3.
* * *
ピアノが好きだった。
鍵盤を叩くと生まれる音は、のびる緑の命を、海の底の魚のつぶやきを、空高く飛ぶ鳥のはばたきを、心の奥底にしまった秘密を。ある時はささやき、ある時は叫ぶように歌った。
父は、彼に跡を継いで欲しがっていた。軟弱な趣味だと笑われた事もあった。けれど。
ピアノが好きだった。
音楽を奏でる事は、彼にとって。世界を産み出す事に等しかった。
そのものが、いつから側にいたのかわからない。
気がつくと、彼のピアノを聞いていた。
決して近づいては来ない。彼以外の者の目には映らない。けれど、彼にはわかった。『それ』が彼のピアノを愛し、その音になぐさめられている事が。
『音楽が好きなんだな』
初めて話しかけた時には、ちらりとこちらを見て、すぐに消えてしまった。けれど根気よく、一言、二言と話しかけると、やがて静かにくつろいでいるようになった。
『知っているか? ぼくの名前は彼と同じなんだ』
ある時、そう言ってピアノを弾いた。
『この曲には歌もついている。賛美歌だよ。歌ってみようか?』
『それ』は、彼を見た。歌って欲しがっている。そう思った。
英語ではなく、原語のドイツ語で、彼は歌った。考え抜かれて作られただろうその曲は、ドイツ語の響きですら音楽の一部として、美しい模様を大気に刻み、螺旋を描いて変化する。
ここに世界がある。
そう思った。
ここに。今、ここに……。
数年が過ぎた。彼は父親を説得し、ピアニストとして歩み始めた。
彼の音楽は派手な所がない分、繊細だとされた。叩かれる事もあったが、人の心を癒すような優しさを持つとして、少しずつ人気が出始めていた。
『君はずっと、聞きにきてくれるね』
『それ』に彼は話しかけた。夜、一人でピアノを弾きながら。
『君には感謝しているんだ。ピアノを断念しようかと思った事もあった。でも君が、聞きにきてくれるから。君に恥ずかしくないような音楽を産み出そうと、そう思えるようになった。諦めずに、もう少しがんばってみようって』
『それ』は何も言わない。彼も返事を期待していない。
ただ、言葉を。ぽつり、ぽつりと口にした。
『ありがとう。ぼくの音楽を好きでいていくれて』
それは、黙って彼を見ている。
『何か、弾こうか。何が良い?』
『それ』は、ふらりと動いて。ゆるゆると回ってみせた。螺旋。
『螺旋……あれかい? バッハのカンタータ147番の、コラール』
彼は微笑んだ。
『〈心と口と行いと生きざまもて〉。……〈主よ、人の望みの喜びよ〉』
最初の音をピアノで弾くと、『それ』は嬉しそうに笑ったように見えた。
彼は弾いた。心を込めて。
何年かが過ぎて、彼は病いに倒れた。
細くなってゆく腕。力をなくしてゆく指。
それでも、ピアノを弾きたかった。
薬に頼り、痛みを押さえ、彼はピアノを弾き続けた。
ピアノ。
音楽は、彼に世界を見せてくれる。
ピアノを弾いている間、目の前に開けて見える美しい世界に、彼は最後まで浸っていたかった。けれど。
『……』
息が。
腕が。
指が。
……意識、が。
『弾きたい』
祈るように、彼は思った。
『弾きたい……んだ』
ピアノ。
ぼくに、ピアノを。音楽を、奏でさせてくれ……。
倒れて運び込まれた寝台の上でそう思った時。『それ』は、彼の元を訪れた。
* * *
俺は、目の前の青年を見つめた。どこか貴族的な顔だちをした、優しげで繊細な容貌の彼を。
ジョン(ヨハン)・セバスチャン(セバスティアン)。
バッハの名前だ。ヨハン・セバスティアン・バッハ。彼は自分の名前、ジョン・セバスチャンを聞くたびに、この作曲家の事を連想していたのだろう。そうして、ピアノ。ピアニストだった彼にとって、音楽は言葉以上の言葉だった。
「ジョン・セバスチャン」
もう一度、俺は言った。
「あなたは最後に。何を願った?」
『弾きたい、と』
彼は答えた。
『ピアノを。弾かせてくれと』
「それであれは、あなたに触れたのか」
『触れたのはぼくも同じだ。彼に、触れた』
彼は自分の胸に手を当てた。
『魂をやろうと言ったんだ。最後に、どうしても。ピアノが弾きたかった。だから力を貸してくれと願った』
「言うべきではなかったな」
トリスタンが俺に近寄ってくると、片手を差し出した。地面に座り込んだままだった事に気づいて、俺はその手を取った。立ち上がる。
「知らなかったのか。妖精も人間に囚われる事がある」
『知らなかった』
彼は目を伏せた。
『ただ……ぼくは。弾きたかった。それだけで良かったんだ……』
「黒妖犬には良い迷惑だったな」
トリスタンが冷たく言った。
黒髪の青年の姿が揺らぐ。
ううう。
揺らいだ分、黒妖犬の形も歪んだ。膨れ上がり、縮み、また膨れ上がる。
『……お、まえ、オマエ、オマエ』
唸りながら、黒妖犬が俺に目線を向ける。燃える瞳で。
『オマエ、オマエ、オマエ、ノ、魂、魂、寄コセ!』
があ! と吠えて突進してくる。トリスタンは俺を抱えると、ひょい、と避けた。
「ああっ!」
ケルピーの悲鳴が上がる。
「なにくっついてんだ、てめえ〜っ!」
「……うん。俺もちょっと、これがどういう状況なのか尋ねたい」
思い切りお姫さま抱っこをされながら、俺は言った。
「この方が安全だろう」
「いやそういう話じゃなくて」
しれっとした風に言うトリスタン。俺はと言えば、がちがちに体を強張らせている。
「こうも軽々と抱き上げられると、男としての色んなものが、傷ついたり傷ついたり傷ついたりするんですけど」
「大丈夫だよ。傷ついた場合は私が癒してあげるから」
「だからそういう話じゃなくて! 降ろして……あわあっ?」
黒妖犬がまた突進してきて、トリスタンは俺を抱えたまま、跳躍して逃げた。飛びましたよ、この人。人じゃないですが。Gがかかりました、今。風になるって、こういう事なんですね。フライじゃなくて、ジャンプの方ですが。それでも飛びました。結構な距離でした。二十歳の男を一人抱えたまま、軽々と。
こいつの筋肉は、ものすごーくものすごーくものすごいんだ。足は筋肉だらけだ。それでもって太さは女の子のウエストぐらいはあるんだ。きっとそうだ。そうでもなきゃ、何か色々、色々なものが負けてしまいます、俺。
「何を考えているのかね。私の足を見つめて」
「いや筋肉が……ええと」
口に出す所だった。
『魂。ソノニンゲンノ、魂、ヲ!』
「タカシ! 俺もそっち行ったら駄目なのか!?」
ケルピーが焦った感じに叫んでいる。
「駄目! アーサーを守ってくれ! 後で膝枕させてやるから、離れるな!」
アーサーは顔を強張らせ、ケルピーの後ろにいる。
「このまま、私とどこかに行かないかね?」
そんな状況で、トリスタンがのんびりした風に言う。おい。
「あれ放っておいて、どこかに行けるわけないだろう。何だってあいつ、俺の魂欲しがるんだ。もう、一つ抱え込んでいるのに!」
「さてね。低俗な妖精の考える事はわからないな」
さらりと言うトリスタン。そういう奴だとわかってはいたが、殴りたくなった。
ぐるるるををををををををっ!
黒妖犬が空に向かって吠えた。ぼこり、と体が歪む。ぼこり、ぼこり、と、瘤のようなものが体に現れ、引っ込み、また現れた。
ぐををををををををっ!
苦しんでいるのか。悲しんでいるのか。吠える声には悲痛な嘆きが潜んでいるようにも聞こえた。
『タマ、シイ……魂、ヲ!』
ぼこり。
ぼこ。ぼこ。
ぼこり。
体が歪む。黒妖犬は大地に爪を引っかけるようにして、体を丸めた。内側から弾けるように、瘤が生じては引っ込む。体の輪郭が崩れて、黒い塊になりつつある。その姿にまた、あの青年の影が重なった。
『……!』
何か叫んでいる。けれど、聞こえない。
O wie feste halt ich ihn,
不意に、黒妖犬が吠えた。歌の一節を。
O wie feste halt ich ihn,
O wie feste halt ich ihn,
O wie feste halt ich ihn……!
「見苦しい」
見下すように言うと、トリスタンは俺を降ろした。その手に光が集まる。美しい弓矢が現れ、彼は矢をつがえた。黒妖犬を狙う。
O wie feste halt ich ihn,
O wie feste halt ich ihn,
O wie ……!
ごうっ、と音がして、歌の言葉の間から、真っ黒なトゲだらけの蔦が伸びた。俺めがけて。
ひゅっ!
トリスタンが矢を放つ。蔦は一瞬で燃えて消えた。けれど。
O wie feste halt ich ihn……!
「まだ諦めないか」
「ちょっと待って! トリスタン、待ってって!」
俺は彼の腕に手をかけると、輪郭を崩しながら歌を吠えている黒妖犬に目を向けた。何か。
何か、見える。
「ダ、ダス……ダス、エア、ミア、マイン、ヘルツェ、ラーベ!」
きらめくそれを俺が叫ぶと、黒妖犬の動きが止まった。
Dass er mir mein Herze labe,
黒妖犬が叫んでいた言葉の続き。
しん、と静かになった。
(ど、……どうしようこの先)
同じ言葉を繰り返しているから、続きを言えば良いかな〜と思っただけだったんですが。どうすれば良いのでしょう。
ぼこり。
また体がぼこぼこし始めた。これじゃ駄目か? 駄目なのか?
「タカシ。完全ではないよ」
トリスタンが言った。はい?
「歌には歌で返さないと」
……。
「歌えって? 俺に? あれを?」
ドイツ語なんですよ!?
「したくないのなら、構わないがね。この見苦しいものを、消滅させれば良いだけの話だ」
「いやだから、物騒な話しはやめようよ! 俺、ヤなんだよ、そういうの! 歌うから!」
「では伴奏をつけてあげよう」
はい?
トリスタンは手の中の弓矢を消した。代わりに光が集まって、竪琴になる。うーわー。
「お……おまえ、音楽に関しては鬼じゃなかったかっ? なんか昔、無茶苦茶しごかれた覚えあるぞっ?」
するとトリスタンは、不穏な笑顔になった。ふふふ、と含み笑いをされる。
「言葉がわからないなどと言って手を抜いたら、その場で君を私のものにするよ? 君をこの世界に閉じ込めて、きっちり指導をしてあげよう」
きゃー。
「し、死に物狂いで歌わせていただきます……」
俺は後ずさりしながら言った。本気だ。こいつ本気だ。
味方の方が怖いって、どういう事なんですかーっ。
俺の焦りはそっちのけで、トリスタンが竪琴を奏で始めた。豪勢なカラオケだ。演奏してるのが妖精。音楽の専門家。字幕は黒妖犬。注意して見ていないと文字がどこかに吹っ飛びますが。ケルピーとアーサーがこちらを凝視している。うわ、気恥ずかしい。あんまり見ないでくれ。
……何のかの言って、さすがだ、トリスタン。聞こえてくる黒妖犬の中のメロディが、彼の竪琴で実在させられてゆく。この世界に。実体を持ったものとして。
音楽。
旋律。
空間に、きらめき、刻まれる音。
俺は焦りを鎮めた。歌を。
輝くこの力を。歌わなくては……。
「Wohl mir, dass ich Jesum habe,(イエスを得た私は幸いだ)
O wie feste halt ich ihn,(ああ、私はどれほど固く彼を抱きしめることか)」
声は楽に出た。トリスタンの竪琴と共に、俺の声が何かの力を形作る。
ああ。
これも魔法だ……。
「Dass er mir mein Herze labe,(彼は私の心を慰めてくれる)
Wenn ich krank und traurig bin.(病める時も、悲しみの内にある時も)」
ぐるん、と黒妖犬の首が。回ってこちらを見る。何て事だ。180度回転したぞ。
アーサーが目を丸くして俺を見ている。ケルピーは目を細め、こちらをうかがっている感じだ。
「Jesum hab ich, der mich liebet(私はイエスのもの、彼に愛される)
Und sich mir zu eigen gibet;(イエスは私に自分自身をも与えてくれた)」
声が伸びる。黒妖犬の中に見えているきらめきが。次に何を言うべきかを俺に教えてくれる。意味が頭に閃く。けれど歌った端からこぼれ落ちて、忘れてゆく。
「Ach drum lass ich Jesum nicht,(ああ、だから私はイエスを離さない)
Wenn mir gleich mein Herze bricht.(私の心が壊れ果ててしまおうとも、決して)」
何か引っかかった。この歌の意味。
『私に自分を与えてくれた』
『だから、離さない』
『私の心が壊れ果ててしまっても』
これって……。
すう、と黒妖犬の姿が薄れる。黒髪の青年の姿がはっきりした。
「あ、」
アーサーが驚きの声を上げている。彼にも見えているらしい。
黒髪に灰色の目のピアニストは、俺を見つめて悲しげに微笑んだ。
「離せないのは彼ではない。ぼくの方なんだ」
作中の歌は、バッハのカンタータ147、「心と口と行いと生きざまもて」のコラール。「主よ、人の望みの喜びよ」というタイトルで知られています。訳が大変でした……。
ちなみに隆志が言っている「ウント」は、英語で言うなら「and」です。
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