3.
ふわり。
ひら、さら、さらら、
さら……。
静寂の中。柔らかな光が、そこにあった。
崩れ、消え去った影の代わりに、そこには光に包まれた、何かがいた。
さら、さらら……。
光が、さざ波のように揺れている。
そのものを包んで。
不意にそれが身じろぎ、ゆるり、と頭を上げた。
『傲慢なるは、人の子』
それは言った。どこか、大地に降るさやかな光に似た声で。
ささやくように、それでいて、その場にいた者全てに聞こえるような声で、それは続けた。
『願い。求め。そして躊躇なく手を出し、成す』
「記憶はあるのか」
俺が問うと、それは答えた。
『われはかつて、それであった。ゆえに記憶を持つ。人の子よ。そなたはなんと傲慢であることか』
「ああ、それが俺だ。だが、後悔はない」
答えて俺は一歩進み出ると、地面に膝をついた。光に包まれるそれを見つめる。
「そうして、傲慢による罪を、ここで仕上げる事にしよう。
俺の目におまえは、輝くものに見える」
びくり、とそれが震えた。
「喜ばしいものに見える。幸いなるもの。祝福された、喜ばしいもの。
世を巡り、巡り続け、水に、大地に、大気に、光に。全てに喜びを運び届け、祝福を運び届けるもの。
安らぎと、優しさをおまえは運ぶ。迷う者には道を示す小さな光となるだろう。
音楽はおまえにとって喜びの泉となり、おまえはまた、その喜びを他に伝え続けるだろう。
おまえ自身もまた、世に現れ、贈られた祝福であるから」
さら。さらら。
さ、さ、しゃ、しゃ、ら、ら、らん……
それが変化する。かすかな歌声と共に。それはまるで、目覚めようとする世界の中、流れる小川のせせらぎのようで。
東の空の明るさを感じ、声を上げ始めた小鳥の歌声のようで。
「そのように、俺はおまえを見た。
そのように、俺はおまえを見定めた」
しゃ、しゃ、しゃら、しゃら、ら、ら、りん、ろん、……
世界の目覚めるのを待つ、命の真摯な願いにも似て。
羽化を願う、祈りにも似た、ささやき。
その歌を、俺は。尊いと思った。
ただ、尊いと。
「ゆえに、そのように、俺はおまえを呼ぶ。今からも、これからも。
おまえは幸いなるもの。祝福を運ぶもの」
りぃん、りぃん……りん、りん、ろん、り、ろろん、……
「そして、美しい祝福そのものだ」
……りいぃぃーーーーーーんんんん………
一瞬の静寂の後。
涼やかな歌を放ち、光は収縮し。翼を持つ何かに変化した。
真っ白な毛並みに、穏やかな青い目。背に一対の白い翼を持つ、輝く獅子に。
獅子ではあったが、風のようだった。風のようではあるが、力の具現でもあった。
空を思わせる青い目には、熱と輝きが宿り、周囲に揺らぐ事のない強さを、歌のように振りまいた。
風を思わせる一対の翼には、喜びと内省による悟りが宿り、周囲に優しいなぐさめと、明るさを放った。
ジョンのピアノだ。
そう思った。これは、あのピアニストが、世界に向かって贈り続けていた音楽……。
『われは新たな存在として、定まった』
それは顔を上げると、翼を広げ。鈴の音のような響きの、力強い声で言った。
『もはや、元には戻るまい。死んで新たに生まれたのだから。
呼ぶ声がする。行かねばならない。
新たなるものとして、行くとしよう。人の子よ。そなたが望んだ通りに』
そうして輝く獅子は、俺を見つめた。明るい音楽の調べを秘めた空色の目で。
『礼を言うべきか、恨み言を言うべきか。今もわからぬ』
「俺は、俺のしたいようにしただけだよ」
『そうだろうな。人の子よ。そなたは、かつての我が愛した男にそっくりだ』
そう言うと、獅子は笑い。俺の方に足を踏み出すと、額をなめた。
ちり、と何かが燃えるような感触が走った。
しかしそれは、すぐに消え。獅子は俺から離れると、駆け出した。大地を蹴って。
翼が広げられ、力が星の光のように集まる。それは大きくはばたくと、
風に乗り、空の高みに駆け登った。
疾走はさらに早くなる。
天高く駆け上がったそれは、やがて、ひときわ強い光を放った。まるで、小さな太陽のように。
そうして流星のように尾を引きながら、彼方に向かって飛び去って行った。
後にはただ、たゆたう光の残響と、大気に溶けた歌のきらめきだけが残った。