1.
雲間から、一筋。光が差していた
はらはらと。光が散る。
これは、桜……?
いや、アーモンドの花か。舞い落ちる白い花びら。
淡い薄紅に染まる白を、ゆるやかに舞い踊らせながら。
光が。
一つの場所を、指し示している。
ピアノ。
なめらかに磨き込まれた、黒い肌。ゆるやかな曲線と、しっかりとした直線。開いた蓋の形は、今にも飛び立とうとするかのような、鳥の翼を思わせる。
温かく、穏やかで、どこか懐かしい印象を与える、一台のグランドピアノ。
それが、彼方にある。
そうして黒妖犬の側には、幻のような黒髪の青年が佇んでいた。
ピアノを見つめながら。
その顔には憧れるような、夢見るような表情が浮かんでいる。
『……メダ』
うめくように、黒妖犬が言うのが聞こえた。
『ダメダ……見ルナ。ソレヲ、見ルナ』
振り返った青年が、ためらうような顔をした。けれど静かに、首を振った。
『最後の曲を、弾き終えないと』
『ダメダ!』
いつの間にか黒妖犬は、体を縮めていた。牛ほどの大きさがあったはずなのに、普通の犬ほどの大きさに戻っていた。毛並みは黒く、目からは炎が噴き出している。けれど。
なぜか、とても。弱々しく見えた。
『弾イタラ。オマエモ終ワル。終ワッテシマウ……!』
悲痛な叫び。
「小賢しいことを」
小さくトリスタンが言うのが聞こえた。気づくと俺は、トリスタンの腕の中にいた。どうも黒妖犬が飛びかかろうとした瞬間に、俺の腕を引っ張って、自分の方に引き寄せたらしい。
ちょっとでも掠っていたら、俺の命もなかった。だから、ありがたい。ありがたいのだが。
「トリスタン。かばってくれたことには感謝する。でも、いつまでやってるんだ」
「もう少し堪能させてくれ」
「離せ!」
ぼそぼそ言い合ってから、肘鉄をくらわせると、しぶしぶという感じで離してくれた。
「で、小賢しいってなんだ」
「あの犬妖精。最後の望みをかなえると見せかけて、成就する寸前に中断させた。
だから、あの人間の願いはかなわないまま。
体は人の世の理に従い、限界がきて滅びたが。魂はどこへも行けず、この世に留まり続ける羽目になったのさ。そうしておいて、自分の中に取り込んだ」
「契約違反じゃないのか」
「契約した相手が共にあり続けるのなら、続行中ということで誤魔化せる。条件である『願い』が成就していないのは、確かなのだからな」
小さく笑うと、白い妖精騎士は言った。
「決して望みを果たさせず、契約が終わらないよう画策し、魂を取り込んだ。
実に小賢しい。
猟犬程度の位階の妖精が、そのようなことを考えるとは」
「妖精王なら良いのか」
白い妖精の騎士は、含みをもたせた流し目をこちらにくれると答えた。
「王なら、相手が自ら、そう望むよう仕向けるさ。それでも逃げられることはあるがね」
「そいつらにとって、誘惑はお手の物だからな。気をつけろよ、タカシ。自分の意志を曲げられた挙げ句、都合の良いよう操られるぞ」
青年の姿に戻ったケルピーが、苛立たしげに言った。トリスタンはこの言葉に、唇の端を歪めた。
「言葉を交わすよりも先に、相手の腸を食い散らかすおまえに言われたくはないね、アンシーリーコート」
「意志を曲げた挙げ句魂刈り取るおまえらより、俺らの方がよっぽど真っ直ぐだ、糞シーリーコート」
「どっちも問題だから。どっちも困るから」
魂刈り取られるのも、ばりばり喰われるのも、当事者にとっては大問題だ。どっちが真っ直ぐだとか、そういう問題じゃない。
「なぜだ、タカシ。わたしの方が優しいだろう?」
「俺の方が、おまえをちゃんと見てやれるぞ。根性ねじくれてないからな?」
「俺にとっちゃ、どっちもどっちだよ。て言うか、今そういう事、話している時じゃないだろう」
黒妖犬とジョン・セバスチャンの間の緊迫感がわからないんですか、二人とも。
『友よ。ぼくは、弾かなければ』
黒髪のピアニストの姿が、陽炎のように頼りなく揺れて薄れ、またしっかりとしたものに戻る。それでもどこか、現実味のない幻のような姿だ。
『最後の曲が、終わっていない』
『行クナ』
『弾かなければ。それが約束だ』
『行クナ。行クナ。行クナァァァ!』
叫ぶと、黒妖犬は幻の青年に向かって飛びかかろうとした。
けれど触れる寸前に、何かに阻まれたかのように、弾かれた。
光が。
雲間から差した光が。青年を包んでいる。黒妖犬との間を阻むように。
それが壁となり、彼らを隔てた。
うをるるるるるるあああああっ!
吠えると、黒妖犬は光に向かって体当たりをした。何度も。何度も。
アンシーリーコートである彼には、清浄な光は毒だ。そのはずだった。
漆黒の毛並みは、光に焼かれて煙を上げた。
爪も、牙も、体当たりを繰り返すたびに、ぼろぼろになっていった。
それでも彼は、やめようとしなかった。
爪をたて、牙をむき、声を上げ、体当たりを続けた……何とかして青年に触れようと。
『やめろ。君が損なわれてしまう!』
見かねた青年が叫ぶ。しかし黒妖犬はやめない。
『やめるんだ、友よ!』
『嫌ダ。オマエハ、オマエ、ハ!』
傷つき、ぼろぼろになった黒妖犬が叫んだ。
『オマエ、俺ノ、キレイ、キレイ、ダイジナモノ。ズット、ズット、一緒。一緒ニイル。一緒ニイル!』
吠えた声は歪んで割れて荒々しく、お世辞にも美しいとは言えなかった。
それでも彼の叫びには。輝く何かがどこかにあった。
『もうやめろ』
『一緒ニ、』
『やめろ、体が燃えている!』
『一緒、ニ、イル』
二人を隔てる光の、ぎりぎりのところまで来て、ピアニストの青年は身を屈めた。
今やぼろくずのようになってしまった、彼の友の側に。
『友よ。ぼくたちは長らく、共にいた』
『オマエ、』
『君に支えられ、世界を弾いた。ぼくたちは、共にそれを成した』
『オマエ、オマエ、』
『ぼくはピアノで世界を語り、形作った。それは。君の支えがあったからこそ……君がいなければ。全ては始まらなかった。君がいたから。ぼくは、弾き続けることができたんだ』
『一緒、……一緒、ニ』
『一緒にいたい』
青年は、肩を落とした。
『君と一緒にいたい。けれど。それでも、音楽がぼくを呼んでいる。呼んでいるんだ』
『イ ヤ ダ!』
黒妖犬は叫んだ。
『俺ヲ、置イテ行クナ……!』
悲痛な叫びだった。
置いていかないで。
それはあらゆる妖精たちが、愛した人間の死を前にして、叫んだであろう言葉。
人の魂は、天に行く。
妖精は、地上に残される。
ばあちゃんが。
じいちゃんに向かって叫んだ言葉。
俺が。
俺もまた。
じいちゃんに向かって叫び。
そうしていつかは。トリスタンから。ケルピーから。知り合った妖精たち全てから。叫ばれるであろう、言葉……。
『これも、一つの結末だ。』
トリスタンの言葉を思い出す。
『せめて一緒に消滅させてやるのが、慈悲だと思うけれどね』
ああ、これも。確かに、一つの結末だ。妖精の観点からするなら、共に滅ぼしてやるのも、確かに慈悲だろう。
人間の魂に焦がれた妖精と、
その妖精に心惹かれた人間。
互いの思いによって結びつき、絡まりあった二つのもの。引き離せば、
二度ともう、出会えない。
それが……お互いにも、良くわかっている。
それでも。
「ジョン・セバスチャン」
俺は小さく息をつくと、背筋を伸ばした。意識して、腹の底から声を出す。
「人と妖精の血を受け継ぎ、境界に立ち続けた者。同じ立場の者として、告げよう」
一歩、前に進み出ると、ピアニストの青年と黒妖犬、双方が俺を見た。
黒妖犬。俺を恨め。
おまえの叫びを知っている。
おまえの嘆きも知っている。
それでも俺は。この言葉を口にする。
「契約は、成就されねばならない」
が、ががああああっ!
吠え声を上げた黒妖犬が、俺を威嚇する。ケルピーがす、と俺の側に立ち、トリスタンもまた、俺の横に立った。
『君の心には、涙がある』
幻の青年が俺を見て、言った。
「知っているから」
『そうか』
「俺も、いずれは選択せねばならない」
『そうだな。迷いはないのか』
「迷っているよ。いつだって。人間だから」
俺の声音にこめられた、何かに気づいたのか。幻の青年は、小さく笑った。
『そうか』
「それでも、ジョン・セバスチャン。あなたは」
俺は、ぼろぼろの体で地に伏せて、なおも青年を守ろうと威嚇を続ける黒妖犬を見た。
その側で、触れたくとも触れられない、彼を案じながら光に包まれている青年を見た。
しんと静まって、彼方にあるピアノを見た。
横に立っていてくれる、アンシーリーコートとシーリーコート、二人の妖精の青年の気配を感じながら。
「あなたは、弾いて。終わっていない曲を、終わりにしなければ。そうして、彼を解放しなければならない」
その瞬間。全ての音が消えた。
俺の言葉は、静まり返った世界に響いた。
何かが。
何かが、……小さく。
ぱきり、という音をたてて壊れ、
解放され。
自由にされた。
「ああ。そうだ」
ピアニストの青年の姿が、鮮明になった。幻ではなく、肉を持って世界に存在するものとなる。
「ぼくは、弾かなければ」
『行クナ!』
黒妖犬が叫んだ。けれど。
ピアノが。
彼方にあったはずのピアノが。
立ち上がった青年の、すぐ側にあった。
振り向いた、彼の。目の前に。
『行クナ。行クナ……』
音もなく、ピアノの蓋が開く。
立ち上がった青年が、その前にある椅子に腰かける。
それは、まるで。
『俺ヲ。置イテ、行カナイデ……ッ!』
一つの、完成された魔法のような光景。
その中心にいる鍵となるべき青年が、ふと、こちらを見る。黒妖犬に向かって微笑んだ。
「友よ。君のためにこの最後の曲を贈る。ぼくは、君を解放しよう」
絶望にも似た叫びを黒妖犬が上げ。
そして、
最初の音が響いた。
なんと表現すれば良いのだろう。それを。その現象を。
雲間から差す光のように。
舞い落ちるアーモンドの花びらのように。
水面に広がる輪のように。
透明で、優しい音が連なって、
彼の指先から生まれ出る。
三連符。
祈りの音。
その音で彼は、世界を作る。世界に作られながら。
その音で彼は、全てを生み出す。全てから生み出されながら。
全てが動きを止めて、その音に聞き入る。
全てが頭を垂れて、その音楽に聞き入る。
彼は音楽を生み出す者であり、
音楽そのものであり、
祈る者であり、
祈りそのものでもあった。
静謐で、透明な音は続く。
豊かに、豊かに。全てを愛し、全てに愛され。祝福し、祝福されながら。
これが、人。(これが、妖精)。
これが、境界にあるもの。(これが、どちらの世界にも立つもの)。
人でありながら、妖精と心を同じくし、
妖精に近しくありながら、人の世で育てられ、花開いた。
人と妖精の狭間に立って、そのどちらをも拒絶することなく、
愛し、愛され、育み、育まれた、
一つの存在の、生きた証。
願いにして、祈り。
苦しげに、黒妖犬が身じろぐ。
光は彼の体を焼き、音楽は彼を打ちのめしていた。それでも、彼は顔を上げていた。
彼の愛した青年の姿を、その目に焼き付けようとでもするかのように。
遠く離れた所では、アーサーがこの全てを見ていた。
少年には、何が何だかわからなかった。
黒妖犬は恐怖そのもの。それに囚われていた青年は、解放されるべき存在。そのように見えていた。だが。
なぜだろう、と少年は思った。
黒妖犬の姿が、泣いているように見えるのは。
音が広がる。
世界が広がる。
祈りが広がる。
広がった音は、世界は、祈りは、
やがて、収束に向かう。
終わりに向かって。
始まったもので、終わらないものはない。
奇跡のようなこのひとときも、終わろうとしていた。
青年の手が動く。ピアノの鍵盤を指が叩く。その動きが。
最後の和音を弾いて……、
止まった。