懐いたって。ああ、その通りだ。だからどこにでも現れるぞ。ワンワン」
「俺は犬は嫌いなんだ」
「あはは! 酷いなあ」
女が誰だこいつはという顔をしていると、金髪の男が女に視線を向ける。
「やあ、どうも。慣習として他人の嫁とは直接口をきかないっていうのが当たり前なんだけど、あいにくと俺はそういうのを気にしないんだ」
「……はあ」
「話さなくていいぞ。こいつはお坊ちゃまだから我儘なんだ。自分の手を汚さずに国を落とすだけある」
「く、国……? 何、なんのこと」
聞き捨てならない言葉に思わず反応すれば、目の前の爽やかな笑みを浮かべてい男は周りにいる男と同じくらい凶悪な笑みに変わる。
「君を牢屋に閉じ込めた国の王様だよ。まあ、今は違うけど。辞めたんだ、王様。ちょっと都合の悪いことがあったもので、君の旦那様に頼んで国を潰してもらってね」
「あ、はい。それはどうも主人がお世話に――えっ」
「こいつはテメェの欲望満たすために家族殺しと国潰しをしたんだよ。碌な男じゃねぇから見なくていい」
酷いな、と笑うその顔は、虫も殺さないような優男に見える。
しかし先程の凶悪な笑みが思い出され、心底ゾッとした。
いつの間にか運ばれてきていた料理に手を付けることもなく、さらにダグラスの影に隠れる。
「これが怯えるから消えろ」
「いや、ほら。一応報告しようと思って。これからダグラスのパパになるんだからね」
「――お前、マジで言ってたのか」
聞いたことがないほど凶悪な声。
思わず女がダグラスを見れば、手に凶器さえあればすぐにでも殺していただろうと思えるほど怒り狂った顔をしている。
「……ダグラス……?」
名前を呼ばれて気まずげに視線をそらすが、その顔から怒りは消えていない。
「……俺に嫁がいてよかったな。今ではお前の妄言も頭ごなしに否定はしない」
「偉そうに言うな。元はと言えばお前の父親が悪いんだろう?」
お互いに心底憎しみ合っているような空気に、女の顔が引きつる。
仲良く話していたはずではなかったのかと思ったが、すぐさま、いやそれほどでもなかったかと思い直す。
一体私はどうすればいいのだと困り果てたときのことだった。
「人の旦那を殺しておいて、アタシのことは無視しようっての? 帰ってきて真っ先に挨拶に来るのが筋ってもんじゃないのかね」
凛とした声。
甘い香り。
顔を跳ね上げれば、背の高い女が般若のような顔で立っていた。
燃えるように赤い髪の毛と翠の目。腰に手を当ててダグラスを睨みつけるその顔は、どこかダグラスに似ている気がする。
「やーあ、おふくろ。元気にしていたか?」
やはりか、と思う反面、こんな年の子供がいるように見えず目を見開く。
「お、お、お母……さま……?」
「こんばんは、お嬢さん。街の男どもが噂していたよ。アタシのぼんくら息子に嫁ができたって。あんたも可哀想だこと」
女が口を開く前に、金髪の男が立ち上がる。
「こんばんは、スカイニーさん。ねえ、聞いてください。うるさかった家族を殺して国も潰しました。これで僕はただの貴女に恋する男だ。あ、もちろん僕が殺したんじゃないですよ。あなたが犯罪者は嫌だと言うから。だから僕と――」
ガシャンと音を立ててテーブルに置かれた皿が揺れる。
細い腕でテーブルを殴りつけた赤毛の女――スカイニーは、顔を歪ませたまま金髪の男を睨みつけた。
「ジェスター」
「はい」
名前を呼ばれたのが心底嬉しいという笑顔を浮かべる。犬であればしっぽを千切れんばかりに降っていただろうと思われるほどだ。
「あんたがうちの息子をそそのかして旦那を殺させたのは知ってんだ」
「えっ。いやだなあ。まさか、そんな」
「私には旦那がいると言えば旦那を殺し、王族は嫌だと言えば家族を殺し、うるさく言うやつがいると国を潰す。あんたはまさしくこの街にふさわしい気が狂った男だわ」
「……人の嫁を奪った男なんか、死んで当然でしょう? あいつは僕から貴女を奪い、強姦した。僕の家族が悪魔なんかと取り引きをするとは思いませんでしたけど……そうまでして僕たちを引き裂きたかったんですかね。無駄なのに」
さて、目の前で繰り広げられる怒涛の展開に、女は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
わかったのは目の前の金髪の男がジェスターという名前で、あの国の王で、ダグラスの父親と自分の家族をダグラスに殺させ、国を潰し、ダグラスの母親に横恋慕しているということ。
そして同じく目の前の赤毛の女がスカイニーという名前で、ダグラスの母親であり、旦那は既にダグラスに殺されてこの世にいないということ。
B級映画みたいな展開の話に、言葉も出てこない。
「おい、行くぞ」
小さい声でつぶやかれ、ハッと現実に戻ってくる。
「え、でも……」
「いいから」
睨み合う二人をおいて、ダグラスが女の手を引く。
人の間を縫うようにして店を出ると、ダグラスは大きなため息をついて肩を落とした。
「面倒くせぇことこの上ねぇな」
「……あんたのことでしょうが」
「いいか。誓って言うが、俺は俺の意思で、思うところがあって親父を殺ったんだ。間違っても人に頼まれたからなんて安い理由じゃねぇ」
「え……いや、そんなことどうでもいいというか、そんな宣言されても……」
「……悪い、ちげぇねぇ……」
説明を間違えた、と引きつった顔で頭をかき混ぜ、顎をひっかく。
「あ~……とにかく、今あったことは忘れろ。で、宿行くぞ。飯は途中で買い直す」
「……うん」
「あいつらの物語なんかどうでもいいんだよ。夫婦喧嘩は犬も食わないっていうが、まさにそれだ」
「夫婦……? 待って、あんた父親が……えー、その、悪魔なんじゃないの? 異世界から来る女性は人間なんだよね? 夫婦喧嘩って……あの金髪は人間で王様で……何、わけわかんなくなってきた」
「別になんてことはない。あの金髪が赤ん坊のときにおふくろが金髪の嫁として召喚されたが、家族は息子が成人するころには召喚された女はババアになっているってことを心配して、悪魔に襲わせておふくろを追い出し、しばらくして俺が生まれたってだけの話だ」
「はあ!?」
本当に興味がなさそうな顔でサラッと言うが、女からすれば大問題であった。動揺し、思わず先程の店を振り返ってしまう。
「悪魔と姦通したおふくろは罪人として悪魔ともども着の身着のまま放り出されてな。まあ、頼る先もねぇから一緒に行動しているうちに……嫌いなりに少なからず情でも湧いたんだろう」
しかし、だということはだ。
「……あんた、お母さんに恨まれてるんじゃないの? あの様子だと、その……」
「……どうだかな」
それ以上何も言えず、女は手を引かれるままダグラスの後を追う。
自分はどうだろうか。犯罪者の嫁になり、普通の生活すらできず、脱獄に近い形で国を飛び出し、衣食住には困らなさそうだが、わりと酷い状況である。
それでもダグラスが言うところの“少なからず情が湧いた”というのには共感でき、目の前の男が犯罪を犯したまさにその瞬間を見たことがないせいか、乱暴だが普通の男として見ている。
未だに自分の状況が飲み込めていないので混乱しているのかもしれないが、それでも人を殺すほど理性を失うような男には見えず、しかしそれを否定しきることもできず、つまりは今目の前を歩いている男が何を考えているのかさっぱりわからなかった。
「ここだ」
いつの間にか町の中央まで来ていたようで、やや大きめの建物の前で立ち止まる。
この街の割には綺麗な建物であることに少し安心した。
「おやじ、一番上の部屋をとりあえず一週間」
「お~! 糞坊主じゃねぇかあ!」
「おう、元気か?」
「そりゃこっちの台詞だ。ほらよ、鍵」
放り投げられたそれを受け取り、口角を上げて手を挙げる。
そして色んな人に肩を叩かれてはニヤつくダグラスを見ながら、女は視線を落としてため息を付いた。
思考が追いつかない。一緒にいたほうがいいのか、逃げたほうがいいのか。
もし逃げたとして、自分は生きていけるのだろうか――
「どうした、入らんのか」
階段をいくつか登った奥にある部屋の前で、扉を開け放ったダグラスが不思議そうな顔をしている。
「……入る」
「…………」
何も言わずジッと見つめられただけなのに、背筋が凍る。
逃げたほうがいいのかと考えたのがバレたのかと、そんな馬鹿げた思いが浮かぶ。
「――あのさ、あんたは」
私のこと殺すの?
そう聞こうと思ってやめた。
しかし正しく意味を受け取ったらしいダグラスは、大きなため息をついて頭を撫でた。
「……飯を買ってくるから、ここにいろ。絶対に誰が来ても扉を開けるな。いいな?」
「うん」
扉が閉まり、錠の落ちる音がし、足音が遠ざかっていく。
一人になると考え込んでしまう。
恐ろしく複雑で馬鹿げた人間関係。そして恐らくはそれぞれがそれぞれを恨み、憎しみ、表面上だけ言葉をかわす。
ダグラスが人を殺す動機なんか女には少しもわからないが、ただ言いなりになって殺したわけではないということだけはわかった。あれは多分、本心だ。
というか、そうとしか思えなかった。
「ダグラスは……たぶん――」
ガチャリと鍵の開く音がする。
もう帰ってきたのかと顔を上げれば、そこには金髪の悪魔が立っていた。
「やっぱりここだ」
無遠慮に入ってくる男に、後ずさる。
「ちょっと話がしたいんだよね」
「いや、いいです」
「俺のお願いが断られたことはないんだ」
ガッチリと掴まれた手首が軋む。
「さっきの寸劇楽しかった? 事情はわかっただろう?」
「…………」
「全部邪魔者はいなくなったのに、なぜか俺の嫁は結婚してくれないし、息子は反抗的なんだ。困ったものだよね」
狂ってしまったのだろうか。
それとも元から狂っていたのだろうか。
「だからさ。君から言ってくれないかな、ダグラスに。君の言うことなら聞くだろう?」
だが、どちらなのかなど今はどうでも良かった。
本物の気が狂った人間というのはこんなにも恐ろしいものなのかと知り、足が震える。
「今日から俺が君のお父さんなんだよって言ってやってくれよ。自分とそう年の変わらないお父さんは嫌かもしれないけど、諦めてほしいんだよね」
スカイニーは俺が説得するからさ、と笑う男は、聞き分けのない子供の話をしているような表情を浮かべている。
逃げたほうがいいのか迷い、扉の方をちらりと見た。
「じゃなかったら俺――あいつらやダグラスがしたことを、君にもしなくちゃいけなくなる」
ああ、違う。間違えた。
逃げたほうがいいのか迷っている時間などなかったのだ。
しかしそう思ったときには全て遅く、意識は一瞬にして暗闇へと落ちた。
+ + + + +
「起きて」
急に聞こえた声と同時に頭からかけられる水。
衝撃に身を跳ねれば、真っ暗闇の中で蝋燭の灯りに浮かび上がるジェスターが立っていた。
視線だけめぐらせると、あの宿ではないどこかであることがわかる。しかしここがどこなのかはわからない。
家具などは一切なく、電灯に電球ははまっていない。
「おはよう。まだ夜だけど。君、晩飯を食べそこねていたよな? 何か食べる?」
「……いりません」
「そう、じゃあお話ししようか。あのさ――」
ぐにゃりとジェスターの顔が歪む。
次の瞬間には頬に衝撃が走り、カッと燃えるように熱くなった。
「お話と言っても、俺が一方的に話すんだけどいいよね?」
殴られたのだと気づいたときには、次の暴力が降ってきた。
「聞いてくれない? 何も上手くいかないんだ。俺の人生いつもそうでさ。君にとってはどうでもいいことかもしれないけれど……というか、女性にはわからないと思うけど、こっちの世界の男ってのは、とにかく自分の嫁が一番になるんだよ。そんなの少しも信じてなかったし、そういう男を見ると虫酸が走るほど忌々しかったんだけど……」
また殴られ、ふらつく頭に水がかけられる。
「やっと嫁を手に入れてわかったんだ。あ、なるほどこういう気持ちかって。そもそもさ、何にも執着しない俺が何かひとつのことに執着している時点で気づけばよかったのに、随分と遅くなっちゃったよね」
座らされていた椅子を蹴り上げられ、横倒しになる。
次々と降ってくる暴力に思考が追いつかず、遅れて痛みを感じて「殴られた」と気づく。
荒い息遣いに恐怖し、震えが止まらない。
「君からしたら急にさらわれた挙げ句に殴られて蹴られて水かけられて意味がわからないと思うけど、たぶん、俺ダグラスのことが死ぬほど嫌いなんだよ」
何の脈絡もない会話が恐ろしい。
次に何が起こるのか予測がつかず、引きつるように空気を吸い込む。
「お前がさあ、同じ目に遭えば、あいつも俺がどんな気持ちで何十年も生きてきたかわかるかな?」
頭を踏まれ、力を込められる。
「嫌いだから嫌がらせをしてやろうって……そう思ったはずなんだけど。うーん、なんか違うな。なんだろう」
「なんか……違うなら……やめてよ……」
息も絶え絶えにそう言えば、ジェスターはにっこり笑って足をどけた。
横にしゃがみこんで腰をかがめ、女の顔を覗き込む。
「あーあ。あちこち腫れ上がって可哀想に。それに鼻血も出てる。でも、泣かないんだ」
誰が泣いてやるもんか。
唾を吐く勢いで睨みあげれば、ジェスターは笑みを濃くして床に腰を下ろした。
「何が違うんだろう。僕はどうなりたいんだと思う?」
あぐらをかきながら頬杖をついて、目を細める。
しかし答えを聞く気はないようで、すぐに立ち上がると窓を開けた。
「気をつけて。ここの夜は冷え込むんだ」
そう言って部屋を去っていき、ドアには鍵がかけられた。
窓から吹き込む風は強く、濡れた体からはどんどん体温が奪われていく。
それでも殴られたところだけは熱を持ってジクジクと痛み、思わず涙が溢れそうになって下唇を噛んだ。
「あいつ……全然私のこと守ってくれないじゃん」
ヒッヒッと引きつる喉を黙らせて、大きく息を吐く。
そしてゆっくり目を閉じれば、急激な睡魔に襲われる。
「……早く来て」
窓がガタガタと音を立て、蝋燭に灯された火は一瞬でかき消えた。
+ + + + +
「……なるほど」
開け放たれたドアを見て、手に持った食料を取り落とす。
それを踏みつけながら部屋に飛び込んで、真っ先にそうつぶやいた。
もぬけの殻となった室内に争ったような跡はないように見えたが、よく見れば点々と血が落ちている。
「なるほどなあ」
獅子のねぐらから、誰かが宝を盗んだ。
顎を撫でながら拳で壁を殴る。
「こりゃ存外腹が立つ」
ドカドカと足音を立てながら階段を降りれば、壁を殴ったときの音に驚いた店員があがってきているところだった。
「ダグラス、どうしたん――」
チラリと視線を向けられただけなのに、恐ろしくて腰を抜かす。
べたりと階段の踊り場にへたりこみ、生唾を飲み込んだ。
「よーう、シャンソン。ここは金を払った客よりも金を払ってないやつを大事にするような宿だったか? それとも俺が出したよりも上だったのか?」
「な、な、なんの、ことだ……」
「誰が来た? いや、言わなくても誰かはわかってんだけどよ、まあ、念の為だよ」
「いや、だだ、だ、だからなんのことだって……」
笑みを浮かべながら、腰を抜かした店員――シャンソンと呼ばれた男の前に座り込み、後頭部の髪の毛を掴む。
頭はブツブツと毛の抜ける音を立て、シャンソンは顔を歪めて一瞬抵抗しようとし、すぐに諦めた。
「だ、ダグラス、俺は誓って誰も……!」
「そうだろうよ、お前は義理堅い男だって知ってんだ。俺のことを裏切ったりしねぇよな?」
「当たり前だ! お、お、俺は馬鹿だけど、ダグラスのことは裏切ったりしねぇ!」
「なら早く言えや。誰がここに来たか」
笑みを引っ込めてさらに手に力を込めれば、シャンソンの顔は歪んで喉の奥から引きつった声が出る。
「誰も……! 誰も来てね――」
受付がガンと音を立てる。
顔を押し付けられたシャンソンは悲鳴を上げ、口から折れた歯が真っ赤な唾液とともに飛び出した。
しかしすぐにダグラスの方へ顔を引っ張られ、ひいひいと悲鳴を上げる。
「お前ずっとここにいたんだろう? なら気づくよな。それとも居眠りでもしていたか? まあいいさ。あの映像魔具見ろよ。小心者のシャンソン。お前が二十四時間三百六十五日、この入口をアレに見張らせているのは知ってんだ」
「おえあ……あいもひらないん――」
また、受付が音を立てる。
鼻血を垂らしながら、涙を流しながら、小さくごめんなさいと謝るが、ダグラスは「痛いんだな、可哀想に」と心底憐れむ顔をしてシャンソンから手を離した。
「暗証番号」
「……いひ……いひ……ひゅう、ご、はひ、に、はん、に、なな、ひゅう、ろふ、ろふ、ご、はひ、に、いひ」
「聞き取りづれぇ声出しやがって」
受付を飛び越えて言われた数字を映像魔具に打ち込めば、モニターに店の受付の映像が流れ出す。
それを過去にさかのぼりながら見ていれば、金髪がシャンソンとにこやかに話をして金を渡し、階段を登っていく姿が映っていた。
「シャンソン」
「…………」
「シャンソ~ン、俺は残念だぜ。なあ、兄弟。なあにが誓ってだ。誰に誓ったんだ? テメェのきたねぇアレにか? 実に残念だな。この店を起こすときに、俺があんだけ協力してやったのによお」
「あってくえ……! おえはないもひてあい……!」
問答無用で頭を掴み、引きずり倒して馬乗りになる。
「ああああああっぁぁあああぁやえてぇ……!! やえっ、やえてくえ!!」
拳を振りかぶって連続で三発殴り、すっかり黙ってしまったシャンソンに四発目を入れようとしたときのことだった。
「……ああ」
ぐったりしたシャンソンを見ながら、つかんだ胸ぐらの手を外す。
馬乗りのまま宙を見つめ、そして顎を撫でた。
「俺の嫁殿が誰も殺すなと言っていたな」
ちらりと見たシャンソンは動かない。しかし胸はかろうじて上下している。
「……お前、本当に運が良いなあ」
大きくため息をついてポケットからタバコを取り出す。マッチを擦ってタバコに火をつけ、手を大きく降って火を消す。
燃えカスとなったマッチをシャンソンの口にねじ込むと、天井へ向けて紫煙を吐いた。
「ケツの下が男ってのは気に食わねぇけど、地べたに座るより良いか……良いのか?」
二、三度、煙を吐き出しては自分を落ち着かせるように顔を引きつらせる。
「よし、行くか」
シャンソンの上で立ち、バランスを取りながら大きく息を吸い込む。
かぎなれた悪臭の中に甘い匂いをかぎとり、緩やかに口角を上げた。
「なんだ、意識すればあいつ恐ろしく良い匂いさせてんじゃねぇか。こんなに良い匂いがしていたのに気づかなかったなんて、俺ぁは相当緊張していたんだな。女と話すのに緊張するなんざダセェ男だ」
鼻歌を歌いながらシャンソンの上から降りる。猫背で歩き出して宿を出れば、外から中をうかがっていた男たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
それでも何人か残っていたやつらが、恐る恐るといったように声をかけてくる。
「旦那ぁ、なんか手伝いやすか」
「いや、いいよ。ありがとうな」
慈愛に満ちたその目は恐ろしく、男たちの足が震える。
「みんなに伝えておいてくれるか。今日は早く帰って良い子でおうちで寝ていろって。な?」
何度か頷いた男たちは、あっという間に方々へかけていった。
「――さあ、狩りの始まりだ」
獅子が来るぞ、窓を閉めろ。
獅子が来るぞ、カーテンを閉めて。
獅子が来るぞ、鍵はかけたか。
獅子が来る、獅子が来るぞ。
息を潜め、灯りを消して、笑う獅子と視線を合わせるな。
獅子が来るぞ、獅子が来るぞ、獅子が来る。
ボソボソと歌いながら歩けば、皆その姿を見て次々と家へ閉じこもっていく。
酔っ払って道に寝転んでいた者たちも、顔を青くして近くの建物へ逃げ込んだ。
まるで海の潮が引くように、人が消え、灯りが消え、戸が閉じられ、不夜城はあっという間に死の街へと変わった。
「獅子の前に飛び出すな。飛び出したものは端から全部かじられる」
親指で弾いたタバコが、水たまりに落ちて音を立てた。
+ + + + +
「だぐらす……」
寒くて意識が戻り、ぽつりとつぶやく。
意識が戻ったことに「まだ生きていられたか」と悟るが、それでも尋常じゃないくらいの体の震えに死期が近いことを悟る。
このままだとあと数時間もしないうちに死んでしまうだろうと思った。
寒いのに熱いのは、殴られたせいで熱を出しているからかもしれない。そう冷静に思いながら、女は少しだけ口角を上げた。
「……異世界に飛ばされて、犯罪者の嫁になって、さらわれて、殴られて、蹴られて、死ぬんだ……」
声に出して言えばなんて酷い境遇だろうか。
女は思わず泣きそうになるが、それでも泣いてやるもんかと歯を食いしばる。
歯が音を立ててきしむが、痛みは少しも感じない。
内臓が痙攣し、体が震える。あちこちが痛いはずなのに、痛いのかどうか全くわからない。ただ、暑くて寒い。
「だぐらす、しんじゃうから、はやくきて……」
再び意識が朦朧としてくる。
その時だった。
「もしもーし」
肩をポンポンと叩かれ視線だけ上げれば、金色の髪をした男が覗き込んでいるところだった。
「じぇす、たー」
「そうだよ、ジェスターだよ。名前を覚えてくれてありがとうな」
しゃがみこんで、女の乱れた前髪を除ける。
「あーあ、こんなに腫れて」
自分でやったくせに他人事のように言う姿を見て、心底ゾッとした。
まるで罪悪感のないその姿はどう見ても異常で、下手に声を上げればすぐさま殺されるような気すらする。
「でも悪いね。治療はしない。もう少し我慢して。アイツが来てから目の前で殺したいんだ。だから死なないでな」
なら治療をしろよ。そう思ったが声には出さない。
しかし目は口ほどにものを言うようで、ジェスターはアハハと声を上げて笑った。
「わかるわかる、そうだよなあ。痛いよな。治療してあげたいんだけどさ、それじゃああの熊みたいな男はショックを受けないだろ? それじゃ困るんだよ。自分の女がボコボコのグチャグチャにされてるのを見せてやらないとさ、アイツの心は動かないだろう?」
ごろりと転がされ、胸元に手をかける。
「グチャグチャに、ね?」
血の気が引いた。
「やめて」
「可哀想に。怖いか? でも泣かないんだな、偉いな」
今にも過呼吸を起こしそうな顔をしているくせに、女は視線を外さずジェスターを睨みつけた。
馬乗りになって腰から取ったナイフで服を少しずつ切り裂いていく。
「いやあ、あの男がどんな顔をするのか想像すると――めちゃくちゃに興奮するな」
「――狂ってる」
思わず、と言ったように口を開けば、ジェスターの表情が消えた。
「……そうかもな」
音を立てて女の顔の真横にナイフを突き立てる。
それは頬を切り裂きながら髪も切り落とし、床に深々と刺さった。
「だけどな、ここじゃあ誰もが狂ってんだ。俺だけじゃないさ」
パン、と音がして、頬が熱くなり、叩かれたと気づく。
顔を戻す前にまた頬を張られ、何度も何度も叩かれて耳鳴りがし始めた。
「今何回殴ったでしょうか? 答えられたらやめたげる」
「……ひっ……ひっ……」
「泣いた? あ、まだ泣いてないか。強いね、本当に。ほら、早く答えて。ごー、よん、さん……」
「う、あ……」
「ゼロ……はい、ふせいか~い」
またパンと叩かれる。
「なあ、このゲームつまんない? 答えてくれないから俺の手が痛いんだが。はあ、仕方ない。別のにするかあ」
「う、い……ひっ……」
「……強いよね。男でもわんわん泣くんだよ。俺は力がない方だから痛くはないんだけど、それでも心を折るように叩けば大男でも泣き始めるんだ。でも君は泣かないね。なんでかな?」
誰が、誰がお前なんかのために泣いてやるか。
そんな気持ちをこめて睨みつければ、ジェスターは堪えきれないとばかりに笑い出した。
「あれだな。君、スカイニーに似てる」
「…………」
「彼女も強い女なんだよ。いじめられて、強姦されて、城を追い出されて、それでも生きるために強姦魔と一緒に生活をして、慣れない土地で息子を生んでる。凄くないか? 強いだろう? 俺の嫁は」
そういうジェスターの顔は、大声を上げて泣いているように見えた。
「彼女は絶対に泣いている姿を見せないんだ。なんでかな? 君にならわかるか? 教えてくれよ」
「そりゃ気を許さない男の前でなんか泣くわけないだろう」
ビクリとジェスターの手が跳ねる。
視線だけ横に向けて鏡を覗き、確かに自分の後ろの扉のところに獅子が立っているのを見つけた。
腕を組んで扉にもたれかかり、だるそうに見下ろしている獅子が一匹。
「よお。遅くなって悪かったな」
「だ、だぐ、らす……」
「なあ、名前を教えてくれよ。俺ぁ、情けねぇことに嫁の名前も知らねぇからよ。探すときにお前の名前を呼べないんだ」
「……りかこ……かない、りかこ……」
花が咲くように、とは男には使わないのかもしれない。
しかしこの状況下でそれは幸せそうに笑みを浮かべ、ダグラスは鼻をこすった。
「悪かったな、遅くなって。泣いていいぞ、リカコ」
「……ふぐっ」
その瞬間、絶対に泣くもんかと思っていた気持ちがあっという間に崩壊し、窓がビリビリと音を立てるほどワンワン泣き始める。
「え、うるさ……」
ジェスターが困惑したようにリカコの上からどくと、リカコは四肢を投げ出してから顔に手をあてた。
「遅いよ馬鹿!! ボコボコだよ私!!」
「悪い悪い」
「軽いよ馬鹿!! あんたなんか大っ嫌い!!」
「……やめろ、傷つくだろう」
のそのそと動きながら近づいて、しゃがみ込む。
その顔は心底心配しているとばかりに歪み、恐る恐る手を差し伸べてリカコの頬を撫でようとして引っ込めた。
「撫でてよ……!!」
「でも、お前、腫れ上がってて痛そうで――」
「撫でて!!」
「…………」
暗闇でもわかるほど腫れ上がった顔に、ダグラスの顔が歪む。額を伝って顎に落ちた汗が、ポタリとリカコの頬を伝う。
泣きながらもダグラスの顔を見れば、今まで見たこともないほど汗をかいているようだった。濡れた肌が月明かりで光り、小さく震える節くれた手が恐る恐る頬を撫でる。
「寝てろ。な? その間に良いようにしておくから」
「……殺さないで」
「まだ言うか。こいつはいいだろ」
「駄目」
「…………」
「駄目……!」
「……ハイハイ。良いからほら、早く寝ろ。あとで抱っこしてやるから」
まぶたを強引に閉じさせるように撫でる。
まだ寝ない、とばかりにもがくが、何度も何度もまぶたを撫でられ、やがて強い睡魔に襲われた。
「ねたら……ね、たら……また、なぐられちゃうから……」
「大丈夫だから。もうそんなことさせねぇよ。俺がいるんだぞ?」
「だい、じょうぶ……?」
「ああ、大丈夫だ」
歪んだ顔から力が抜け、すうっと目を閉じて動かなくなる。
「……可哀想になあ。俺なんかの嫁になったばかりに」
手の甲で頬を撫であげ、ゆっくり立ち上がる。
「女心のひとつもわからずに、余計なことを言っては怒らせる。こいつよりずっと年上なのに、俺ぁいつも怒られてばかりだ。道徳を説かれては“いい年して人を殴るなとか殺すなとか当たり前のことを私に言わせないで”ときたもんだ。情けねぇ旦那だよなあ? ガキみてぇだ」
死んだような目で、まるで同意を求めるかのようにジェスターを睨みつければ、すっかり興奮しきった顔でダグラスを見ている男がいた。
「テメェの性癖は相変わらず気持ち悪ぃ」
「いや、最高に興奮したよ。出るとこだった」
「下品な話は好きなんだけどな、こいつがネタになってんのかと思うと話が別だ」
指にはめた指輪を一つずつ外し、床に落とす。
「これが殺しは駄目だって言うんだわ」
「牙を折られたか、金獅子」
「根元から」
ジェスターは馬鹿にしたような顔をしながら鼻で笑う。
「なら、爪も折ってやろうか」
指輪を外した両手を面倒臭そうにパッと振ったのが合図だった。
ナイフを構えて振りかぶるジェスターを避けながら、余裕の表情で腹や顔に拳を叩き込む。まるで子供の相手をしているようなそれに、段々とジェスターの顔から余裕が消えた。
「避けるなよ、面白くないだろう?」
「俺は楽しいぜ。お前が弱すぎて、まるで俺が強くなったかのような錯覚に陥る」
「…………」
「なあ、少しはあたってやろうか? その方が面白いだろう?」
そう言ってからハッとしたように足元を見て、寝転んだリカコの顔を見ながらため息をつく。
「危ねぇ危ねぇ。またこいつに怒られるところだった。なあ、聞いてくれよジェスター。こいつ酷いんだぜ。人を殺したり殴ったりするのを楽しむのは動物以下だとか言いやがる。旦那のことを動物以下だって言うんだぞ? そんな酷い言い方をすることがあるか?」
「惚気なんか聞くつもりはないが」
「惚気じゃなくてマジで困ってんだわ。俺ぁこれ以外の解決方法を知らないもんでね」
首を傾げながら拳を突き出せば、ジェスターは馬鹿にしたように笑った。
「クソ野郎のガキはクソ野郎だな。悪魔にもなりきれない半端者が」
「そう言うなよ、お父様」
「……おかしいな、虫唾が走る」
「ジェスター」
まるで見えなかった。
気がつけばアッという間に間合いを詰められ、胸ぐらを掴まれていた。
「……!」
「可愛いジェスター。友として最後に一つ警告をしてやる」
「…………」
何かを言おうとして口を開き、そして閉じる。視線をさまよわせ、それからまたジェスターを見て首を傾げた。
「お前が俺の女を何回殴ったか知らねぇが、それはそのままにしておいてやるよ。じゃないと俺はリカコとの約束を守れそうにねぇからよ」
「何回殴ったか言ってやろうか?」
「で、ここからが警告だ」
ああ、なるほど。これが金獅子。
見てしまえば、経験してしまえば、その阿呆みたいな渾名の理由がわかる。
「俺を怒らせるなよ」
ゾッとするなんてものではない。
「死んだほうがマシだったってこともあるんだ。リカコは酷い女だよなあ?」
この男は確かに獅子である。
+ + + + +
「……う」
意識が覚醒していく。
全身が痛く、熱い。
「起きたか?」
焦点が合わず、視界がぼんやりと揺れている。
何度かまばたきをして、ようやく視界が晴れていった。
「……どこ」
「俺の実家」
「……え、大丈夫なの……?」
「まあな。それよか寝てろ。熱が出てんだよ、お前」
いや、全然大丈夫ではないのではと顔を引きつらせながら周囲を見るが、家主の姿は見えない。
「おふくろなら出てるぜ」
「……本当に大丈夫なの?」
「つーか、他に言うことがあるだろう。どこが痛む?」
全部に決まっている。
痛くないところなんかない。
そう目で訴えれば、ダグラスはほとほと困り果てた顔をしてリカコの頬を撫でた。
「……悪かったな」
「…………」
「俺は情けない男だろう? いつだってお前を守ると言いながら守れず、頭も悪ぃから難しいことはわからねぇし、拳と、悪知恵だけで生き残ってきたような悪党だからよ」
「…………」
「まあ、ご覧の通り恨みもたくさん買っているんだ」
「……もっと」
ぼそっと上がった声を聞き漏らさないように、ダグラスが顔を近づける。
「もっと、大人の男の人がよかった。私を引っ張ってくれるような。安定した仕事についていて、心の余裕があって、私にも他人にも暴力を振るわない人。アンタなんかじゃない」
「…………」
人生でこんなにも落ち込んだ一言は初めてだった。
撫でていた手を引っ込め、声を聞くために倒していた体を起こす。
「……でも、あんたの顔見たら泣いちゃったってことは、私は私が思っているよりもアンタに気を許しているってことなんじゃないの?」
他人事のようにそう言うリカコの顔は真っ赤で、ダグラスは一瞬呆けてから口に手を当ててのけぞる。
「…………」
「……なんか言ってよ」
「……おま、え……は~……」
己の頭をぐちゃぐちゃにかき回しながら、ため息をついて項垂れる。
「出会いは最悪だし、正直何度もあんたのこと嫌いになったけど、でも、たぶん……たぶん、私は――」
「待て待て待て……待ってくれ、頼むから……」
項垂れたままリカコの方を見ずに器用に口をふさぎ、再び大きなため息をつく。
「…………」
「…………」
正直、心を通わせるのは無理だとどこかで思っていた。
母親は父親を愛していたとは思えない。死んでから一度だけ墓参りに行ったようだと街で聞いたが、それも長きにわたる生活の間で多少情が湧いたから一応、という程度だろうと思えた。
なにせ、ダグラスが父親を殺したときに「ほーら、だから言っただろう」と言って困ったように笑ったのだから。
「ねぇ、ジェスターは?」
「……それ今聞くか?」
「殺してないよね?」
「……言いたくねぇ」
「…………」
リカコの顔が「殺してないよね?」と責める。
しばらくそれを見つめていたが、やがて諦めたように手を降った。
「……俺は殺してはない。おふくろが引きずっていったから、あとのことは知らねぇよ」
「あんたのお母さんが?」
「ああ。どこから見ていたのか、俺らに一発ずつゲンコツ落として喧嘩仲裁しやがった。また拳が痛ぇのなんの。俺ぁ昔から不思議だったんだ。あの女、拳に鉄板でも仕込んでんのか? ってな」
ブスッとした顔はまさに子供のようで、リカコは思わず鼻で笑う。
「……なんだその笑いは」
「いや、常々思ってたけど、あんた相当子供っぽいね」
「…………」
さらに眉間にシワが寄り、露骨に不機嫌そうになっていく。
しかしそれもすぐさま霧が晴れたような笑みに変わり、寝ているリカコの横で頬杖をついた。
「まあ、子供っぽいわな。大人のくせに暴力的な衝動が抑えきれねぇし、お前との約束も全然守れてねぇ。でも安心してくれや。俺ぁ、やられっぱなしってのは性に合わねんだ。見ていろよ、お嫁殿。俺が大人のオトコだって教えてやるから。俺ぁすげぇんだぞ」
「……な、何?」
頬を片手で掴まれ、強引にダグラスの方に向けさせられる。
「いった……何、やめて。痛い。あちこち軋んでるから離して……」
「俺ぁ、大人だからわかるんだけどよ。お前、俺のことそんな嫌いじゃねぇだろ」
「……は? 意味分かんな――」
「俺のこと好きだよなあ? 怖い思いをしているところに颯爽と現れた俺を見て、安心してボロボロ泣き始めるくらいには」
「はあ?」
顔が真っ赤になっていくリカコを見ながら、獲物を見つけた獅子が笑う。
「俺ぁ、好きな女の子に意地悪しちゃうタイプだったようだ」
覆いかぶさって、リカコが何かを言う間に唇を重ねて黙らせる。
「愛しているぜ、リカコ。なあ、だんだんでいいんだ。仲良くしてくれよ。急がなくても待ってやる。だから――」
頼むから、俺のことを好きになってくれよ。