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妖精の輪と時のロンド〜妖精たちのいるところ  作者: ゆずはらしの
囮になってみました。~Mが多くないですか。
24/45

2.

 それは最初、大気にできた染みに見えた。

 黒い汚れ。

 ぽつりと落ちたような染みが、次第に広がる。じわじわと周囲を浸食し、黒く全てを塗りつぶして大きくなってゆく。ぐをる。ぐをる。ぐをる。

 世界を食むようにして、広がり。質感を持って『存在』を始める。



 ぐをる。



 らんらんと輝く赤い目。生臭い息を吐く口。ずらりと並んだ牙ががちがちと噛み鳴らされた。

 真っ黒な炎の中にある、欲望。破壊と怒り。そして。

 焦燥しょうそう……?

 ひたり、と。視線が俺に固定される。

 まばたきを一つか二つしただけの間に、俺の前には牛ほどに膨れ上がった黒妖犬モーザ・ドゥーグがいた。



 ぐをる、る、るる……。



 唸り声。黒妖犬は、体を低くして俺に飛びかかる体勢になった。その中にあるもの。

 三拍子。


(え?)


 彼の中にある何かが、きらめいて俺の目を打った。あれは。


「……バッハ?」


 光っているその形が、音楽になって見えた。有名なアレ。なんだっけ。ナントカいう曲。思い出せない。

 黒妖犬の動きが止まった。


「バッハ?」


 おうむ返しにアーサーが言う。


「曲ですか? 何かの」

「ああ……これ」


 俺は見える通りに、きらめきの歌う音をなぞった。声で。


「ララ……ラララ、ラララ、ララララララ、ラララ……」

「あっ、知ってる! ええと……聖歌隊が前に教会で」


 アーサーが慌てたように言った。けれどタイトルが思い出せないようだ。


「歌詞があって……ええっと」


 黒妖犬は俺を見ている。赤く燃える目で。


「歌詞……」


 つぶやいて、俺はきらめきに目を向けた。集中する。

 これは。何。



 Jesus bleibet meine Freude,

 Meines Herzens Trost und Saft,



「ドイツ語〜〜!?」


 いきなり現れた言葉に、思わずたじろぐ。すると黒妖犬が、ぐる、とうなった。黒い毛に包まれた筋肉が収縮するのが見えた、と思った次の瞬間、飛びかかってきた。



 どん!



 どういう動きをしたのか、トリスタンが俺の横に現れた。片手で軽く俺を押しやり、自分自身もひょいと身をかわす。俺とトリスタンの間を黒妖犬は走り抜け、立ち止まった。うなりながら、振り返る。


「……ありがとう」

「どういたしまして」


 軽く押されただけなのに、結構な距離を吹っ飛ばされて、俺は肩を抑えながら言った。本当に力強いな、この男!


「無事か、タカシ!」

「平気だ。アーサーの側を離れないでくれ!」


 声をかけてきたケルピーに返し、俺はもう一度黒妖犬を見た。その中にある、人の魂を。


「イングランド人だと思ったから、英語を予想してたんだけど。ドイツ語……」


 バッハの曲って、ドイツ語なんだっけ?


「賛美歌……だよな?」


 三拍子は三拍子だ。螺旋……と言うのも、このメロディを考えれば連想可能だ。

 ゆるやかに上り下りを繰り返す、曲……。


「でもなんでバッハ?」


 歌詞に何かあるのだろうか。



 Jesus wehret allem Leide,

 Er ist meines Lebens Kraft,



「イエス……は? 悲しみを? ええっと? 彼は……えー? 私の、強さ……レーベンス……あ、命。命の強さ?」


 ドイツ語、第二外国語で取りました。でも、翻訳がすぐできるほどの実力はないです。



 Meiner Augen Lust und Sonne,

 Meiner Seele Schatz und Wonne:



「私の……ええっと? ゾナって太陽……ウントはわかるけど、ウントなら! ゼィーレ? なんだっけ、魂……?」


 駄目だ。覚えている単語が絶対的に不足している。誰か俺の代わりに翻訳してくれ! 



 Darum lass ich Jesum nicht,

 Aus dem Herzen und Gesicht.



「私はイエスを決して……しない? ヘルツェン、ウント、ゲズィヒト……ああ、わからん!」


 きらきらと光る音。それが魂を響かせている。黒妖犬の中で。音楽は、言葉が綺麗に並んでいる。整えられたリズムが何かを刻んでいる。

 でも意味が! 意味が全然!


「こういう時にどうして動かないんだ、俺の舌!」


 これでドイツ語がぺらぺらになれたら嬉しいのに。意味をしゃべってくれたら、すごくありがたいのに!



 ぐをるおおおおおっ!



 吠えて、黒妖犬が突進してきた。俺は慌てて逃げた。

 息がかかった。ひえ。



 Wohl mir, dass ich Jesum habe,

 O wie feste halt ich ihn,

 Dass er mir mein Herze labe,

 Wenn ich krank und traurig bin.



「うわ!?」


 突然、俺の見ていたきらめきが強くなった。俺の耳に、大きくなった歌声が響く。俺は慌てて耳を抑えた。けれど歌声は、叫んでいるかのように轟いた。



 Jesum hab ich, der mich liebet

 Und sich mir zu eigen gibet;

 Ach drum lass ich Jesum nicht,

 Wenn mir gleich mein Herze bricht.



 声と共に、絡みつく何かが見える。三拍子のリズム。きらめく音。轟く言葉。


「え……わ、ちょ、これ!」


 絡みついてくる。音が。言葉が!

 


 O wie feste halt ich ihn,

 O wie feste halt ich ihn,

 O wie feste halt ich ihn,

 O wie feste halt ich ihn,



「……あああ!」


 鼓膜が破れそうなほどの叫び。轟く声が俺を捕まえる。目に見えない鎖が動きを封じる。身動きができない。腕。腕が。



 O wie feste halt ich ihn,

 O wie feste halt ich ihn,

 O wie feste halt ich ihn,

 O wie feste halt ich ihn,……



 伸びてくる、誰かの腕が、俺を。



 ひゅっ!



 不意に。声が途切れた。はっ、としてまばたくと、目の前にトリスタンがいた。白い妖精の騎士は弓を持ち、矢をつがえて黒妖犬を狙っていた。


「良い度胸だ。この私の前で」


 唇の端が歪み、冷たい笑みが彼の顔に上った。


「彼に。歌で呪縛をかけようとは」


 呪縛?

 黒く膨れ上がった黒妖犬が、ゲッ、ゲッ、と妙な音を立てた。それが彼の笑い声だと気づくまでに、少しかかった。


『ソノ、ニンゲン』


 黒妖犬は真っ赤な舌をだらりと垂らすと、鋭い歯を見せた。


『欲シイ』

「誰がやるか」


 トリスタンが次の矢をつがえる。


「待って」


 俺はトリスタンの腕に手をかけると、彼の後ろから前に出た。


黒妖犬モーザ・ドゥーグ。おまえの中にいるのは誰だ」


 俺が声をかけると、黒い獣は炎の色の目をすがめた。


「どうしてバッハの旋律が聞こえるんだ。おまえの中から。その人は……、」

『輝キハ、闇ニ墜チル』


 きしむような声で黒妖犬が言った。ゲッ、ゲッ、と笑い出す。


『オマエ。オマエモ。闇ニ。闇に墜チル。オマエ、モ!』

「俺は墜ちないし、おまえの中の人も墜ちてはいない」


 きっぱりと言うと、黒妖犬は笑いを止めた。


『俺ハ、死ヲ運ブモノ』


 黒妖犬が言った。


『憎、憎シミ、恐レ、オ、俺、ハ』


 ぶるぶると体が震えている。内側から膨れ上がる、何かに耐えようとでも言うように。


『俺ハ。俺、……お、おれ、は』


 きしむ声。


『おれは。お、おれ、にく、憎しみ、つ、つめたさ、闇……』


 声が。


「人の声……?」


 アーサーがあえぐようにつぶやいた。黒妖犬は苦しげに身悶えると、空に向かって吠えた。



 ぐをるあああああああああっ!



 同時に跳躍する。俺に向かって飛びかかってくる。

 トリスタンが俺の腕をつかんで引いた。突き飛ばされる。俺は地面に転がった。

 光る。

 黒妖犬の中にある、歌が。



 O wie feste halt ich ihn,



「私は……、彼を。抱きしめる」


 俺はつぶやいた。その言葉がぱっと弾けて、何かが見えた。

 痩せた、黒髪の青年。灰色の目の。

 ピアノの音。


『この音は、孤独だね。でもとても美しい』


 彼を見つめる。彼自身もまた、ひどく孤独に見えた。


『君はなぜ、ぼくの前に現れたのかな。でも、音楽が好きなんだね。……この曲には歌もついているんだよ』


 彼の声。優しい光が満ちている。熱を持つ、人の子の歌。


『ぼくの名は、彼と同じなんだよ』



 Er ist meines Lebens Kraft,



「彼は、私の。生きる力」


 響いた言葉をつぶやいて、俺は彼を見た。今では黒妖犬に重なって、誰かの姿がはっきりと見えた。

 穏やかな顔をした、黒髪の青年。灰色の目が、俺を見つめる。


『・・・・・』


 幻の中で、誰かが彼の名を呼んだ。その、名前。

 舌が動く。


「『ジョン・セバスチャン』」


 俺がその名を口にすると、幻影の青年は微笑んだ。



作中の歌は、バッハのカンタータ147、「心と口と行いと生きざまもて」のコラール。「主よ、人の望みの喜びよ」というタイトルで知られています。訳が大変でした……。

ちなみに隆志が言っている「ウント」は、英語で言うなら「and」です。

……エスツェットが表示されない……。ssで代用しました。


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