2.
それは最初、大気にできた染みに見えた。
黒い汚れ。
ぽつりと落ちたような染みが、次第に広がる。じわじわと周囲を浸食し、黒く全てを塗りつぶして大きくなってゆく。ぐをる。ぐをる。ぐをる。
世界を食むようにして、広がり。質感を持って『存在』を始める。
ぐをる。
らんらんと輝く赤い目。生臭い息を吐く口。ずらりと並んだ牙ががちがちと噛み鳴らされた。
真っ黒な炎の中にある、欲望。破壊と怒り。そして。
焦燥……?
ひたり、と。視線が俺に固定される。
まばたきを一つか二つしただけの間に、俺の前には牛ほどに膨れ上がった黒妖犬がいた。
ぐをる、る、るる……。
唸り声。黒妖犬は、体を低くして俺に飛びかかる体勢になった。その中にあるもの。
三拍子。
(え?)
彼の中にある何かが、きらめいて俺の目を打った。あれは。
「……バッハ?」
光っているその形が、音楽になって見えた。有名なアレ。なんだっけ。ナントカいう曲。思い出せない。
黒妖犬の動きが止まった。
「バッハ?」
おうむ返しにアーサーが言う。
「曲ですか? 何かの」
「ああ……これ」
俺は見える通りに、きらめきの歌う音をなぞった。声で。
「ララ……ラララ、ラララ、ララララララ、ラララ……」
「あっ、知ってる! ええと……聖歌隊が前に教会で」
アーサーが慌てたように言った。けれどタイトルが思い出せないようだ。
「歌詞があって……ええっと」
黒妖犬は俺を見ている。赤く燃える目で。
「歌詞……」
つぶやいて、俺はきらめきに目を向けた。集中する。
これは。何。
Jesus bleibet meine Freude,
Meines Herzens Trost und Saft,
「ドイツ語〜〜!?」
いきなり現れた言葉に、思わずたじろぐ。すると黒妖犬が、ぐる、とうなった。黒い毛に包まれた筋肉が収縮するのが見えた、と思った次の瞬間、飛びかかってきた。
どん!
どういう動きをしたのか、トリスタンが俺の横に現れた。片手で軽く俺を押しやり、自分自身もひょいと身をかわす。俺とトリスタンの間を黒妖犬は走り抜け、立ち止まった。うなりながら、振り返る。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
軽く押されただけなのに、結構な距離を吹っ飛ばされて、俺は肩を抑えながら言った。本当に力強いな、この男!
「無事か、タカシ!」
「平気だ。アーサーの側を離れないでくれ!」
声をかけてきたケルピーに返し、俺はもう一度黒妖犬を見た。その中にある、人の魂を。
「イングランド人だと思ったから、英語を予想してたんだけど。ドイツ語……」
バッハの曲って、ドイツ語なんだっけ?
「賛美歌……だよな?」
三拍子は三拍子だ。螺旋……と言うのも、このメロディを考えれば連想可能だ。
ゆるやかに上り下りを繰り返す、曲……。
「でもなんでバッハ?」
歌詞に何かあるのだろうか。
Jesus wehret allem Leide,
Er ist meines Lebens Kraft,
「イエス……は? 悲しみを? ええっと? 彼は……えー? 私の、強さ……レーベンス……あ、命。命の強さ?」
ドイツ語、第二外国語で取りました。でも、翻訳がすぐできるほどの実力はないです。
Meiner Augen Lust und Sonne,
Meiner Seele Schatz und Wonne:
「私の……ええっと? ゾナって太陽……ウントはわかるけど、ウントなら! ゼィーレ? なんだっけ、魂……?」
駄目だ。覚えている単語が絶対的に不足している。誰か俺の代わりに翻訳してくれ!
Darum lass ich Jesum nicht,
Aus dem Herzen und Gesicht.
「私はイエスを決して……しない? ヘルツェン、ウント、ゲズィヒト……ああ、わからん!」
きらきらと光る音。それが魂を響かせている。黒妖犬の中で。音楽は、言葉が綺麗に並んでいる。整えられたリズムが何かを刻んでいる。
でも意味が! 意味が全然!
「こういう時にどうして動かないんだ、俺の舌!」
これでドイツ語がぺらぺらになれたら嬉しいのに。意味をしゃべってくれたら、すごくありがたいのに!
ぐをるおおおおおっ!
吠えて、黒妖犬が突進してきた。俺は慌てて逃げた。
息がかかった。ひえ。
Wohl mir, dass ich Jesum habe,
O wie feste halt ich ihn,
Dass er mir mein Herze labe,
Wenn ich krank und traurig bin.
「うわ!?」
突然、俺の見ていたきらめきが強くなった。俺の耳に、大きくなった歌声が響く。俺は慌てて耳を抑えた。けれど歌声は、叫んでいるかのように轟いた。
Jesum hab ich, der mich liebet
Und sich mir zu eigen gibet;
Ach drum lass ich Jesum nicht,
Wenn mir gleich mein Herze bricht.
声と共に、絡みつく何かが見える。三拍子のリズム。きらめく音。轟く言葉。
「え……わ、ちょ、これ!」
絡みついてくる。音が。言葉が!
O wie feste halt ich ihn,
O wie feste halt ich ihn,
O wie feste halt ich ihn,
O wie feste halt ich ihn,
「……あああ!」
鼓膜が破れそうなほどの叫び。轟く声が俺を捕まえる。目に見えない鎖が動きを封じる。身動きができない。腕。腕が。
O wie feste halt ich ihn,
O wie feste halt ich ihn,
O wie feste halt ich ihn,
O wie feste halt ich ihn,……
伸びてくる、誰かの腕が、俺を。
ひゅっ!
不意に。声が途切れた。はっ、としてまばたくと、目の前にトリスタンがいた。白い妖精の騎士は弓を持ち、矢をつがえて黒妖犬を狙っていた。
「良い度胸だ。この私の前で」
唇の端が歪み、冷たい笑みが彼の顔に上った。
「彼に。歌で呪縛をかけようとは」
呪縛?
黒く膨れ上がった黒妖犬が、ゲッ、ゲッ、と妙な音を立てた。それが彼の笑い声だと気づくまでに、少しかかった。
『ソノ、ニンゲン』
黒妖犬は真っ赤な舌をだらりと垂らすと、鋭い歯を見せた。
『欲シイ』
「誰がやるか」
トリスタンが次の矢をつがえる。
「待って」
俺はトリスタンの腕に手をかけると、彼の後ろから前に出た。
「黒妖犬。おまえの中にいるのは誰だ」
俺が声をかけると、黒い獣は炎の色の目をすがめた。
「どうしてバッハの旋律が聞こえるんだ。おまえの中から。その人は……、」
『輝キハ、闇ニ墜チル』
きしむような声で黒妖犬が言った。ゲッ、ゲッ、と笑い出す。
『オマエ。オマエモ。闇ニ。闇に墜チル。オマエ、モ!』
「俺は墜ちないし、おまえの中の人も墜ちてはいない」
きっぱりと言うと、黒妖犬は笑いを止めた。
『俺ハ、死ヲ運ブモノ』
黒妖犬が言った。
『憎、憎シミ、恐レ、オ、俺、ハ』
ぶるぶると体が震えている。内側から膨れ上がる、何かに耐えようとでも言うように。
『俺ハ。俺、……お、おれ、は』
きしむ声。
『おれは。お、おれ、にく、憎しみ、つ、つめたさ、闇……』
声が。
「人の声……?」
アーサーがあえぐようにつぶやいた。黒妖犬は苦しげに身悶えると、空に向かって吠えた。
ぐをるあああああああああっ!
同時に跳躍する。俺に向かって飛びかかってくる。
トリスタンが俺の腕をつかんで引いた。突き飛ばされる。俺は地面に転がった。
光る。
黒妖犬の中にある、歌が。
O wie feste halt ich ihn,
「私は……、彼を。抱きしめる」
俺はつぶやいた。その言葉がぱっと弾けて、何かが見えた。
痩せた、黒髪の青年。灰色の目の。
ピアノの音。
『この音は、孤独だね。でもとても美しい』
彼を見つめる。彼自身もまた、ひどく孤独に見えた。
『君はなぜ、ぼくの前に現れたのかな。でも、音楽が好きなんだね。……この曲には歌もついているんだよ』
彼の声。優しい光が満ちている。熱を持つ、人の子の歌。
『ぼくの名は、彼と同じなんだよ』
Er ist meines Lebens Kraft,
「彼は、私の。生きる力」
響いた言葉をつぶやいて、俺は彼を見た。今では黒妖犬に重なって、誰かの姿がはっきりと見えた。
穏やかな顔をした、黒髪の青年。灰色の目が、俺を見つめる。
『・・・・・』
幻の中で、誰かが彼の名を呼んだ。その、名前。
舌が動く。
「『ジョン・セバスチャン』」
俺がその名を口にすると、幻影の青年は微笑んだ。
作中の歌は、バッハのカンタータ147、「心と口と行いと生きざまもて」のコラール。「主よ、人の望みの喜びよ」というタイトルで知られています。訳が大変でした……。
ちなみに隆志が言っている「ウント」は、英語で言うなら「and」です。
……エスツェットが表示されない……。ssで代用しました。