1.
「よう、タカシ。こっちに来てたのか」
なだらかな丘を歩いていると、貝のイヤリングを耳につけた若い男が突然現れ、俺たちの前に立った。黒髪に浅黒い肌をした、しなやかな動きをする青年だ。精悍、という言葉が似合う。にやりと笑うと色気のようなものが漂った。俺より背が高いので、見上げる格好になる。
「やあ、ケルピー」
水棲馬。俺にとっては顔なじみの妖精だ。アンシーリーコート(悪い妖精)であるくせに、なぜか人間めいた行動をとる変わり種。十年近い付き合いになる。
最初は俺を食おうとしたが、今ではやたらとまとわりついてきて、くだらない冗談を連発する、うるさい妖精と化している。
俺はごく普通の態度で挨拶した。アーサーは、誰? この人。という顔をしている。水棲馬の名は知らないらしい。知っていても、この陽気な態度の男を見たら、人間を食べる怖い妖精だとは思えないだろう。
「来てたんなら俺に会いにきてくれよ」
「さっき来た所なんだよ。それに急いでいるんだ」
「いつもそう言うよな。ところで、なんだそいつ。おまえの非常食か?」
ケルピーはアーサーを見下ろした。非常食、という言葉にアーサーはぎょっとした顔になった。俺はケルピーの視線を遮るような位置に立つと、アーサーをかばった。
「俺の連れだ。脅かすな」
「別に脅しちゃいないぜ。おまえの連れなら喰えねえなあ」
ちょっと残念そうに言うと、ケルピーはこちらに目を向けた。
「で、何してるんだ」
「この子を人間の世界に戻してやりたいんだよ。間違えて迷い込んだらしくてね。この辺りで向こうとつながっているような場所、見ていないかい?」
「ああ。今の時期だと穴が開きやすいんだよな……教えたら、何かくれる?」
ケルピーはねだるような笑みを浮かべた
「何かって、何を」
「嫁になってくれ」
「嫌だ」
即答すると残念そうに肩を落とした。
「ちょっとは迷うとかしてくれよ。俺は本気なのに」
「迷い込んだ俺を、頭から喰おうとしたくせに」
「いや、あれはさあ……おまえ、無茶苦茶好みって言うか、うまそうで、つい。あ、でも今は喰うとか考えてないから。本当だから」
「おまえたちが嘘をつけないのは知ってるよ」
ふー、と息をついて俺は答えた。
「でも俺、嫁をもらう方で、嫁に行く方じゃないから」
「俺が嫁になれば良いのか?」
真顔で言うとケルピーは、「おまえの為ならドレスを着るぞ」と言い切った。
「特定の趣味の人が喜びそうな気がするけど、俺はうれしくないから。俺の好みは可愛い人間の女の子なんだよ。ドレスを着たおまえじゃなくて」
「わがままだな、タカシ」
「わがままか? 俺のこれは、わがままなのか?」
何か間違っていると思ったが、耐えた。情報がとにかく欲しい。
「とにかく、知っているのなら教えてくれ。この子を家族の元に帰してやりたいんだ」
「無報酬じゃなあ」
ケルピーはにやにやしながら肩に手を回してきた。そうして近々と顔を近づけると、男の色気垂れ流し状態の目で俺を見つめ、耳元に唇を近づけて言った。
「どうしてもって言うんなら、教えてやるよ。取引しようぜ。一晩、俺と過ごしてくれるなら、いくらでも教えてやる」
恐ろしくエロい声だった。
あえぐような声がした。アーサーらしい。横目で見ると、彼は真っ赤になって俺たちを凝視していた。
俺はケルピーに目線を戻すと、片手を上げた。耳に唇を寄せている妖精の頭を抱くような格好に手を伸ばす。
そうして相手の髪をつかむと、ぐい、と後ろに引っ張った。
「ぐああああ? 痛い痛い痛い!」
「離れろ、エロ妖精」
「エエエ、エロ? そんな事は何も……」
「素か。素でそこまでエロなのか。隠せその顔、十八禁だ。見ろ、子どもが困惑している」
「ひどい……」
じたばたしながらケルピーが離れた。俺は手を離した。
「おまえの冗談は笑えないんだ。で? どこなんだ、その場所」
「教えない!」
意地になったのか、ケルピーがわめいた。
「俺たちの事は知ってるだろう! 取引だと言ったら、取引以外では教えられない! おまえが俺と一晩過ごすか、それと同じぐらいの価値がある対価を払わない限り、俺は絶対に教えないっ!」
そうきたか。
俺はふー、と息をついた。
「おまえたちの掟は知っている。取引と言ったら、取引以外では何も教えられないだろうな、確かに」
妖精にとって、言葉はとても重いものだ。一度した約束は決して破らない。彼ら自身の存在が、契約でできているようなものだからだ。約束を破る事はそのまま、彼ら自身の存在を破壊する。
妖精が取引でなら教えると言った場合、この言葉を翻す事はできない。言葉にした時点で、『約束』になってしまっているからだ。
「仕方ないな」
俺が言うと、アーサーが「えっ?」と声を上げた。ケルピーも。
「えっ? えっ? そそそそそそれじゃ俺と、俺と一晩……」
「ケルピー」
さえぎると、にっこりして俺は言った。
「長い付き合いだったな。会う事はもうないだろうが、達者で暮らせ」
沈黙が落ちた。
「な……な?」
仰天しているケルピーに繰り返す。
「聞こえなかったのか。おまえとはこれきりだ」
きっぱり言うと、慌てたケルピーが「待て待て待て!」と叫んだ。
「ちょっと待て! なんだそりゃ!」
「言葉通りだ。おまえとは二度と会わん」
「いやちょっと。ちょっと待てよ何で……怒ってるのか? 怒ってるのか、おまえ? 笑顔なのになんか怖いぞ!」
「怒っているかって?」
ふふ、と笑って俺は答えた。
「当たり前じゃないか」
沈黙が落ちた。さっきより重かった。
ケルピーはおろおろし始めた。
「ごごご、ごめん、ごめんなさいタカシ、怒らないで下さい俺が悪かった」
「うん。圧倒的におまえが悪いよ」
「ええとでも、何で怒っているのかわかんないんですけど、どこがいけなかったんでしょうかタカシさま」
「わからないんだ。そうか。ふーん」
「あのあのあの、すみません俺ちょっと調子に乗ってました、だからどこがいけなかったのか教えて……って言うか二度と会わないとか言わないで〜っ」
「いやだ」
ケルピーはムンクの叫びのポーズになった。よろよろとよろめく。
「ちょっと……可哀相だよ、タカシ」
見かねたのかアーサーがこそっと言った。
「何が可哀相なものか。こいつは何度も何度も何度も何度も、嫁になれとか嫁に来いとか、断っても断ってもこりずに繰り返す。あげくは一晩一緒に過ごせ?」
笑顔のまま俺は言った。
「ふざけるな」
ドスのきいた声に、アーサーが思わず後退った。ケルピーが髪を逆立て、本性を現しそうになった。
「ええとでも、タカシ、この人……? 妖精? 何か知ってるみたいだし。その、あんまり嫌うのは可哀相って言うか」
それでも取りなそうとする子どもに俺は、優しいまなざしを向けた。
「優しいね、アーサー。でも俺、ちょっと愛想が尽きちゃったんだよね」
微笑むとアーサーはなぜか、顔を赤くした。
「あいそうがつきた……」
愕然とした顔でケルピーが大地に膝をつく。俺はそちらを見て続けた。
「俺はね。アンシーリーコートでも、変わろうとする努力を始めた者には、敬意を払うよ。
ケルピー。おまえは本来なら、人間を食べる妖精だ。それなのに俺と知り合ってからは、一度も人間を食べていない。その努力はすごいと思っていた。
その点で俺は、おまえを尊敬している」
静かに言うとケルピーは、ぽかんとした顔になった。
「そうなの?」
「うん」
「そうか」
ケルピーはうつむくと、真っ赤になって恥じらった。乙女かおまえは。
「でもね。これは許せないよ。アーサーはおまえが可哀相だと言った。おまえの事を気づかってくれたんだよ。
おまえは、おまえの事を気づかってくれている優しい子どもを、家族の元に帰そうとしないばかりか。それを利用して俺を好きにしようと企んだ。あまりにひどい仕打ちじゃないか?」
「えーとぼく、そういうの考えてなくて……」
「しっ静かに」
アーサーが何か言おうとするのをさえぎり、俺は続けた。
「どうなんだい、ケルピー。俺が怒る理由がわかるだろう?」
「そうだな……おまえはそういうの、嫌うもんな……なんてひどいやつなんだ俺は……」
うちひしがれた顔で、ケルピーが大地に突っ伏す。
「タカシ。おまえが怒るのも当たり前だ。俺は……俺はっ」
「わかったら、この子が帰れる場所教えて。そしたらさっきの『二度と会わない』発言は取り消すから」
ケルピーの前にひざまずくと、にっこりして俺は言った。
「ほんと?」
優男が必死にこちらを見ている。捨てないで! という思いばりばりだ。こういう所、純粋だなあと俺は思った。人間なら、こんな風にあからさまに感情を現す事なんてできない。子どもの時ならともかく、成長してからは。
「ほんと。長い付き合いだし。おまえは俺の大事な友だちだもの。それにこれなら、一晩過ごすと同じぐらいの対価にならない?」
そう言うと、ケルピーの顔が瞬時に笑顔になった。
「その通りだぁっ! 俺について来いっ!」
いきなり元気になったケルピーが立ち上がった。うきうきした感じで歩きだす。俺も立ち上がり、アーサーを振り返った。
「案内してくれるって。良かったね」
アーサーは何か感じ入ったような顔で俺を見上げた。
「ぼく今、『男をたぶらかす悪女』って言葉の意味がわかった気がするよ……」
「どういう意味かな?」
笑顔になった俺に、アーサーも笑顔になった。
「タカシってすごいなーと思っただけ」
「ああそう」
「おののく妖精をいたぶっているタカシ、すごく素敵だった……」
「……」
なぜそこでウットリする、少年。
「人聞きの悪い事を言うな。俺は優しく説得しただけだ」
「そうなの?」
「あんなのは、いたぶった中に入らない」
「もっといじめたりするんだー……」
だからなぜ、夢見る瞳で頬を染めるんだ。
「とにかく急ごう」
この子の人格形成に、ちょっと悪い影響が出たかもしれない。俺は少しばかり反省した。