2.
ケルピーを先頭に、道々、話をしながら進む。
「じゃあ、アーサーは九歳なんだ。もっと年上かと思っていたよ」
「うん。タカシは?」
「二十歳だけど……」
「えっ? 十二歳じゃなくて?」
「何だそれは。二十歳だ」
「ご、ごめんなさい、ぼく、てっきり……」
うろたえるアーサーに、俺はため息をついた。
「東洋系の人間は若く見えるからね。でも一応、英国人の祖母がいた事になっているから、それなりかなって思ってたんだけど……」
「タカシはちょっと妖精めいているって言うか……不思議な雰囲気があるよ。だからかな。あんまり生身の人間って感じがしなくて。最初見た時、本当に人間なのかどうか迷ったもの」
ケルピーがふり向く。
「このガキ、鋭いじゃねえか」
「ケルピー」
たしなめるように言う俺に、ケルピーはちょっと笑った。アーサーは何かあると感じたらしい。「何?」と尋ねた。
「何でもない。俺は二十歳だし、大学にも通っている」
「何を勉強しているの?」
「建築関係。生活環境とか歴史とか……妖精に関わる事が多くてね。その関連で、地形とか歴史とかが気になって。で、建物の方に興味が向いた」
答えると「ふうん」という返事がかえってきた。
「日本にいるんだっけ。こっちに留学したりしないの?」
「ああ……うち、両親が離婚しているから。あまり金のかかることはできないんだ。妹もいるし」
そう言うと、アーサーはちょっと気まずそうな顔になった。
「ごめん」
「別に良いよ? 父さんと母さんは、憎み合って別れたわけじゃないから。父さんは俺が大学に入る時、ちゃんと援助してくれたしね。妹についても多分、してくれる」
笑ってみせると彼は、ほっとしたような顔になった。本当に育ちが良いって言うか、気遣いの子どもだなあ、と俺は思った。これぐらいの男の子でこんなに人に気を使える子って、日本ではあまり見かけないぞ。
「タカシのおばあさんは、こっちの人なんだね。じゃあ、親戚が英国にいるの?」
「いないと思う。ばあちゃんは天涯孤独だった」
多分。人間の戸籍はどうにか作ったけれど、取り替え子というわけではないから、親戚はいないはずだ。
「でも、いるかもしれないよ? ぼく探してあげようか? おばあさんの名前はなんていうの」
「ノーラ。ノーラ・グウィン。とりあえずは」
「とりあえず?」
首をかしげる彼に何か言おうとした時、ケルピーが立ち止まった。
「おい。まずいぞ」
そう言う彼に、俺も立ち止まる。アーサーが不安そうな顔になった。
「どうした?」
「ヤバイのが来る」
大気の匂いをくんと嗅いで、ケルピーが言う。
「隠れた方が良いぞ、タカシ。そっちの子どもも」
「亡者の群れか?」
「いや、この感じは……」
眉をしかめたケルピーは、振り返るといきなり俺をひっつかんだ。
「ちょっ、ケルピー!」
「こっち来い!」
「アーサーも! あの子は俺の預かりなんだよ、約束したんだから!」
そう言うと、ケルピーは舌打ちしてから少年に目をやった。
「人間の子ども、とっとと来やがれ、こっち……」
言いかけて、言葉を止めた。
駆け寄ろうとしたアーサーの足が止まる。
大気が重くなる。
何か、よくないもの。黒く滲む悪意が大気から染みだすように現れる。
「タ、タカシ……」
「動くな。静かに」
俺は身振りでその場にとどまれと少年に合図して、まだ腕をつかんでいるケルピーの手を軽く叩いた。
「放せ」
「無茶するなよ」
「しない。これが……?」
ケルピーは目を少し、細めた。
「モーザ・ドゥーグだ」
ごっ、と強く風が吹いた。さっきまで暖かだった大気が冷たく凍える。そして、
真っ黒で巨大な犬がそこにいた。赤く燃える目をした犬が。
(……バスカヴィル家の犬って、こんなのかなあ)
現れた黒妖犬に、俺は思わずそう考えていた。子どもの頃、眼鏡をかけた小学生探偵のアニメはもちろんのこと、ホームズやルパンにハマッたものだが、今読み返すとホームズの話には、別の観点から考えさせされるものが多い。
人間の持つ偏見を、それによって生まれる愚かしさを、ドイルは作品の中でさりげなく書き出していた。人種的な偏見みたいなものはあったが、それはその時代の制約というものだろう。
それでも彼は、彼にできる限りの範囲で、人間が偏見を持つ時に現れる醜さや、無知による醜悪なまでの悲劇を描き出した。
バスカヴィル家の犬もそうした話で、燃える目の犬の伝説に怯えた人々が、右往左往する。金や地位に執着した犯罪者が伝説を利用する事で人を破滅させようともくろみ、運命に返り討ちにされる話だった。そう言えばコナン・ドイルは妖精大好き人間だった、とふと思う。
とは言えこうした余裕も、黒妖犬の標的になっていないからだ。魔性の黒犬は巨大な体に今にも飛びかからんとばかりに力を込め、アーサーをひたと見つめていた。
子どもががたがたと震え出す。
「ケルピー。あの子を助ける方法は?」
「触られなきゃ大丈夫だ。動かず耐えろ」
「子どもだし、無理じゃないかな……」
「だったら運がなかったな」
ひそひそとささやく俺に、ケルピーが返す。俺は黒妖犬から目を離さないまま、ケルピーをぽかりと殴った。
「言っただろう。あの子は俺の預かりなんだ。無事に返すと約束したんだからな。俺に約束を破らせる気……まずい」
耐えられなくなったのか、アーサーが身じろぐ。黒妖犬が全身に力を込めた。俺は前に飛び出した。
「あ、おい!」
「こら、モーザ・ドゥーグ! その子に手ぇ出すな!」
怒鳴りつけると黒妖犬はこっちを向いた。「無茶はしないって言ったろうが」とぼやくケルピーの声が聞こえたが無視した。
らんらんと光る炎のような目が、俺を見つめる。ぐるる、とうなる声がした。
「よし! 標的変えたな」
「何がよしなんですか、タカシくん。まだ人間の君が触られたら、ただじゃすまないんですがっ」
ケルピーがわめくのに、俺はふんと鼻をならした。
「その辺は、おまえに任せる」
「なにその他力本願!?」
「そういうわけだから、モーザ・ドゥーグ! おまえの相手はこのケルピーだ! 行け、ケルピー。時間かせいでくれ。俺たち逃げるから」
ひどくないですか。
そんな目でアーサーが俺を見た。
「なんで俺がそんな事〜」
ケルピーもそう思ったらしい。嫌そうな顔で俺を見た。
「だって俺、おまえの事信頼してるから」
「え。そう?」
ケルピーが真っ赤になった。うれしそうだ。俺はにっこりして言った。
「俺の知ってる中では、おまえは一番強い妖精だ。こんな妖精に負けたりしないだろ? それとも俺の信頼を裏切るのか?」
「まさか! おまえの信頼は間違いではないぞ! やいモーザ・ドゥーグ、俺が相手だ!」
すっかりその気になったケルピーが、一気に本性に戻る。水に濡れた馬の姿に黒妖犬がうなり、敵意を露にした。
「アーサー!」
俺はアーサーに合図すると走り出した。気づいた黒妖犬が飛びかかろうとするが、ケルピーがそれを阻む。
「俺のタカシに手ぇ出すな!」
「所有格で語るなよ」
ぼそりと言いつつ、駆け寄ってきた子どもの手を引いて走る。
背後では、怪獣大戦争が始まっていた。