3.
何もない。
そこには、何もなくなっていた。黒いピアノも、アーモンドの花も。
夢のように消えて、ただ。
やわらかな風と、穏やかな光が。そこにあった。
彼の姿もない。
先ほどまで、確かにいたはずの彼は。もう、いない。
去ってしまった。
人間が行くべき所。妖精には行けない所。
はるか彼方へと。
黒妖犬が、ゆるりと頭をもたげる。信じられぬと言いたげに。
震えて。立ち上がり。
ずりずりと、体を引きずるようにして、それまで彼を阻んでいた境界線のあった場所を踏み越え。
ピアニストの青年がいたはずの所へ、身を運び。
どう、と倒れるように身を伏せると。顔を地面に押しつけた。
そのまま、しばらく動かない。
やがて彼は、そのままの姿勢で、うめき。
叫んだ。
グウォルルオオオオガァアアアアアアアアアァァァァァァ
その叫びは。
絶望を音にすれば、こうだろうと言うような、苦鳴。
喪失の痛みと、かつてあったものへの渇望と、それが決して戻らないことを悟った悲鳴の叫び。
それは長く、長く尾を引いて、続いた。
アアアアアアガァァァァァァ……アアアアアアァァァァァ
知っている。
俺は、この叫びを知っている。
じいちゃんの死んだ時。ばあちゃんが、こんな叫びを上げた。
自分の悲鳴で、自分の体を引き裂きたいとでも言うかのような。
叫ぶことでなお、自分自身を苦しめているような声だった。
ガアアアァァァァァァァグウォアアアアアアア
袖が引かれた。
そちらを見やると、いつの間にか側に来ていたアーサーが、震えながら俺の腕をつかんでいた。
「タカシ……この、妖精、」
「ああ」
俺は身を屈め、一度アーサーを抱きしめた。それから、ケルピーの方に押しやる。
「向こうに行ってろ。聞いていると辛いだろう。ケルピー、頼む」
「おう」
ケルピーがアーサーを抱き上げようとする。しかし、アーサーは抗った。
「待って。タカシはどうするの?」
「俺は……、ここにいる。見届ける責任があるからね」
彼をこうしたのは、俺だ。
最後まで、付き合う責任ぐらいはあるだろう。
そう思って身を起こした俺は、息を飲んだ。トリスタンが弓を構え、矢をつがえていたからだ。
黒妖犬を狙って。
「やめろ、トリスタン!」
「なぜだね」
叫ぶと矢をつがえたまま、妖精騎士は問うてきた。視線を黒妖犬から外さないまま、静かな面持ちで。
「こいつは、もう……何もできない」
「そうとも。だからこそ、消滅させてやるのが、慈悲だ」
「トリスタン!」
「陰険騎士の言う通りだ」
ケルピーが、アーサーを抱き上げながら言った。
「俺にもわかる。消滅させてやれ」
「ケルピー!」
「間違ったことは言っていないぞ、俺は」
声を荒らげた俺に、水棲馬の化身の青年は、黒々とした瞳を向けた。
「そいつは得て、失った。最初から持っていなかったならともかく、得てから失った。その分、絶望も深い。
それに、……黒妖犬の姿こそしているが。そいつはもう、黒妖犬ってわけじゃなくなってる」
俺は彼の言葉に目を見開いた。
「黒妖犬じゃない……?」
「人間の魂なんざ、抱え込んで。無事でいられるはずがないんだ」
ケルピーは肩をすくめた。
「人の魂はある意味で、俺たちには毒なんだよ、タカシ。変化をしないはずの俺たちを、たやすく変え、染めてしまう。
そこにいる惨めなやつは、黒妖犬であるはずの自分の中に、人の魂を抱え込んだ。それに染まり、変化を起こした。そうしてなくした。抱え込んでた、核になってたほどのものをな。
だからと言って、元に戻るわけでもないんだ。
歪みは歪みのままだ。どうにもならん。まだかろうじて、妖精ではあるけどな」
「妖精でないなら、何になるんだ」
「さあな。俺は知らん」
「影になるのさ」
そこで、トリスタンが静かに言った。
「喪失の痛みを嘆く影。ただ、それだけ」
「影……?」
俺が妖精騎士の方に目を向けると、彼は矢をつがえ、黒妖犬に視線を定めたまま、独白のように続けた。
「タカシ。われらは、死ぬことがない。消滅するまで存在し続けるのだ。人間のように、記憶が薄れることもない。
これはこの後、この絶望を抱いたまま、この苦鳴を上げ続けるまま、存在のなくなる時まで生き続ける事になる。
自分自身を失い、ただ嘆くために存在する影として。
それはもう、妖精とは呼べないだろう。さすがにわたしにも、気の毒に思えるよ」
俺はたじろいだ。トリスタンの言葉には、重みがあった。彼は知っているのだ。この先、黒妖犬がどうなるのか……どんな運命をたどるのか。
それは、彼自身がたどるはずだった運命でもあるから。
俺は、トリスタンがかつて、何と呼ばれていた存在なのか知らない。
彼がなぜ、名を失い、記憶を失ったのかも。
俺と出会った時。彼は消えかけていた。名も、力も、記憶もなくし、自分自身の存在すら失いかけていた。理由は知らない。けれど。
消滅しかけていたのは確かだ。
そんな経験をした彼だからこそ、わかるのだろう。己の存在をも変えるほど執着し、寄り添っていた魂を失った黒妖犬が……この先、どうなるのか。
だからこそ、存在を終わらせようとしている。
けれど。
「弓を下ろしてくれ、トリスタン」
俺は姿勢を正した。断固とした意思を持ってそう言うと、妖精騎士は、黒妖犬に向けていた視線を外し、俺を見た。
「なぜだね」
「お前の言っていることは、わかる。ケルピーの言い分も。どうしてお前たちがそう言うのかも。でも、」
俺は首を振った。
「嫌なんだ。だからと言って、目の前で一つの存在を消滅させられるのは……嫌だ。頼む。やめてくれ」
トリスタンは、俺を見つめた。
その目に、愛しげな色と、悲しみの色が浮かんだ。苦痛めいたものも。
それから彼は目を伏せて、それらの色を隠し。小さく息をつくと、弓を下ろした。
「人である君は、時にわたしたちよりも残酷だな」
声音は静かで、いつも通りだった。けれど、彼の中に何か、葛藤のようなものがあった事が、俺にはわかった。
「そうかもな」
それに気付かないふりをして。俺は彼の言葉に、ただ同意した。
「でも、彼……ジョン・セバスチャンは。俺とある意味同じだった。その彼が愛した、彼の残した最後のものだ。消したくはない」
「あの青年は、自分の音楽を世界に還して旅立った」
トリスタンが言った。
「世界から受け取ったものを、自分の内で昇華させ、再び世界へと還す。音楽とは、そういうものだ。
しがみつき、自分のものにし続けるなら、それは醜い歪みとなる。
だが彼は、それを還した。それにより、音楽を完全なものとした。 だから、彼の音楽はもう、どこにもない。全てが世界に還元されたのだから。
もし何かがあるとするのなら、……残り滓だよ、タカシ」
「俺は、そうは思わない」
俺は首を振った。
「こいつもまた……彼の音楽の一部だ」
ふと、叫びが止まった。
突然訪れた静寂に、誰もが黒妖犬の方を見た。大地にうずくまる、ぼろぼろになった犬は弱々しく、荒々しく暴れ、牙をむいた姿が嘘だったかのように見えた。
よろめきながら、ゆるゆると、黒妖犬が立ち上がる。
そうして、低くうなるような声で言った。
『オレ、ガ。アレ、ノ一部、ダト……?』