表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妖精の輪と時のロンド〜妖精たちのいるところ  作者: ゆずはらしの
祈りを、ここに。~ロンドは終わる。
32/45

2.

 静かだった。

 ひらり、ひらりと花びらが舞う。

 光に染まる、薄紅色のアーモンドの花。

 翼を広げた鳥のように存在する、黒いピアノ。

 その前に座る青年。


「長かった」


 鍵盤から手を下ろし。

 彼は目を閉じると、ささやくように言った。


「いや、短かったのか。君との日々は」


 振り向いて、そこにいる黒妖犬に目をやる。穏やかな微笑みを浮かべて。


「君がいてくれたから、ピアノをあきらめずにすんだ。

 君がいてくれたから、弾き続けることができた。

 そうして……君がいてくれたから。ぼくは、この曲を弾き終えることができた」

『イヤダ』


 ぼろぼろになった黒妖犬が、大地に横たわりながら言う。


「ピアノを弾くことは、ぼくにとって、世界に触れることだった。この指で世界を作り出し、その中で生きることでもあった」


 青年は、自分の指を見つめた。


「その中で生きて、……そうしてこの世にまた戻る。ピアノを弾くとはぼくにとって、そういうことだった。美しい世界に浸り、ひとときそこで過ごし……戻ってくる」


 青年は、息をついた。


「いつしか、戻らないでいられたらと願うようになった。この美しい世界の中に、ずっと。浸ったままでいることができたなら、と」

『イヤダ。イヤダ』


 黒妖犬は、うずくまり、ただそう言い続けている。


「願うことは自由だが、……それをかなえようとしては、ならなかった。人間なら」


 青年は、俺を見た。人と妖精の境目にいる存在である、俺という人間を。


「人間なら。そうだろう、そこの君?」


 小さな足音が聞こえた。そちらを見ると、しびれを切らしたのだろうか。アーサーが駆けてくるところだった。ケルピーが、「ああ、忘れてた」とか何とか言って、俺の様子をちらりとうかがってから、子どもの方に駆け寄り、片手でひょいと抱え上げると、こちらに戻ってきた。


「どんな物語りにも、終わりはある」


 視線を彼に戻して、俺は答えた。青年は微笑んだ。


「そうだね。どんな音楽にも、終わりがあるように」

「エンドマークのない物語りは、……物語りではない。それは、ただの。言葉の羅列になってしまう」

「最後の一音の響きが消える、その瞬間に。音楽は、演奏する者の手を離れて完成する。それがなければただの、まとまりのない、騒がしい音になってしまう」

「終わりがあるからこそ、それは生きる」

「終わることで。より美しく存在する命を得る」


 ジョン・セバスチャンは、俺を見て微笑んだ。


「ぼくが願うべきは、ぼくの作り出した音楽を、完成させることだった。

 それなのに、それを忘れ。ぼくは、ただ、美しい世界に浸り続けたいと思ってしまった……終わりの部分コーダに向かわずに、何度も何度も、繰り返しをしてしまったんだ。まるで、輪舞曲ロンドのように。繰り返し、繰り返し……」


 ため息をつくと、青年は黒妖犬を見つめた。


「ねえ、君。君はそんなぼくの願いまで、かなえようとしてくれたんだね」

『アアアアア!』


 黒妖犬が叫んだ。どこか絶望に満ちた声だった。


「ピアニストであるぼくは、自分の音楽を終わらせなければならなかったのに」

『オマエ、悪クナイ! ゼンブ! ゼンブ、俺ガヤッタ!』

「君が悪いわけでもない。人と、妖精とは違う。それに目をつぶって、自分に都合の良い夢を見ようとした。

 それが、ぼくの罪。そのために、君を長く苦しめてしまった。でも」


 ピアニストの青年が、立ち上がる。

 愛おしげにピアノを見つめ、そして。

 かたり、と。

 ピアノの蓋をしめた。


「ぼくの音楽は、完成した」


 その言葉と共に。彼の姿が存在感をなくす。幻のように、頼りないものとなる。


『イヤダ! イヤ……俺ヲ、置イテ行クナ!』


 悲鳴のように、黒妖犬が叫ぶ。立ち上がり、ぼろぼろの体で、光に向かう。けれど弾かれ、ぎゃん、という悲鳴を上げて倒れた。


「大好きだよ、ぼくの友だち」

『イヤダ……!』

「ずっと、一緒にいてくれてありがとう」

『イヤ、イヤダ』

「ごめんね。長い間、しばりつけてしまった」

『イヤダ……一緒、一緒ニイル。一緒ニ!』


 黒妖犬は、体のあちこちが焼け焦げていた。意識を保っているのももう、限界ではないかと思われた。それなのに、立ち上がる。ふらふらと立ち上がって、光に向かおうとする。


「もう良い。もう良いんだ」


 ジョン・セバスチャンは大地に膝をついた。光が一線を画している境界線のすぐ側に。黒妖犬は近づこうとして、

 倒れた。

 もがきながら、それでも立とうとする。青年は、首を振った。もう立つなと言いたげに。

 体が透けて、向こうの景色が見える。そんな儚い存在になってしまった青年は、それでも、しっかりと声を響かせていた。


「良いんだ。もう。これ以上、君を苦しめたくはない。頼むから」

『苦シク、ナイ。オマエ。オマエト。一緒ナラ』

「君をそうしてしまったのは、ぼくだ」

『苦シク、ナイ!』


 ぐるぐるとうなる黒妖犬に、青年は微笑んだ。


「ねえ、君。覚えておいて。

 君が、いてくれたから。ぼくの音楽は生まれた。

 君が、いてくれたから。ぼくの音楽は育った。

 そうして、ここに。終わることで完成した……ぼくは。これを生み出せたことを、誇りに思う」


 ふ、と。

 風が吹いた。

 アーモンドの花が散る。光に染まって。

 ピアノが揺らぐ。黒く、翼を広げた鳥のような形のグランドピアノの輪郭が。水面に映る影のように揺れて。

 彼の姿が。


「友よ。これだけは真実だ。君はぼくの宝。心の奥を照らす光だった」

『行……行クナ。行クナ……』



 揺れて。


『行ク、ナアアアア!』



 ざざざざあああああっ



 吹き過ぎる、風。

 花が散る。



 大好きだよ、ぼくの友だち。



 声は、風にまぎれて消えた。そして、光が。

 静かに光が、その場を照らす。




 誰もいなくなった、その場所を。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ