2.
グウオオオオオ……オオオオオアアアアアアア
黒妖犬が吠えた。
叫びは黒くしみのように、世界を汚し、浸食してゆく。
グオオオオアアアアア……アアアグウォルルルルルオオアアア
長く続く。遠く響く。
怒りと、嘆きと、憎しみと。それらの全てと、それを超える攻撃する力を声に込めて。
オオアアアア、グウワル、グウォルルルルアアアアア
大地が染まる。黒に。風が浸食される。腐臭に。
輪郭を崩した犬が、どろりとした粘着質の淀みに変わる。
ぐうぉる
ぐうぉる
ぐうぉると、うなり、叫びながら。
崩れた大地がぼこぼこと泡立ち始める。そこから伸びてくる淀みが、俺の足元に迫ってくる。
風が腐る。大気が腐る。
『俺、ハ闇、闇、デアリ、死ヲ、死ヲ、運ブモノ』
淀みの中からひび割れた声がした。
『憎、恨、怨、……奪ウモノ、闇ニ落トス、モノ』
それはまるで、魂を萎縮させようとでもするかのように、陰々とした響き。
けれど。
「『闇の中に見える、ひとすじの力。
あかく、夜をこえて燃え上がる。
それは、何か』」
俺の中からあふれる、言葉。陰々とした響きをそれは、押し退ける。
『憎。怨』
「『炎のように』」
『恨。腐』
「『おまえの内を照らす』」
『奪。壊』
「『それは、何か』」
『壊。壊。壊壊壊壊』
「『何か』」
ぐうぉる。ぐうぉる。
ぐうぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉおおおおおおおおおおおお
どろり、と溶けた漆黒の影が、泡立って立ち上がる。攻撃する意志を込めて、俺を威嚇する。
『怨。怨。怨』
陰々と、声が響く。その奥に。
それが、見えた。
「……それは、祈り。世界が美しいバランスを保ち、かくあるようにとい願う、最もシンプルで、尊い祈り」
俺は言った。
「おまえが、ジョン・セバスチャンに対して願い、彼もまたおまえに対して願った……祈りだ」
溶けた漆黒の中に、ひとすじの祈りがあるのが、俺には見えた。それは炎のようで、光のようで、風のようで。大地の力強さ、水の流れのようで、音楽や歌のようで。
涙のようでもあった。
「『かくあるように』」
その祈りを、音でなぞり、俺は口にする。
「『水が流れ落ちるように。風が木々をすりぬけるように。大地が横たわるように。炎が燃え上がるように。
世界がそのように、美しくあり、
おまえもまた、そのように存在するように。
かくあるように。この言葉を、
友よ。わたしは、おまえに贈る』
……これが、おまえの中に今もある、彼の祈り」
不意に。
しん、と影が静まり返った。
「わからないのか?」
俺の問いかけに、淀みが震えた。
「消えてなどいない。それは、今も。おまえの中にある」
ぴし。
かすかな音がした。
ぴし。ぴしぴし。ぱき。ぱきん。
動きを止めた漆黒の影の、どこからか。何かが割れる音がした。
ぴし。ぴきぴき。ぱし。
音は、次第に大きくなり。
ぴち、ぱき、
ぱきききき……、
影の全身から響き。そして、
ばしいいいぃっ!
大きなひびが、影の中心から一直線に生じた。それは影を引き裂くかのように鋭く、一気に現れ。続いて細かなひび割れが、その周辺に次々と現れた。
が、が、ががが、があああああっ!
淀みが悲鳴を上げた。その間も、ひび割れは止まらず。内側から引き裂くかのように、いく筋も、いく筋も、
光が。
黒妖犬であった漆黒の淀みの。内側から。
涙のように。
音楽のように。
生まれ、あふれ、膨れ上がり、外へ。
外へと。
ぎゃ、が、があああああああああっ!
淀みがのたうった。伸び縮みしながら、苦痛の叫びを上げる。その間も、ひび割れは大きくなり、黒の崩壊は続いている。
コワイ。
そんな叫びが、聞こえた気がした。
コワイ。
「そうじゃない……」
ジョン・セバスチャンは、おまえを苦しめたくて祈りを残したわけじゃないんだよ。
俺は目を閉じると、あのきらめきを思い起こした。去っていったピアニストの残した、最後の音楽。
彼の、祈り。
「Wohl mir, dass ich Jesum habe,(イエスを得た私は幸いだ)
O wie feste halt ich ihn,(ああ、私はなんと固く彼を抱きしめることか)」
最初のコラール。俺の口は自然に動いて、彼の弾いただろう音楽、そのピアノの中に込められた歌をなぞった。この部分は、黒妖犬によって、呪縛の一つとして使われた。けれど。
「Dass er mir mein Herze labe,(彼は私の心を慰めてくれる)
Wenn ich krank und traurig bin.(病める時も、悲しみの内にある時も)」
この歌がなければ。
始まりと出会いを象徴する、この歌がなければ。
「Jesum hab ich, der mich liebet(私はイエスのもの、彼に愛される)
Und sich mir zu eigen gibet;(イエスは私に自分自身をも与えてくれた)」
最後のコラールにつながらない。
終わりが、存在できないものとなってしまうのだ。
「Ach drum lass ich Jesum nicht,(ああ、だから私はイエスを離さない)
Wenn mir gleich mein Herze bricht.(私の心が壊れ果ててしまおうとも、決して)」
びし! ぱきぱき、ばきっ!
ぐうぉぉぉぉぉおおおおおおおお!
最初のコラールを歌い終わると、激しい音を立ててひびが広がった。
影が崩れる。崩れて別の何かが内から現れようとする。
それを恐れて、影は叫ぶ。苦しみの声を上げる。
俺は姿勢を正すと、息を吸い込んだ。続けて、ジョンが最後に弾こうとしていた歌詞を歌った。バッハのカンタータ、最後に歌われるコラールを。
「Jesus bleibet meine Freude,(イエスはずっと、わたしの喜びのままであるでしょう。)
meines Herzens Trost und Saft,(わたしの心をなぐさめ、うるおし、生きる力を与え続けてくれるでしょう)」
聞いてくれ、黒妖犬。これが、ジョンがおまえに伝えたかったことなんだ。
「Jesus wehret allem Leide,(イエスはわたしのために、すべての悲しみに立ち向かってくれる。)
er ist meines Lebens Kraft,(そのゆえにわたしは、彼から生きる力を与えられる)」
彼は感謝していた。おまえに、感謝していた。
「meiner Augen Lust und Sonne,(わたしの目には、彼は太陽。そのように輝かしい。)
meiner Seele Schatz und Wonne;(わたしの魂には、彼は宝。そのように喜ばしい)」
きっと彼の目には、おまえはそのように見えていた。
大切な友。かけがえのない宝物。
「darum lass ich Jesum nicht,(だからわたしは、イエスを離さない)」
祈りを、ただひたすらに。おまえの中に。
「aus dem Herzen und Gesicht.(顔を彼に、心を彼に向け続けるのです)」
残した。
「アア、ガアアアアアアアッ!」
一際高く、影は叫び声を上げて。
内側から現れた光により、……砕け散った。