3.
「ケルピー……まさかあいつ、やられたのか?」
ささやくように言うと、アーサーが震える声で言った。
「タカシ。こいつ、大きくなってない?」
俺は黒妖犬を見つめた。確かに大きくなっている。先程の黒妖犬は、大きいとは言え、まだ犬の範囲内の大きさだった。だが、今は。子牛ほどの大きさに膨れ上がっている。
トリスタンが、は、と息をついた。
「馬妖精の事は知らないが。実に無粋だね。下賤なものの分際で、私の領域を侵し、大気を汚した。この私、丘のあるじにしてりんごの木の祝福を司るものの領域を! しかもあろう事か、私の恋人を見つめるなどという不遜な事をしでかすとは」
かっ、と光が走り、トリスタンの手の中に何かが現れる。銀の弓矢を手にした彼は、弓をかまえ、矢をつがえた。
「立ち去るのならば見逃そう。そうでないのならば射る」
「誰がおまえの恋人だよ……」
思わず突っ込むが、トリスタンは頓着しなかった。黒妖犬も。真っ赤な炎を目の奥にちらつかせる魔性の犬は、牙を剥き出して唸ると、俺に向かって突進してきた。
ひゅっ、
光と化した矢が妖犬を射抜く。
矢が当たる直前に、黒妖犬は大気に溶けて消えた。
「わっ」
矢は俺の体をかすめて飛び、背後に落ちた。
「おや。大丈夫だったか、タカシ」
「当たる所だったぞ」
「傷ついたなら、すぐに手当てをしてあげるよ。そのまま私の所で暮らせば良いし」
「それが目的? それが本当の目的?」
思わず睨んでしまうと、ふふ、と笑ってトリスタンは銀の弓を消した。半分ぐらい本気だっただろう、おまえ。
「それにしても……トリスタン。記憶戻ったのか?」
「なぜ?」
「さっき、丘のあるじにしてりんごの木の祝福を司る……って」
「ああ。いいや。記憶はないよ。だが自分の属性ぐらいはわかるからね。私は丘と、りんごの木に属するものだ。それぐらいはね」
「そういうものなのか……?」
「そういうものだ。それに、それ以上のものを私は求めてはいない。求めても無駄だからね。それだけの話だよ。タカシ。君のつけてくれた名前は美しい。とても気に入っている」
「適当だったんだけど……」
微笑むとトリスタンはすっと近寄ってきて、ささやいた。
「君の言う、永遠を感じるよ。君に呼ばれるたび。その唇が私を呼ぶたびに、永遠が私の心を震わせる」
指輪か香水の宣伝ですか。
「私は永遠を手に入れたい。君をね。側に置きたい。始終私の名を呼んで欲しい。そうすれば、永遠を手に入れる事ができる……」
「あり得ないからそれ。錯覚だから」
きっぱり言うと、トリスタンは「残念」と言って笑った。
「あ、あのう……」
そこでおずおずと、アーサーが口を挟んだ。振り向くと少年は、矢を拾ってきていた。トリスタンに差し出す。
「これ。取ってきました」
「おや。わざわざすまないね、人間の子ども」
そう言ったがトリスタンはしかし、矢を受け取る事はせず、アーサーを見つめた。それから俺の方を向く。
「この子は何なんだい、タカシ? 君の弟か何かかね」
「似たようなものかな。俺の預かり。こっちに迷い込んだんだよ。フェアリー・リングに踏み込んで。だから急いで帰してやりたいんだ」
説明するのが面倒でそう言うと、トリスタンは「ふむ」と言った。
「助言が必要かね?」
「もらえるとありがたい」
助言、の一言に少し驚いたが、そう答えた。トリスタンはあまりそういう事を言わないし、しない。けれどくれる時には的確な言葉をくれる。
白い妖精の騎士はアーサーを見下ろした。
「弟のようなものと言ったのも道理だ。君たちは良く似ている」
アーサーはもちろん、俺も驚いた。
「似てるか?」
「似ているよ。この子の方が、君より遠くはなっているが」
「何の事……?」
アーサーが訝しげな顔になる。俺も妙な顔になった。
「トリスタン、何の」
「我が一族のかけらが、はるか遠くから響いてくる。タカシ。この子は君と同じだよ。随分と薄まってはいるが」
俺ははっ、と息を飲んだ。この子。
「父方の血筋か母方の血筋かまではわからないがね」
「だからこちらに来やすかったのか」
「そうだね。まあ、随分と古い。契約ももはや記憶にはなく、破棄同然の状態なのだろうが……モーザ・ドゥーグはこの血を目当てに来るのだろう」
アーサーは何が何だかわからないという顔をしている。けれど俺にはわかった。
この子も妖精の血を引いている。俺と同じように。