2.
* * *
「ここ?」
「ああ。リングが見えないか?」
たどり着いた場所は、丘の麓。目を凝らすと、地面に魔力の光があった。輪を描いている。
「本当だ。この先、ちゃんとこの子の世界につながっているかな?」
「それはわからんが。この辺りで開いたのはここだけだ」
ケルピーの言葉に、俺はアーサーを背中から降ろした。
「それなら大丈夫か。アーサー、ほら。起きて」
うー、とか、むー、とか言いながら、子どもが目を覚ます。
「タカシ……」
「起きた? 立てる?」
「はい……」
ぼんやりした顔で、ふらふらしながら立つ。
「もう少しだからな。周りの様子、見てくれ。見覚えあるか? この辺り」
言われて周囲を見回したアーサーは、目をこすりながら、「何となく」と答えた。
「ほら、しゃんとして」
地面に膝をつき、下から子どもを見上げながら、ぺちぺち、と頬を軽く叩くと、覚醒してきたらしい。ぶるっと頭を振ってから、俺を見た。手を伸ばしてきたので、何かと思ったら、俺の手を取った。
きゅっ、と指を握られる。
「アーサー?」
しばらく何も言わず、そのままだったが、やがて子どもは俺の手を離した。
「タカシ。リングの力が弱まっている」
そこで、トリスタンが声をかけてきた。俺は顔を上げた。
「向こう側の時間が、夜明けに差しかかっているんだ。急がなければ、ここで一年待つ事になるぞ」
「アーサー」
呼びかけると、子どもは、うん、とうなずいた。
地面に光る魔力の輪は、明滅していた。確かに、不安定になっている。
「アーサー。地面に光っているもの、見えるか」
尋ねてみると、アーサーはうなずいた。
「うん。輪? みたいになってるけど、これ? 何だか、……弱ってるみたい。あちこち、薄くなってる……」
ああ、『見える』目を持っている。
「こういうの、前から見えた?」
「えっ? えーと……」
とまどったような顔になってから、アーサーは尋ねた。
「わからない。これって、普通は見えないものなの?」
「見える人もいれば、見えない人もいるね」
大した事ではない、という風に言うと、ふうん? と子どもはつぶやいた。
彼が『見える』のが、俺と出会って妖精の血が活性化したからでなければ良いが。
「君は、『見える』目を持っているのかもね。気をつけないといけないよ。また妖精の輪にひっかかったりするかもしれないから」
忠告すると、目をぱちくりとした。
「『見える』目?」
「うん。君がこっちに来たのは、しかるべき時に、妖精の輪の中に踏み込んでしまったからだ。でも多分、それは偶然じゃない。力は力を呼ぶから。輪の方で、君を呼んでしまったとも考えられるんだよ」
「輪、が呼ぶ……?」
「向こうに戻っても『見える』ままかどうかはわからない。ここだから、見えているのかもしれないから。
『見えて』いても、大きくなれば、見えなくなる人もいる。そっちの方が多いな。
ただ、君はここに来た事で、多少……、その、多少、こちらの影響を受けやすくなってしまった。だから、気をつけて欲しい。また迷い込む事のないように。
今回は、俺がいた。でも次は、俺がいるとは限らないから……」
アーサーはひゅっ、と息を吸い込んだ。それから、神妙な顔でうなずいた。
「気をつけるって、どうすれば良いの……?」
「この先、ミッドサマー・イヴやサウァン……ハロウィーンの夜には出歩かないようにして。人間の世界とこっちとの、境界線がゆるむから」
「うん」
「もし、向こうに戻っても『見える』ままだったとしても。怖がらずに、そういうものだと思っておいてくれ。
心を柔軟に、でも強く持ってほしい」
「うん」
「その上で、……そうだな。古い言い伝えにも、大切な事が隠されていたりする。やってはならない事とか、近づいてはならない場所とか、妖精に関した話は、気をつければ耳に入るはずだ。その決まりをできるだけ、守るようにしてくれ」
「そうすれば、大丈夫?」
「多分ね。探せば、詳しい人もいるだろうし。それに小さな妖精たちは、心の優しい人が好きなんだ。悪さをするものがいれば、警告してくれるかもしれないよ。そんな時には、ありがとうと。そう言ってあげて欲しい」
「うん」
「特別な事じゃないんだ」
俺が言うと、アーサーは首をかしげた。
「世界に、力が流れているのも。妖精の世界があって、それが俺たちに、時折、顔を見せてくれるのも。
特別な事じゃない。当たり前の事だ。
ただ、気がつくか、気がつかないか。それだけで」
アーサーは、黙って俺を見ている。
「『当たり前』は特別で、『特別』は、ごく普通の出来事だったりするんだよ」
「シェイクスピア?」
アーサーは小さく笑った。
「キレイは汚い。汚いはキレイ」
その年齢で読んでいるのか、シェイクスピア。『マクベス』の中のセリフだろ、それ。
「ああ……、ニュアンス似てるよな。あのな、アーサー。『当たり前』な出来事を大切にできるんなら、『特別』はもっと、優しくて、素晴らしいものになるんだ。
世界は、人間だけでできている訳じゃない。
それを忘れずに。少しの敬意を込めて。人間以外にも気をつけてあげる。
そんな風に、世界を見て欲しい」
アーサーは、じっと俺を見つめた。
それから、うなずいた。
「ねえ、でも、……タカシ。ぼく、ちょっと、怖いよ」
うつむくと、小さな声で言う。
「そう?」
「また、あんなのと出くわしたら……そう思ったら。怖い。ぼく、弱いね。タカシみたいに、勇敢になれたら良いのに」
「俺も、勇敢だったわけじゃないよ」
「そんなことない。タカシは臆病じゃないもの。あんな怖い妖精に、立ち向かって」
「怖かったよ」
俺が言うとアーサーは、えっ、という顔をした。
「怖かった。逃げ出したかったよ、本当の所。あの妖精、殺す気満々、不運をまき散らす気満々だったし。ガタガタ震えてたんだよ、本当は」
「え……、でも、」
「見栄を張ってた。それだけだ。俺は、……俺だって、臆病者の弱虫なんだよ」
「ちがうよ! タカシは、強くて、ぼくを助けてくれて、……だから! あんなの、絶対怖がったりしてなかったよ!」
声を上げたアーサーに、「人の子」とトリスタンが呼びかけた。
「あれは死を運ぶものだった。間近で見て、怖くないなどと言う者は、愚かだ。恐れるべきを恐れないのは、勇敢なのではない。無知で愚かなのだ。触れられれば死ぬ運命を運ぶ者。恐れない者がいようか?」
「でも……タカシは」
「タカシは向き合った。逃げなかった」
トリスタンは静かに言った。
「恐れるべきを恐れ、その上で向き合った。そうして己の果たすべきつとめを果たした。覚えておくが良い。それこそがこの世では、勇敢だと称賛される行動なのだよ」
トリスタン。アーサーとの関わりをあれこれ言ってたくせに、何なんだ、そのコメント。せっかく、弱虫ですアピールしていたのに。
「なんか俺が大層な事やったみたいに聞こえるから、ヤメテ」
ぼそっと言ってから、俺は、アーサーの方を向いた。
子どもは真剣な顔で俺を見ていた。う。どうしよう。
「あ~……あのさ。正直言うと、ほんと、怖かったし。今も怖い。二度とやりたくないよ。臆病とでも何でも言ってくれ。あいつが突進してきた時、本当に逃げたい気分だったんだから」
「そうなの?」
「そう。だから、」
「俺でもそう思う」
いきなりそこで、ケルピーが同意した。え?
「好みじゃないのに抱きつかれると、困るよな!」
「そっちか? そっちなのか? おまえの逃げたい理由って!」
違うだろう、色々と。
「だって俺、あいつより強いし」
「あー、はいはい」
頼むから話を交ぜっ返さないでくれ。そんなつもりはないんだろうけど!
「タカシ」
すると、アーサーが真面目な顔で言った。
「怖くても、なすべき事を果たす。あなたの教えてくれた事は、忘れません」
「いや……あのね。忘れても良いから。怖いのも逃げたいのも人間だから。と言うか、逃げるべき時は逃げないと」
「はい」
「あ~……、だからさ。じいちゃんに言われたんだけど。
愚かさを、勇敢さだと勘違いする者は多い。でもそれより、知恵に裏打ちされた臆病さを選んで欲しい。そちらを選ぶ勇気を持って欲しいって。
パイロットでね、『臆病者と言われる勇気を持て』って言った人がいるんだってさ。事故を決して起こさない人だったって。つまりは、そういう事だと思う。
臆病で良い。慎重で良い。
正しい道を、探して。選んでほしい。
なんでもかんでも、突進して行くのが良いわけじゃないから」
子どもは、ケルピーを見た。
それからうなずいた。
「はい」
トリスタンが、うんうん、とうなずいた。ケルピーも、うんうん、とうなずいた。おい。今の、おまえを見て納得したんだぞ、ケルピー。
「怖いことを怖いって、認めるのも勇気がいります。ぼくは、タカシを尊敬します」
あの、すみません。俺の事について、どれだけ目にフィルター入ってるんですか、アーサー。
そこで、フェアリー・リングの光が明滅し、弱まった。
「タカシ。時間がないぞ。急げ」
トリスタンがせかす。俺は立ち上がった。
サウァン……サウィン、サワーン、サムヘインとも。古い時代のケルトの新年で、夏の終わりという意味。これが後に、ハロウィンになった。
『臆病者と言われる勇気を持て』
JALの初代社長、松尾静麿氏の残した名言。濃霧に包まれた空港に降りることを断念した機長を褒め称えた。
日本機が断念し、他の空港に向かった後、着陸しようとしたカナダ機は着陸に失敗、多くの死者を出す惨事となった。
この言葉は、まず安全を優先せよ、との社訓ともなった。
作中、隆志が言っているのは、社長の話と、実際に判断を下したパイロットの話がごっちゃになっています。彼にとっては昔、聞いた話なので……。