4.
俺たちの会話が聞こえていたのだろう。黒妖犬はふらつきながら、四肢を大地に踏ん張り、のろのろと身を起こした。
『オレ、ガ。アレ、ノ……』
低く、うなるように言う。
『一部。一部。ナラバ、ナゼ』
ぐうぉる、と喉の奥でうなり声を響かせる。
『ナゼ、オレハ、置イテ行カレル。一緒ニ、行クコトガデキナイ』
輪郭が、崩れかけていた。かろうじて犬の姿はしているが。
ぼろぼろになった毛並みの先が、細かな砂のようになり、霧のように消えてゆくのが、離れていてもわかった。
存在が、薄れている。
「それでもおまえは、彼の一部だ。かつても。今も」
それが正解なのかわからなかったが、俺は言った。
『オレハ、残サレタ』
「それでもだ。おまえは、彼がこの世に存在したという証」
ガ、ガ、といううなり声が響いた。
ガ、ゲゲ、ガ、とそれは、時折途絶えながら、断続的に続いた。
それが、笑い声であると気づくまでに、少しかかった。
『ソレ、ニ。ソレニ。何ノ。何ノ意味ガ』
黒妖犬はまるで、うめくように、体の底から振り絞るかのように、笑い。叫んだ。
『オレハ、捨テラレタ。オレハ、置イテ行カレタ。
失ッタ。失ッタ。イナイ。モウイナイ。イナイノニ。
ナノニ。一部ダト。オレガアレノ、一部ダト。
ソレニ、
何ノ意味ガ、アル!』
があ、と吠えて。
ところどころ、存在を薄くして。輪郭を崩し、それでも黒々とした姿で。目から、炎を噴き出しながら。
黒妖犬は、俺に向かって飛びかかってきた。牙を剥いて。
ひゅっ、
風を切る音がした。続いて、どすっ、という音も。
「あ、」
もんどりうって、黒妖犬が倒れる。
腹に、矢を生やして。
「トリスタン!」
振り向いた先に。弓を構えた妖精騎士。つがえた矢を放したばかりの。
「なぜ、」
「これは君を狙った」
「本気じゃなかった。殺気なんてなかったじゃないか!」
俺は叫んだ。そう。黒妖犬に殺気はなかった。
彼に、俺を殺すつもりなんてなかった。
「それでも、君に触れようとした」
弓を下ろすと妖精騎士は、冷たい表情で倒れた黒妖犬を見やった。
崩れる。
存在が薄れ、ちぎれ、輪郭がゆらぎ。さらさらと。
端からさらさらと、輪郭が崩れてゆく。
「猟犬風情が、わたしの守護する者に手をかけようとは。許せるものか」
「そんな話じゃないだろう!」
「そんな話だ。わたしにとっては」
トリスタンは俺に視線を戻した。
「タカシ。これは、確かに良くやった。たかだか猟犬の位階にしかない身でありながら画策し、人間の魂を虜にし、逃げ出さぬよう、惑いとまやかしの封を幾重にも施した。
すべて、君に看破され、壊されて解除されてしまったがね。
それでも良くやった。見事と言って良い。そのことに対して、称賛するのはやぶさかではないよ。
だが、君に手を出すとなれば別だ」
「殺気はなかった。俺をどうこうするつもりなんて、」
そこで、気づいた。
「射られるとわかっていて、……わざと飛びかかったんだ」
彼方へ去ったものへの悲嘆と絶望の中で。
黒妖犬はトリスタンの目の前で、俺に危害を加えるふりをした。
ぼろぼろになった今の状態で、シーリーコートである妖精騎士の矢を身に受ければ、ただでは済まない。それがわかっていて。わざと。
滅びを選ぶために。
黒妖犬は、何も言わない。ゆるやかに崩れ続ける体の中で、目にはまだ炎がともっていた。それも、次第に力をなくしてゆく。
「黒妖犬。ジョン・セバスチャンは、おまえに生きていて欲しかったんだ。だからおまえを解放した」
そう言うと、小さく、薄くなりながら、黒妖犬は笑った。
『望マナイ』
どこか満足そうだった。
一緒にいたい、と叫んだ妖精。
人の子の魂を欲しがって、自分自身が歪んでも、一緒にいたいとただ、叫んだ。
そうしてそれを失えば、ただ滅びを望む。
それに対して生きろと言う人間は……、残酷なのか。俺の言葉は。行動は。
黒妖犬を解放したジョン・セバスチャンの行動は。
それでも。
それでも、こんなのは。俺は、嫌だ。
「俺は境界に立つ者で、おまえたちのことは多少は知っている。ちょっとならわかる部分もある。でも基本は人間なんだよ」
そう言うと、俺は消滅しかかっている黒妖犬に向かい、一歩踏み出した。
「タカシ」
「邪魔をするな、トリスタン」
声をかけてきた妖精騎士にそう言うと、彼は黙った。俺は黒妖犬の側まで歩くと、力なく倒れている彼を見下ろした。
「知っているか、黒妖犬。音楽家はロマンチストではあるが、ある部分ではとてもわがままなんだ。ジョンもわがままな奴だった。そうじゃないか?
ピアノも弾きたい。おまえとも一緒にいたい。両方欲しがっておまえを振り回した挙げ句、曲を完成させたいとほざいてさっさと弾き終わり、一人で行ってしまった」
黒妖犬が俺を見上げる。俺は小さく笑った。
「そうしてな。俺は音楽家じゃないが。やっぱりわがままなんだよ。目の前で、自分の関わった存在が消滅するのを見るのが嫌だ。ただ、嫌なんだよ」
『ヤメロ』
何かを感じたのか、黒妖犬がうめいた。俺は微笑んだ。
「やめない。悪いがあきめらてくれ」
『ヤメロ』
「たぶん、俺は残酷なんだろう」
そう言うと、俺は黒妖犬を、『視た』。自分自身の持つ、『真実の目』の力を使って。