1.
またもや一年ぶり…すみません<(_ _)>
三話、連続投稿。昨日の夜中に書いていました。
小川のせせらぎの音。
降る光。
ぶんぶんと、穏やかに羽音を響かせる蜜蜂。
花の香り。土の匂い。
戻ってきた穏やかさ。
俺は、目を閉じた。虚脱感があった。
何をしたのだろう。
俺は、何をしたのだろう。
どこかに落ちてゆくような感覚を覚えた。頭の奥の方がすうっと浮遊するような。ああ、まずい。倒れる……?
そこで腕をつかまれ、我に返った。飛びかけていた意識が戻ってくる。
「アーサー」
俺の腕をつかんでいたのは、人の世に属する少年。妖精の血を引きながら、それを知らず。己を人間だと思って疑いを持つことのない存在。
かつての俺のように。
うらやましい、と思った。
何も知らず、人として、人の世に属する少年が。うらやましい、と。
「タカシ」
アーサーは俺の名を呼ぶと、つかんでいる俺の腕を、自分の方へと引っ張った。体勢を崩してたたらを踏んだ俺を、さらに引っ張る。
膝をつきそうになって、俺はアーサーの肩に自分の手を置いた。すると少年は、俺の腕を離し、抱きついてきた。
俺たちは、互いに互いが支え合うような、しかし身長が合っていない為に、ひどく不安定な格好で抱き合った。
「アーサー?」
もう一度名を呼ぶと、少年はぐり、と俺の腹に頭をこすりつけるようなしぐさをした。
「アーサー。どうしたんだ」
「っ、かりませ……、」
くぐもった声で言うと、少年は、俺に抱きつく腕の力を強くした。
「怖かったのか? 大丈夫。もう、あの黒妖犬は、おまえを狙う事はない」
「そ、じゃない、……ぼく、は」
何か言いかけて、やめて。アーサーはどこか混乱したような、それでいて必死な表情で、俺を見上げた。
「タカシ。ぼくは。タカシが大好きです」
突然の事に、俺は目を丸くした。え、いきなり何?
「そう?」
「はい」
「えっと、……ありがとう。でもなんで急に?」
「言わなければって、思ったんです」
アーサーは、くしゃりと顔をゆがめると、なぜか泣きそうな顔になった。そうして繰り返した。
「なんでなのか、わからない。でも、タカシに言わなければって。そう思ったんです。そうじゃないと、」
「そうじゃないと?」
少年は、俺の腕をつかむ力を強くした。その手が震えていた。
「タカシが。どこかへ行ってしまうみたいな。そんな気がして」
「俺は、どこにも行かないよ。君を家に帰さないといけないからね」
そう言うと、アーサーは口をへの字にした。何かを耐えるかのように。
それから、俺に尋ねた。
「その、後は……?」
「後?」
「ぼくを、家に送ってくれて。そのあと……、タカシは、どうなるんですか」
俺は、まばたいた。少年が、何を危惧しているのかわからない。
「帰るさ」
「どこへ」
「俺の家へ。家族の元へ」
「本当に?」
どうして、そんなにも必死な顔で尋ねてくるのだろう。
「帰れるんですか。ちゃんと。一人で、どこにも行けなくなって、さまよったりしませんか」
「俺って、そんなに迷子になりそう?」
苦笑して言うと、アーサーは、「だって、」と言ってうなだれた。
「タカシは、優しい。優しくて強い。それで……、嘘つきだ」
「おい」
俺の舌には今、『真実の呪文』がかかってるんですけど。
「嘘って、つきたくてもつけないんだけど、今は」
「言葉に出さずに、何も言わない事で、嘘をつくことだってある」
アーサーは唇を噛んだ。
「そうしてあなたは……、ぼくを助けるために、自分を犠牲にして。それをぼくに気づかせないようにするぐらい、平気でする。そういう人だ。
戻れなくなっても、気にするなと言って。それぐらい、あなたはやってしまう。
ぼくが、弱いから。ぼくが、愚かだから。だから」
「こらこら。ちょっと黙ろうか、少年?」
なぜか自虐的な言葉の羅列が始まって、俺は呆れた。手を伸ばし、子どもの頬を軽くつかんでぐいーんと引っ張る。
「おお、伸びる伸びる」
「ひひゃひ! ひひゃひひぇす!」
「なに言ってるのか、わかーんなーい」
にやにやしつつ言い、ぱっと手を離すと、子どもは赤くなった頬を手で抑え、涙目で俺を睨んだ。
「ひどいです、タカシ……」
「うん、俺は基本的にひどいよ?」
くくっと笑ってから、俺はアーサーの頭をがしがしなでた。
「弱いのも愚かなのも、当たり前だろう。君はまだ九歳なんだぞ」
「ぼ、ぼくは……」
「はい、ストップ。俺の言うこと、聞こうね?
前にも言ったよね。俺は君より年上なんだよ。だから、君のこと、かばうのが当たり前なんだ。ああ、まだしゃべらない。ちゃんと聞く!
俺だってな。かばわれて、守られて、ここまで生き延びてきたんだよ。
だから、アーサー。君は無力感をさんざん味わいながら、黙って俺に守られとけ」
途中で何か言い出そうとした子どもを制して、俺はそう言った。アーサーは、なんともいえない表情で俺を見やった。
「タカシ……でも」
「それで、家に帰ったら。がんばって成長しろ。知恵を深めろ。知識を身につけろ。心を高く上げろ。より強く、優しくなれ。
今の自分が弱いと、愚かだと思うのなら。それを求めて、求め続けろ……ふっふ、カッコイイこと言っちゃったよ」
へらりと笑い、俺は続けた。
「そうして、大人になってくれ。誰かを助けることのできるような、そんな大人に。
でもさ、アーサー。だからと言って、無理はするなよ。君には、君のペースがあるんだから。あせらず、ゆっくり成長するんだ。急いでひょろひょろになるより、しっかり準備して、大きな大人になってほしい。
そんな大人になった君を、俺は見たいよ」
ぐりぐり、と頭を撫でてやる。
「人間のままで、……少なくともそれぐらいまでは、俺は。たぶん、大丈夫だ」
「タカシ?」
子どもの頭に置いた、自分の手を見る。人間の手だ。
節がちょっと目立ってきて、小学生のころの逆上がりの練習でマメができていたり。何かのはずみでついてしまった火傷の痕や、ちょっとした傷が残ったりしている……人間として生きてきた時間が積み重なって出来上がった、俺の手だ。
「俺は人間の世界に戻って、人間として生きるよ。そのつもりはあるんだ」
子どもはその言葉を聞いて、不安そうな顔をした。
「つもりはあるって、それ、実は危ないっていう風に聞こえます」
聡いな、と思った。こんな言葉の切れ端から、推測ができてしまうなんて。
俺には、俺の問題がある。人間でいたいと願いながら、どこかでそれを拒絶している。
狭間に立ち続ける者。それが、俺だ。
その迷いが、揺れが。隙になる。その隙を、妖精たちに狙われる。
けれど。
「俺は、人間だからさ」
だからこそ、繰り返す。この言葉を。
「人間で、ありつづける」
自分に言い聞かせるように。
「タカシ……」
余計に不安そうになったアーサーの頭から、俺は手をどけた。それから、へらっと笑ってみせた。
「そのつもりなんだよ。でもね。事あるごとに拉致監禁したがってるのがいるんで、ちょっと油断できないカンジなんです」
アーサーはその言葉を聞いて、沈黙した。
それから、とてつもなく気の毒そうな顔をした。
「ぼくが言うのもなんですけど……強く生きてください、タカシ。自分をしっかり持って、流されないで下さいね」
がしっと手をつかまれ、真剣な顔で言われた。九歳児に憐れみのまなざしを注がれた挙げ句、こんな風に慰められるとは思わなかった。どれだけ不憫に見えてるんだ、俺。