1.
一年ぶりです。長らく放置ですみませんでしたm(__)m
静かだ、と思った。
見下ろしたその時。
同時に、何かを聞いた。
音。
旋律。
ピアノの、曲……。
繰り返す旋律。
終わらない曲。
歪む。
その音が、歪む。
「なぜ、」
繰り返す旋律。響く音。
何もかもが歪む。
ピアノが。音が。旋律が。三拍子の音楽は、うめきに似た響きに変わって繰り返す。繰り返す。
繰り返す……。
そうして、俺は見た。
黒い犬の姿をした妖精。そのかたちに重なって、
歪み、苦しむ青年の姿。
ぼこり。
ぼこ。
ぼこり。
不自然に、黒妖犬の姿が歪んだ。あちこちがねじれ、膨れ上がり、またへこむ。
ぼこり。
ぼこ。ぼこり。
ぼこっ……。
響く旋律。
歪む意味。音。
これは、何だ。
なぜこうも、歪む……。
『……』
『……、……』
歪みに合わせて、『彼』も何か言っている。背を丸め、腕を地に立て、立ち上がろうとでもするかのように、もがきながら。
黒妖犬の歪みに合わせて。
響く、狂気に歪む音楽に合わせて。
どちらも、苦しみながらもがき。
何かを手に入れようとでもするかのように、互いの存在を重ね合わせて。
苦鳴を響かせあい、共有している。
ぼこ。
ぼこっ……。
『……、……!』
見ていると、胸が痛んだ。
なぜだろう。
なぜ、俺はこうも、悲しいのだろう。
「これも、一つの結末だ。妖精と人間との」
背後に、歩み寄ってくるトリスタンの気配。静かに言う、彼の声が聞こえた。
「終わりにしてやるのが、慈悲ではないか?」
「だめだ」
俺は首を振った。
「だめだ。何か。まだ……何か、」
「何かできると言うのか。これに」
トリスタンが、俺の横に立つ気配がした。
「選んだのは、これらだ。おまえが嘆く事ではない」
「嘆く……?」
「泣いているではないか」
そう言われて、目元を指で触れると、濡れていた。そこで初めて気がついた。自分が泣いていた事に。
「あ……? 俺?」
ぼこり。ぼこっ。
ぼこっ……、
その時。
顔を上げた、黒妖犬の燃える目が。
俺を見た。
ごぽっ……、ごぼごぼごぼごぼっ。
「タカシ。離れろ」
トリスタンが、俺の腕をつかんだ。
「何か起きる」
引きずるようにして、俺を穴から遠ざけようとする。その瞬間。
ぎいんっ。
つんざくような音が響いた。
ぃぃぃぃいいいいいいいいいいんっ。
音は大気を裂き、世界を裂き、そこにあった全てを引き裂かんばかりの悪意を持って、広がった。穴の底から。
黒妖犬の元から。
トリスタンが、有無を言わさず俺を抱き上げた。跳躍し、一気に距離を取る。半ば無理やりな形で俺は、穴から離れた位置に移動させられた。
文句を言う暇はなかった。
次の瞬間、
歪みの音楽が、膨れ上がったのだ。
『グオウルルルアアアーアアアアアアーッ!』
黒妖犬が叫んだ。叫びは地の底から、波のように大気を揺らした。
力。
ただ、純粋な力が。その叫びには込められていた。
そうして、歪みが大地を染める。
穴の底から。じわりと滲み出し、周辺の土地を黒く染め上げてゆく。
狂った音楽が怒濤のように、そこからあふれ出した。
「なんと醜い歪みだ」
トリスタンが言う。俺は、耳をふさいだ。
「なんだ、これ……なんなんだ、この、叫び」
音が俺を呪縛する。歪みが俺を狂わせようとする。
叫びは音楽であり、呪いであり、悲鳴であり、怒りであり、
全てを破壊し、無に帰そうとする力でもあった。
めまいがした。
意識がぶれて、吐きそうだった。
泣き叫んで、助けを求めたい。同時に、怒りに身を任せて、全てを壊したいという衝動にかられた。
だめだ。
こんなものに、流されてはだめだ。
『ガ、ガ、ガアアアアアアア!』
黒く染まった大地が、またたく間に枯れてゆく。緑も、何もかもが枯れて、どろりとした黒に変じる。
黒は、歪みに合わせて脈動する。狂気を帯びた三拍子の曲に合わせて。
「人の身に、この歪みはきつい。もう少し離れよう」
「いや、待って。アーサー!」
俺は慌てて、周囲を見回した。アーサーはどこだ?
俺でさえ、こんな状態だ。あの子はどうなる。
「ケルピー! アーサーを安全な場所へ!」
水棲馬の姿を見つけると、彼は平気な様子で、黒く染まる大地を見ていた。けれど、アーサーはそうはいかなかった。真っ青になって膝を崩し、耳をふさいで、がくがくと震えている。
彼にも聞こえている。影響を受けているのだ。この歪んだ音楽。怒りと破壊の狂気に。
「あー? ちっ。弱っちいな、人間は。この程度の『歌』でもう、ひっくり返ってんのかよ」
ケルピーは、アーサーの様子に気づくと、馬の姿に変わり、ひょい、と子どもをくわえ上げた。そのまま走り出す。かなり離れた場所に連れて行ってから、ぽい、と放り出すのが見えた。
「大丈夫かな」
「多少はきつかろうが、あれだけ離れれば、何とかなるだろう。あの子どもには一応、わたしの守りもある」
吐き気と頭痛をこらえつつつぶやいた俺に、トリスタンが答えた。
「それより、君も。もう少し離れるよ」
「待って」
俺は、トリスタンの腕をつかんで止めた。
歪みが。
黒くにじみ、大地を染めるそれが。
ゆるりと、広がって……、その先には。
「榛の木が……!」
俺に知恵を与え、祝福をくれた榛の妖精が住む木。
生を刈り取り、汚染する黒の行く手に、逃げようもなく立っている。
このままでは、あの木は飲み込まれてしまう…!
「止めないと……!」
「どうやって?」
冷静に、トリスタンが言う。
「君に、何ができると言うんだ、タカシ」
何が。
俺に、……何が。
「君にあるのはただ、真実を見抜く目だけ。わたしに守られなければ、己が命を保つ事もできない。そんな君に、ここで何ができると言うのだね」
トリスタンの言葉が、突き刺さる。
そうだ。俺に何ができる。
やったのはただ、そこにあるものを見ただけ。
それで、何かが変わったか。
何かできた事があったか。
何もない。
事態を悪くしただけじゃないか……!
「逃げて良いんだ、タカシ」
トリスタンがささやいた。
「わたしに守られていろ。そうすれば、何も見ずに済む。悲しみも、苦しみも」
逃げる。
逃げてただ、守られる。
そうだ。
その方が、どれだけ楽か。
俺は、震える手で、トリスタンの胸元にすがりついた。狂った音楽が、まだ続いている。つらい。苦しい。
目が回る。吐き気がする。
頭が。割れるように痛い。
体から力が抜ける。
逃げたい。
逃げ出してしまいたい……!
「……っとに、」
「タカシ?」
「んな時に誘惑しやがってこの、……鬼畜破廉恥妖精が~~~~っっっ!」
ごがんっっ!
目から火花が出た。ぐっ、とか何とか言う声が聞こえ、ゆるんだ腕を俺は振り払い、地面に転がり落ちた。
「った~っ……」
痛む頭を抱え、涙目で振り仰ぐと、トリスタンは顎を抑え、なぜか笑っていた。
「頭突きかね」
「なに笑ってるんだ」
「痛くてね」
「やっぱりMか、おまえ」
「この状況でも、なお抗う……素敵すぎるよ、君。今なら手に入ると思ったのに……」
くっくっ、と笑いながら、顎をさすっている。畜生。頭痛い。こぶになってるぞ、絶対、これ。腰も打った。打ち身だらけだ、ああもう!
「俺に何もできないのは、わかってる。でも、できる事だってある。馬鹿みたいな事でも、意味がないように見えても。それが、俺のなすべき事」
余裕な相手に腹が立ち、揺れてしまった自覚のある自分にも腹が立った。あの時、逃げたいと思った。楽な方へ流れてしまいたいと、俺は思ってしまった。
今やるべきは、そういう事じゃない。やらなきゃならない事が、あるだろう!
だから叫んだ。トリスタンを睨み付けて。
「俺は、それをする。邪魔をするな!」
「やると良いよ」
トリスタンは、微笑むとそう言った。
「君の言う、君のなすべき何かを。それに何か、意味があると言うのならね。わたしは誘惑をし続けるけどね」
「するなよ!」
「それは無理な相談だ。君は、誘惑されるべくして生まれた存在だからね」
「そりゃ、おまえの考えだろ! 俺は普通の人間だ!」
「君のどこを見れば、『普通』の『人間』なのだろうねえ……」
「どこもも何も、全部普通だろうが、俺は!」
呆れたような顔をされた。
その間も、歪みは大気を、大地を汚染し続けていた。ぐうっ、と全身が押さえ込まれるような圧迫感が生じたかと思うと、どぷ、と何かが穴からあふれた。
『ヲルルルオオオアガガガァァァ!』
ざしゅ、と音を立てて鋭い爪が大地に突き刺さり。
黒妖犬の前足が片方、穴の底から現れる。続いてもう一方の前足も。
すぐに頭が現れた。
黒々とした毛並みを、ぼこり、ぼこりと歪ませながら、牛ほどの大きさの犬の姿の妖精が、
燃える炎を目から噴き出しながら、這い上がってくる。
ぼこり。
ぼこ、ぼこり。
『……!』
その姿に二重になって、青年の姿が見える。顔を歪め、苦しげに叫ぶピアニスト。
悲しい、と思った。
黒妖犬も、ジョン・セバスチャンも。
怒りと叫びに満ちているのに。
世界を汚染し、変質させ、狂気に巻き込んでいるのに。
それでもなお、彼らは苦しげで……悲しい存在だった。
何を間違えた?
歪む。歪む彼の魂。歪む妖精の存在。
二つのものが絡み合い、逃げられない形で歪み続けている。その姿。
悲しい。ただ、悲しい。
どうして、と思う。
始まりは、こんな風ではなかったはずだ。
俺が見た、彼らの記憶。最初は、ただ。優しい心の触れ合いだったはず。
それがなぜ。
彼らは、何を間違えた。一体、何が悪かったと言うのだろう。
ぼこっ、……ぼこり。ぼこっ……。
『……、……!』
『ヲ、ア、ア、ルルルウオオオオアアアッ』
黒妖犬が穴から、完全に姿を現した。全身をひっきりなしに歪ませ、陽炎のように力を放出しながら、穴から飛び出す。大地に爪を立てるようにして四本の足で立ち、ふるりと全身を震わせる。
破壊の衝動を秘めた炎を、目から噴き出しながら。
その目が。
ひたり、と俺に向けられる。
『ヨコセ』
歪み、へこみ、膨れ上がり、どろどろと輪郭を崩しては、また戻りながら、黒妖犬はうなった。
『オマエノ、タマシイ、ヨコセ!』
お互いを思い合う、優しさから始まったもののはずなのに。
一年前、十年以上一緒に暮らした犬が、突然の病に倒れ、亡くなりました。その後、大学に入る事となり、ばたばたとしておりました。
今になって、コメディを書く余裕が、ようやくできました。……コメディだよね、この話。
このまま、完結まで持っていきます。