4.
やっと更新できました。間があいてしまい、すみませんm(__)m
何かが響いてくる。目の前の青年から。
俺の中の何か。彼の中の何か。
それが響き合っている。
ああ、と思った。彼は。
「これほど世代を経ながら、強く現れたものだ」
トリスタンがつぶやいた。俺が目線を彼に向けると、妖精の騎士の瞳が一瞬だけ淡く金色に染まって見えた。けれど見直すと、元通りの薄桃色だった。
「ほとんどが人になりながら、そこにある一しずくが我らに響く。おまえ、元々、魂の半分以上が我らの側にあったな。人間であった頃から」
「元々……?」
俺はつぶやいた。トリスタンは俺に視線を流した。
「わかるだろう?」
わからない。
いや、わかる。彼は。
「ぼくは人です。人でした」
青年が言う。トリスタンは皮肉げな笑みを浮かべた。
「それに異を唱えるつもりはない。その姿は死んだ時のものか? よくその歳まで生き延びたものだ。こうも強く我らの特徴を備えた人間が、人の世で成人できたとは珍しい」
彼は。
俺と同じだ。
「音楽に魅せられたか?」
「そうかもしれません」
「それで妖精を魅了したか。人の子の魂の輝きで」
「ぼくにはそれは、わかりません。ただ、ピアノを。ぼくはただ、ピアノが弾きたかった……」
トリスタンは小さく笑った。
「単純な願いほど、力を持つものだ。黒妖犬を手放せないのも、それでだろう」
「なぜぼくは、彼を手放せないのでしょう」
「私が答える問いではないな。答を知っているのはおまえ自身。他に答えられる者はいない……いや」
トリスタンは俺を見た。
「君ならばわかるか」
「俺?」
俺はまばたいた。何を言っている? するとトリスタンは言葉を継いだ。
「君は彼と同じ立場にある。われらの血を継ぎ、人の心を持つ。そうして真実を見抜く目と、今は舌をも持つ。君の目に彼は、どう見える?」
俺の目にどう見えるかって……?
視線の先にいる青年は、一見、人に見えた。
けれど不自然な揺らぎがあった。明らかに。
「二重になっている」
俺の目には、彼の内側にある炎が見えた。白と黒。絡み合う二つの炎が、いびつな球体となっている。一つはおそらく、彼の魂。白くありながら、濁った色を時に見せる。一つはおそらく、黒妖犬自身。黒く燃え上がり、純粋な輝きを見せる。
ぶつかり合っているように見える。
食い合っているようにも見える。
それでいて、すがり合い、支え合っているようにも見えた。
終わりのない輪。螺旋の夢。永劫の囚われ人。そんな言葉が脳裏に浮かんだ。囚われているのは、どちらなのだろう。人か。それとも妖精か。
「あなたは何を願っているのですか。願った事は、ピアノを弾く事だけだった?」
もう一度、俺は問いかけた。彼は目を閉じた。
「そのはずだった」
白い炎がきしむように歪む。
「けれど。弾けなかった」
「黒妖犬に触れられて、そのまま?」
彼は目を開けると、ゆるゆると首を振った。黒い炎がぱっと弾けて、白い炎は持ち直した。
「いいや。ぼくはもう一度弾く事ができた……ピアノを。彼はぼくに、自分自身を与えてくれた。死ぬはずだったのに、もう一度だけ、ピアノの前に座り……腕を。指を。動かす事ができたんだ」
「ではなぜ」
「わからない。覚えていないんだ。ただ、」
彼は自分自身の手を見下ろした。
「ぼくは、最後の一曲を弾き終えていない。それだけは覚えている。だから、……離せない。彼を」
「最後の一曲……」
「バッハのカンタータ147。ヘスの譜」
彼は夢見るような表情になった。
「美しい螺旋。彼の為に最後の曲を弾いた。そのはずだった。あの旋律がきらめいていた事を覚えている。ぼくの心は喜びにあふれた。彼の為に最後の曲を、奏でる事ができてうれしかった。けれど……」
「けれど?」
「気がついたらここにいた。そうしてあの曲は、終わっていないんだ」
白い炎が歪む。きしんで。その色彩が堕ちる。くすんで。
黒い炎が揺れる。輝いてゆらめく。どこか必死な様子で。
黒い炎は抱きしめるかのように、白を支える。白い炎はすがるように、黒に食い込む。いびつに輝く白と黒。どちらも歪み、どちらも苦しげで、それでいてどちらも離れる事ができない。
限界だ。
わけもなくそう思った。
「どれぐらい前から、ここに?」
「さあ。ぼくはほとんど眠っていたようだ。時折ふと、何かを見る。けれど夢の中の出来事のようだった……さっき、君に呼びかけられて。ようやく意識がはっきりとしたよ」
旋律。
螺旋を描くきらめき。
「あの黒妖犬は、俺の魂がほしいと言った」
そう言うと、彼は俺を見つめた。俺は言葉を継いだ。
「なぜです」
「わからない」
「あなたの魂をもう持っているのに」
「君にはどう見える。天に愛されし妖精の愛し子」
彼は静かに俺に尋ねた。俺は眉を上げた。
「天に愛されし……?」
「君はまるで、夜明けに一筋現れる光のようだ。一瞬の鮮烈な、それでいて夢のような。儚く、それでいて何よりも強い、人の子そのものでありながら、希有なもの」
青年は微笑んだ。
「それこそ楽の音のようだ。鮮烈にそこにあり、過ぎ去ると消えて残らない。それでいて、……永遠に近いものを人の心に残す」
「そう思うのは、……あなたが人間であるから」
俺は言った。
「妖精は違う感想を述べる。俺は永遠ではないし、……どこにでもいる、ありきたりな存在だ」
「それこそが人間だろう。永遠を内にはらむ、矛盾に満ちたもの。ありきたりでありながら、特別。特別でありながら、どこにでもあるもの」
「あなたもそれは同じだ」
「そうかもしれない。かつては」
「今もそうだ」
俺たちの問答は、穏やかなものだった。けれど言葉の裏には抜き身の刀で打ち合うような、緊張したものが漂っていた。
トリスタンは沈黙して、成り行きを俺に委ねている。アーサーは不安げに俺たちのやりとりを見つめている。ケルピーですら口を挟まない。俺は続けた。
「黒妖犬に触れられかけた時、意識を失った俺は夢を見た。そこでは光と影が問答をしていた」
「そうか」
「光は命を歌うと言った。影は死を運ぶと言った。影は光を闇に墜とすと言い、光は影に何に囚われているのかと尋ねた」
「そうか」
「『はるか彼方の血族よ。そなたはどこにいるのか。そなたをとらえる鎖はどこにある。そなたを閉ざす檻はどこに』」
すらりと舌が動く。俺の言葉に黒髪の青年は眉を上げた。
「『知れ。そなたをとらえる鎖は、そなた自らが作り上げたもの。囚われ人にしてとらえる者よ』」
「君は何者だ?」
彼の問いかけに俺は答えた。
「人間だ。ただの」
「永遠をはらむ矛盾」
ささやくように言うと、彼は腕を広げた。
「君から音楽が泉のように生まれ、あふれて来るのが見えるよ。祝福された魂の持ち主」
「人は誰であれ、そうした存在です」
「そうか。そうだね。誰も皆、忘れてしまうけれど」
微笑む。その微笑みにどこかで戦慄を覚える。何だろう。見えない刃があるような。
「先ほども言いましたが。あなたもそうだ。そういう存在です」
「そうだろうか」
「そうです」
「そうだろうか」
繰り返すと彼は、自分の胸に手を置いた。
「君にはわからないか。このきしみが。……歪みが」
その目が、視線が、俺を射抜く。
「ぼくは彼を歪めてしまった」
彼には微笑みがある。そのはずだった。その表情は確かに、笑みの形になっていたから。
けれどその目の奥にあるものは。
「純粋に音楽を愛してくれた存在を。歪めて。引きずり落した」
怒り。
どうしようもないほどの。
白い輝きが歪む。きしんで。
「夜明けに輝く光にも似た者よ。オマエは。オマエ、」
ぐにゃり、と。その姿が歪む。
「オマエ、……の、たま、シイ、タマ、シ、イ」
ぼこり。
ぼこ。
ぼこり。
歪む。きしむ。いびつになる。目が。赤く光る。炎のように。
体がかしいで、前かがみになった。その腕が獣の足に代わり、全身がくすんで黒く変化した。顔が歪んで犬の形になり、口が裂けてずらりと牙が並んだ。
「ヨコセ、ヨコセエエエエ!」
叫んで黒妖犬となった彼は、俺に向かって突進してきた。
その中でもがく魂の光。
後悔と。切望と。怒りと。悲しみにくすんで歪む、人間の魂。
動けなかった。
突然の豹変と彼からの害意に、俺はなす術もなく、立ち尽くした。