2.
静かだった。
ひらり、ひらりと花びらが舞う。
光に染まる、薄紅色のアーモンドの花。
翼を広げた鳥のように存在する、黒いピアノ。
その前に座る青年。
「長かった」
鍵盤から手を下ろし。
彼は目を閉じると、ささやくように言った。
「いや、短かったのか。君との日々は」
振り向いて、そこにいる黒妖犬に目をやる。穏やかな微笑みを浮かべて。
「君がいてくれたから、ピアノをあきらめずにすんだ。
君がいてくれたから、弾き続けることができた。
そうして……君がいてくれたから。ぼくは、この曲を弾き終えることができた」
『イヤダ』
ぼろぼろになった黒妖犬が、大地に横たわりながら言う。
「ピアノを弾くことは、ぼくにとって、世界に触れることだった。この指で世界を作り出し、その中で生きることでもあった」
青年は、自分の指を見つめた。
「その中で生きて、……そうしてこの世にまた戻る。ピアノを弾くとはぼくにとって、そういうことだった。美しい世界に浸り、ひとときそこで過ごし……戻ってくる」
青年は、息をついた。
「いつしか、戻らないでいられたらと願うようになった。この美しい世界の中に、ずっと。浸ったままでいることができたなら、と」
『イヤダ。イヤダ』
黒妖犬は、うずくまり、ただそう言い続けている。
「願うことは自由だが、……それをかなえようとしては、ならなかった。人間なら」
青年は、俺を見た。人と妖精の境目にいる存在である、俺という人間を。
「人間なら。そうだろう、そこの君?」
小さな足音が聞こえた。そちらを見ると、しびれを切らしたのだろうか。アーサーが駆けてくるところだった。ケルピーが、「ああ、忘れてた」とか何とか言って、俺の様子をちらりとうかがってから、子どもの方に駆け寄り、片手でひょいと抱え上げると、こちらに戻ってきた。
「どんな物語りにも、終わりはある」
視線を彼に戻して、俺は答えた。青年は微笑んだ。
「そうだね。どんな音楽にも、終わりがあるように」
「エンドマークのない物語りは、……物語りではない。それは、ただの。言葉の羅列になってしまう」
「最後の一音の響きが消える、その瞬間に。音楽は、演奏する者の手を離れて完成する。それがなければただの、まとまりのない、騒がしい音になってしまう」
「終わりがあるからこそ、それは生きる」
「終わることで。より美しく存在する命を得る」
ジョン・セバスチャンは、俺を見て微笑んだ。
「ぼくが願うべきは、ぼくの作り出した音楽を、完成させることだった。
それなのに、それを忘れ。ぼくは、ただ、美しい世界に浸り続けたいと思ってしまった……終わりの部分に向かわずに、何度も何度も、繰り返しをしてしまったんだ。まるで、輪舞曲のように。繰り返し、繰り返し……」
ため息をつくと、青年は黒妖犬を見つめた。
「ねえ、君。君はそんなぼくの願いまで、かなえようとしてくれたんだね」
『アアアアア!』
黒妖犬が叫んだ。どこか絶望に満ちた声だった。
「ピアニストであるぼくは、自分の音楽を終わらせなければならなかったのに」
『オマエ、悪クナイ! ゼンブ! ゼンブ、俺ガヤッタ!』
「君が悪いわけでもない。人と、妖精とは違う。それに目をつぶって、自分に都合の良い夢を見ようとした。
それが、ぼくの罪。そのために、君を長く苦しめてしまった。でも」
ピアニストの青年が、立ち上がる。
愛おしげにピアノを見つめ、そして。
かたり、と。
ピアノの蓋をしめた。
「ぼくの音楽は、完成した」
その言葉と共に。彼の姿が存在感をなくす。幻のように、頼りないものとなる。
『イヤダ! イヤ……俺ヲ、置イテ行クナ!』
悲鳴のように、黒妖犬が叫ぶ。立ち上がり、ぼろぼろの体で、光に向かう。けれど弾かれ、ぎゃん、という悲鳴を上げて倒れた。
「大好きだよ、ぼくの友だち」
『イヤダ……!』
「ずっと、一緒にいてくれてありがとう」
『イヤ、イヤダ』
「ごめんね。長い間、しばりつけてしまった」
『イヤダ……一緒、一緒ニイル。一緒ニ!』
黒妖犬は、体のあちこちが焼け焦げていた。意識を保っているのももう、限界ではないかと思われた。それなのに、立ち上がる。ふらふらと立ち上がって、光に向かおうとする。
「もう良い。もう良いんだ」
ジョン・セバスチャンは大地に膝をついた。光が一線を画している境界線のすぐ側に。黒妖犬は近づこうとして、
倒れた。
もがきながら、それでも立とうとする。青年は、首を振った。もう立つなと言いたげに。
体が透けて、向こうの景色が見える。そんな儚い存在になってしまった青年は、それでも、しっかりと声を響かせていた。
「良いんだ。もう。これ以上、君を苦しめたくはない。頼むから」
『苦シク、ナイ。オマエ。オマエト。一緒ナラ』
「君をそうしてしまったのは、ぼくだ」
『苦シク、ナイ!』
ぐるぐるとうなる黒妖犬に、青年は微笑んだ。
「ねえ、君。覚えておいて。
君が、いてくれたから。ぼくの音楽は生まれた。
君が、いてくれたから。ぼくの音楽は育った。
そうして、ここに。終わることで完成した……ぼくは。これを生み出せたことを、誇りに思う」
ふ、と。
風が吹いた。
アーモンドの花が散る。光に染まって。
ピアノが揺らぐ。黒く、翼を広げた鳥のような形のグランドピアノの輪郭が。水面に映る影のように揺れて。
彼の姿が。
「友よ。これだけは真実だ。君はぼくの宝。心の奥を照らす光だった」
『行……行クナ。行クナ……』
揺れて。
『行ク、ナアアアア!』
ざざざざあああああっ
吹き過ぎる、風。
花が散る。
大好きだよ、ぼくの友だち。
声は、風にまぎれて消えた。そして、光が。
静かに光が、その場を照らす。
誰もいなくなった、その場所を。