1.
『真実の目』。
それがどんな能力なのか、はっきりとは知らない。俺にとってはただ、物事の姿が当り前に見えるという、それだけの力にすぎないからだ。
けれど、この妖精郷で。
妖精を前にして使うのであれば。それは、明確な意志の力として発現する。
それも、『真実の舌』の力の後押しがあるとすれば、どれほどの力となるか。
「『黒妖犬。かつてそれであったもの』」
自分自身の奥からやってくる力に、道をつけてやる。どの方向に向かうのかを指示してやれば、力はたやすく俺を通って発現する。
「『死と不運を運ぶ、アンシーリーコート。触れた者は即座に命を落とす』」
大気に響くのは俺の声。漂うそれが、何かを固定する。
黒妖犬を。黒妖犬である存在を。
「『おまえは内に、人の魂を抱いた』」
薄れかけていた黒妖犬の姿が、鮮明になる。彼は目をぎらつかせると、『ヤメロ』と言った。
「『そのゆえに歪み、黒妖犬という己を失った』」
『ヤメロ』
「『ゆえにおまえはもはや、黒妖犬ではなく』」
『ヤメロ。オレヲ、』
「『新たなる存在となる』」
『オレヲ、存在サセルナ!』
滅ぼせと。
自分を滅ぼせと黒妖犬が叫ぶ。
輪郭がしっかりとなり、黒々と存在が強くなる。目の中に燃える赤い炎。
きしむ。
大気が。大地が。
重く陰る。
『オレ、ハ、オレハ』
「『新たなるもの』」
『チガウ、オレハ、』
「『おまえは……』」
ガ、ガアアアアアアッ!
黒妖犬が吠えた。ゆらゆらと揺れる大気。黒々と歪む気配。
けれどその中に。ひとすじの流れが『視える』。
彼の歪み。
アンシーリーコートであるはずの彼の中の。存在するはずのない、歪みの種。
『オレハ死ヲ、運ブモノ。輝キヲ、闇ニ墜トスモノ』
ゆるり、と首をもたげて黒妖犬が言う。
『滅ボシ、滅ビル。ソレガオレノアルベキ姿』
「『それは正しい。けれど誤りでもある』」
俺の舌が動く。何かのイメージがひらめいて、目の前を横切る。
じいちゃん。
あれは、いつの事だった。
『生命とは不思議なものだ。変化し、変化し続けて、その先に何があるのか自らは知らず。それでも恐れる事なく変化をし続ける』
降り注ぐ月光。蚊遣りの煙の匂い。ぬるい風。虫の音色。
『意味わかんないよ、じいちゃん』
『変わり続けるのが、人だという事さ。いや、人だけじゃないな。あらゆる命がそうだ』
そっと頭に置かれた手。あの手が俺は、好きだった。
あの手の持ち主が、俺は。
『どうして生命は変わるの』
『生まれてくるからさ』
『生まれてくると、変わるの』
『世に生まれ出でしものは、すべて、死ぬ運命にあるからね』
じいちゃんは、月を見上げた。
『妖精にすら、死は免れ得ないものだ』
『そうなの?』
『人間の死とは違うがね。彼らの最後は滅びと消滅。それも、この世においては変化の一つなのだろう』
『変化の一つ?』
『変わらないものはないのだよ、隆志。存在するものの中で、変わらないものはない。永遠に見える山や海ですら、変化する。太陽も月も、星々もそうだ。ただ、人間が気づかないだけで』
『気がつかないの?』
『人間の時間と、太陽や月や星の時間とは、とても違っているからね』
しらじらと輝く月の色。降る光。
『お月さまは、毎晩形を変えてるよ。おれ、知ってる』
『そうだね』
ふふ、とじいちゃんは笑った。
『ほかに、おまえの目は何を見ている……?』
おれの、目。
『星はキラキラしているよ! いつもキラキラ。そうしてね。キラキラはいつも同じじゃないんだ』
『そうか』
『毎日、違うんだ。同じ光り方は一度もしないよ』
『そうだな』
『葉っぱが光に透けてざわざわする時、やっぱり同じざわざわはないんだ。似てるけど、でもいつも違う。そんな声を上げてるよ』
『そうだな』
『どうしてかな?』
じいちゃんは、おれを見た。
『どうしてだろうな?』
『じいちゃんにも、わからないの?』
『ああ。……ただ、こういう言葉を知っている。海は……、』
「『海はこの世に生まれた時から、二つと同じ波を持たない』」
おれの唇が動いて、あの時じいちゃんが言った言葉をなぞった。
「『ただ、生まれ。うねり、消えるその瞬間まで。波はただ、波であり。そうして、この世に海が存在し始めた時より。二つと同じ波はない。
それは人に似ている。人のあり方に……』」
目の前の黒妖犬。
「『それは、妖精にも似ている。妖精のあり方にも』」
変化とはなんだ。
この妖精が消滅を望むと言うのなら。それは。
「『生まれ、死にゆくものは常に、変化をし続ける。芋虫がサナギになる時、それは一つの死であるだろう。芋虫であった己は消滅するのだから。
サナギから蝶が生まれる時、それもまた一つの死であるだろう。サナギという死の状態から生まれ、新たな死に向かって飛翔するのだから。
それでも変化は起こり、彼らは決して後悔しない。
滅びを願うと言うのなら。おまえもまた、変化を望んだのだ、黒妖犬』」
部屋にクーラーがないもので、午後六時ぐらいまでサウナです(+_+)