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妖精の輪と時のロンド〜妖精たちのいるところ  作者: ゆずはらしの
あふれ出たものは。~願ったものは、何。
30/45

2.

 光が走る。トリスタンが、いつのまにか構えた弓で矢を放ったのだ。輝く矢は、黒妖犬の前足二本を、正確に大地に縫い止めた。



『ゴガ、ガア、ガガガアアアアッッ!』



 叫びがあがる。その間にトリスタンは俺の腕をつかみ、素早く後ろへ下がった。

 自分が相手に気を呑まれ、立ち尽くしていたことに、その時ようやく気づいた。

 黒妖犬は刺さった矢を、くわえて引き抜くと、かみ砕いた。光が散って、矢が消滅する。

 ぼこり、ぼこりとその間も、体は歪み続けていた。彼に重なる青年の、悲鳴に似た叫びと共に。



『グガアアアアアアア!ゴア、ガアアアアア!』



 しゃがれ、つぶれた喉から、大地を震わせるような叫びを上げる。

 その姿に合わせて、文字がぶれるように浮かび、光った。ドイツ語。

 バッハのカンタータ。コラールの一節。

 それと同時に、俺の脳裏に何かが閃いた。口が動く。舌が動く。言葉が、勝手にあふれ出てくる。

「それを捕らえ、同時に囚われ」


 はしばみの妖精がくれた力。さっき、俺が口にした言葉。


「囚われたものが助けを求め、捕らえたものも助けを求めた」



『ヨコセ』



「螺旋の夢」

「時の輪。描かれる輪は、終わりなく続く」



『オマエノ、タマ、シイ』



 ああ、この歪み。この澱み。

 この狂った音楽は、輪を描き続けている。

 繰り返し。繰り返し。

 閉じることなく。終わらない歪みを、世界に撒き散らし続けている。

 終わることが、できないのだ。



「それは光。それは闇」

「それは命。それは死」



『ヨコセ』



「捕らえたものは囚われ、囚われたものは捕らえ」


『ヨコセ』



「輪は歪み、歌は歪み、」



『ヨコセ』



「解放を求め、囚われ続ける事を求め」



『ヨコセ』



「生を求め、死を求め続けている」



『ヨコセ。ヨコセヨコセヨコセ、タマシイ、ヨコセエェェェッッッ!』



 なあ、黒妖犬モーザ・ドゥーグ

 なぜ俺の魂なんだ……?

 巡らせた視線が、遠くで青ざめているアーサーの姿をとらえた。


「同じ」


 光のように、言葉が閃く。


「同じ。同じ立場だ。われらは」

「妖精の血を引き」

「妖精に愛された」

「人でありながら、妖精に近しい存在」

「だから、」


 取り替えチェンジリング


 良く似た、けれど全くちがう二つのものを、取り替える。妖精が良くやること。

 生を求め、死を求め。

 解放を求め、囚われ続ける事を求めた。

 矛盾。

 妖精に矛盾は、致命的な毒だ。

 だから歪んだ。

 その歪みを安定させるためには。矛盾を解決するためには。

 もう一人分の死が、必要だった。


「俺の魂と彼の魂を入れ換えて、勘定を合わせようとしたのか」


 ジョン・セバスチャンは死んだ。しかし魂は地上に残った。

 黒妖犬が自分の中に取り込んで、留めてしまったのだ。

 これが妖精王クラスなら、ままある事だ。手順も、後の対応も、どうにかするし、どうにかなる。ほめられた事ではないが。

 しかし今回、それをやったのは黒妖犬だった。魂の狩人ではあるが、魂を留めることなど、本来はできない存在。

 無理を押しての行動は、歪みを生じさせた。

 死の数と、魂の数の釣り合いが、取れなくなった。小さなものではあるが、それは世界の秩序を、確実に乱した。……これが、一つ目の歪み。

 人間は、相反する願いを持つ存在だ。

 妖精が、一つの意思、一つの契約で出来上がる力の塊であるのと違い。人間は常に矛盾を抱き、矛盾することで世に存在を続ける生き物だ。

 そんな矛盾しない存在の内に、矛盾する魂が取り込まれた。

 狂わない方がおかしい。……これが、二つ目の歪み。

 この二つの歪みから、黒妖犬は、自分自身の存在自身をも歪めてしまった。

 ことわりから外れ、際限なく歪みを撒き散らす、『全てを無に墜とすもの』になってしまったのだ。

 こうなった妖精は、世界そのものから、存在を許されなくなる。何らかの形で、消滅させられる。この場合も黒妖犬が消滅すれば、世界はバランスを取り戻し、起きた歪みも正されただろう。

 しかし、彼は抗った。

 自分のためではない。おそらく、自身の内に抱えた青年の魂のために。

 元々、妖精の血を引いていた青年だ。生きていた時から、そのあり方は、妖精に近くもあった。取り込まれた事で、ジョンの魂は、より妖精に近づいたのだろう。

 もし黒妖犬が消滅すれば。巻き込まれてもろともに、消滅しかねないほどに。



『もう良い……、もう良いんだ。友よ。お願いだ、もう、苦しまないでくれ!』



 ジョンの叫びが聞こえた。青年は、歪み、叫び声を上げる黒妖犬にすがりつくようにして、その体を抱きしめていた。



『君を失いたくはない、手を取ってしまったのはぼくだ! 頼む。もう、やめてくれ!』

『ガガガアアアアアアアッッ!』


 

 おそらく黒妖犬は、必死で考えたのだろう。

 どうにかして、ジョン・セバスチャンの魂を守りたい。

 だからもう一人、誰かの魂を刈り取らねばならなかった。死の数と、刈り取られた魂の数を、合わせねばならなかった。

 ジョンの魂にきわめて近い人間。

 妖精の血を引き、妖精に愛される。そんな人間を探し、死と魂の取り換えを行おうとしたのだ。


「そうまでして、彼を離したくはなかったのか、黒妖犬モーザ・ドゥーグ


 歪み、狂い、自身の存在そのものを危うくしながら。

 彼の魂を、手放すことができなかったのか……?


 びきびきと、大地にひびが走る。黒妖犬は体を膨れ上がらせた。



『オマエ、オマ、エ、オマエノ、魂、』



 ぼこっ、と体の一部が崩れ、また元に戻る。



『喰ッテ、喰ッテ、……タス、助ケル、俺ノ、俺ノ、ダイジ、ダイジ、宝、宝物、オ、オ、オオオオオオオオ!』

『もう、やめてくれ、友よ!』



 歪み、崩れる黒妖犬の体を抱きしめるようにして、ピアニストの青年が叫ぶ。


「トリスタン、伴奏!」


 叫ぶと俺は、黒妖犬の体から消えようとする文字に音を乗せた。

 歌を。

 彼が最後に、弾きたかった音楽を。



「Wohl mir, dass ich Jesum habe,(なんと幸せなのだろう。イエスはわたしのもの、)

 o wie feste halt ich ihn,(わたしは彼を、固く抱きしめる。)

 dass er mir mein Herze labe,(彼は、わたしの心を生き返らせてくれる。)

 wenn ich krank und traurig bin.(わたしが病める時にも、悲しみの底にある時にも。)

 Jesum hab ich, der mich liebet(わたしはイエスのもの、彼はわたしに愛を与えてくれ、)

 und sich mir zu eigen gibet;(自分自身をも、わたしに与えてくれた。)

 ach drum lass ich Jesum nicht,(ああ、だから、わたしはイエスを離さない。)

 wenn mir gleich mein Herze bricht.(わたしの心が、壊れ果ててしまおうとも、決して)」



 呪縛。

 この歌もまた、呪縛のひとつ。そして、

 ジョン・セバスチャンが最後の一曲を、弾き終えることができなかった理由……。


『ガ、ガ、ガガガガガガ……ッ!』

『あああああ!』


 黒妖犬の体の歪みがひどくなり、青年の幻にもひずみが生じた。苦しみにどちらも悲鳴を上げる。

 大気に文字がきらめいた。響く狂った音楽。途切れないそれ。

 狂いも歪みも終わらない。止まらない。

 広がり続ける歪みの輪。拡がり続ける狂気の渦。

 これではないのか?



「違う」


 俺の舌が動いた。


「これじゃない……」



 大気が光った。大地から、螺旋を描く光が立ちのぼった。

 小さなものだったが、確かに光があった。

 それが俺に、何かをささやく。


「そう、これじゃない……、トリスタン! もう一度だ。弾いてくれ」

「もう一度?」


 俺の注文に答えて竪琴で伴奏してくれていた妖精騎士が、首をかしげる。


「この歌じゃない。これじゃなかったんだ。俺が歌うべきものは……」


 バッハのカンタータ147、『心と口と行いと生きざまもて』。

 歌でつづられる、聖母マリアの物語。

 その中のコラール、合唱曲。

 『主よ、人の望みよ喜びよ』というタイトルで、良く知られている。ピアノやその他の楽器用に編曲され、様々な場所で演奏されている。

 そのコラールは、カンタータ147の中で実は、二つある。同じ旋律で、歌詞だけ違うものが。

 カンタータの一番最後に歌われる、それ。その曲を持って、全てが閉じられる。


「ジョン・セバスチャン。あなたのピアノはどこにある?」


 大気のよどみがひどい。頭ががんがんと痛む。悲鳴のような狂った音楽は、いまだ響き続けていた。それに負けないよう、足をふんばって立ち、俺は声をかけた。青年の幻が、苦しみながらこちらを見るのがわかった。


「輪を閉じるんだ。あなたの最後の曲を、終わりにしよう」



『ゴ、ゴ、ガ、ガア、アアアア!』



 叫んで、黒妖犬が跳躍した。俺に向かって。


 どん!


 身を固くした瞬間、横から飛び出してきた黒い影が、俺をかばった。体全体を使って、黒妖犬を押し返す。


「ケルピー!」

『俺ってカッコイイ?』


 馬の姿で四肢を踏ん張り、押し退けようとする黒妖犬を力で押し返しながら、ケルピーはこちらを流し見、にやりとして言った。


『ふんぐぐぐ! この程度で俺に勝とうとは、千年早ぁいッ! カッコイイって言ってくれよ、タカシ』

「あ、ああ、カッコいい、カッコいい。アーサーはどうしたんだ」

『そのガキに言われたんだよ、おまえを助けてくれって』

『ガ、ガアアアアアア!』


 黒妖犬とケルピーは、力比べのような状態になっていた。両者とも全身の力を使って押し合い、相手の隙をつこうとしている。


『俺のタカシに触ろうだなんて、許さんからなあっ!』

「いや、おまえのじゃないから」


 思わず突っ込んでしまった。


「そうとも。タカシはわたしのものだ」

「おまえのでもないから」


 トリスタンの言葉にも、脱力しそうになりながら突っ込んだ。何だってこう自分の所有権を、出会う妖精、出会う妖精、みんなから主張されなきゃならないんだ。


『ふんぬ~~~~っ、んぐぐぐぐぐっ!』

『ゴア、ゴアアアアアア!』


 とりあえず、ケルピーは聞いていないようだ。黒妖犬も。


「トリスタン、竪琴」


 俺が言うと、彼は応じて弾き始めた。


 カンタータの最後のコラール。

 ジョン・セバスチャンが弾き終える事ができなかった、彼の生涯での最後の曲。

 この曲が、ねじれた呪縛の鍵になっていた。

 教えてくれ。

 大気よ。大地よ。

 流れる水よ。燃え上がる炎よ。

 輝く日の光よ。静かなる夜の闇よ。

 世界よ。俺に教えてくれ。

 ねじれにねじれた、結び目をほどこう。

 真実の目よ。榛の妖精の、知恵の実よ。

 俺の舌に、力を与えてくれ。



「Jesus bleibet meine Freude,(イエスはずっと、わたしの喜びのままであるでしょう。)

 meines Herzens Trost und Saft,(わたしの心をなぐさめ、うるおし、生きる力を与え続けてくれるでしょう)」


 俺が歌い出すと、黒妖犬がびくりとした。重なる青年が、何かを見つけたかのような顔になった。



「Jesus wehret allem Leide,(イエスはわたしのために、すべての悲しみに立ち向かってくれる。)

 er ist meines Lebens Kraft,(そのゆえにわたしは、彼から生きる力を与えられる)」



『ヤメ、ヤメ、ロ』

『続けて……ああ、続けてくれ!』



 トリスタンの竪琴の音が響く。竪琴でピアノの三連符を表現するのは難しいのじゃないかと、今さらながらに思ったが、彼は苦ともしていない。

 いきなり、狂った音楽が強くなった。トリスタンの竪琴の音を消し去ろうとでも言うかのように、陰々と響きわたる。

 音は、俺を痛めつけた。その響きで。その狂気で。

 ああ、畜生。頭が痛い。目が回る。足に力が入らない。ふらふらだ。

 でも体の奥から。熱が。

 光が、溢れ出て。俺の喉を、舌を動かしている。



「meiner Augen Lust und Sonne,(わたしの目には、彼は太陽。そのように輝かしい。)

 meiner Seele Schatz und Wonne;(わたしの魂には、彼は宝。そのように喜ばしい)」



『アアア、ガアアア……ッッ、』



 黒妖犬が苦しみもだえ、大地を前足で引っかく。地割れが起き、土煙が上がる。



『ヤメロ、ソレヲ、ヤメ、ロ!』

『続けてくれ! 続けてくれ、たのむ!』



 幻の青年が、苦しむ黒妖犬を抱きしめる。暴れるそれに、必死でしがみつきながら叫ぶ。

 大気が重くなった。俺の体に鎖のように巻きついて、動きを止めようとする。喉を締めつけようとする。狂った音楽が、さらに力を増してこの世界を染め上げようとする。

 ああ、でも。

 ごうごうと嵐のように響く、その音よりも。

 俺の中からあふれ出る、歌。



「darum lass ich Jesum nicht,(だからわたしは、イエスを離さない)」



『イヤ、イヤダ、イヤダ、イヤ、ダァァァァ!』



 叫んで、黒妖犬が膨れ上がった。

 目から噴き出す炎は周囲全てを焦がし、咆哮は大地を揺るがした。そのまま黒妖犬はケルピーに体当たりをすると、彼をはじき飛ばした。

 向かってくる。

 俺に。

 その爪で。その牙で。命を刈り取ろうと。

 ……歌を、止めようと。


 ケルピーが何か叫んだ。アーサーが悲鳴を上げた。

 熱気が迫る。凄まじい冷気と共に。炎を噴き出しながら全てを歪める、黒い妖精が間近に迫る。

 そうして、俺に手を伸ばし……、

 触れる、その前に。最後の一節が完成した。


「……aus dem Herzen und Gesicht.(面を彼に、心を彼に向け続けるのです)」




 ぱきん。




 何かが、砕ける音がした。

 全てが止まった。黒妖犬も。狂った音楽も。大地を染め、大気すら支配下に置いていた歪みも。

 止まり、……、そして。



 光が差した。


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