4.
「とりあえず、どれだけ危険なのか説明するよ。君はわかっていないようだから」
アーサーを引き剥がしてからトリスタンが言った。子どもはぽいっと放り出され、ケルピーに抱き留められた。
「その子どもは、馬妖精が面倒を見ると良い」
咄嗟に抱き留めてしまったらしいケルピーは、面倒くさそうな顔をして子どもを地面に下ろした。
「なんで俺なんだよ」
トリスタンが彼を怒らせるような事を何か言う前に、俺は慌てて声をかけた。
「ケルピー。アーサーを守ってやってくれるか」
「任せろ! 俺がついてたら何があっても大丈夫だ!」
「うん。おまえ強いから。信頼してるよ、ありがとう」
そう言って微笑むと、ケルピーは満面に笑みを浮かべて、「おう」と言った。物凄くうれしそうだ。何だか子どもを騙しているような気がして、良心の呵責を感じる。
「だからタカシ、ヒザマクラな!」
「……忘れてないんだ、それ……」
そんなにしたいのか、膝枕。
「ずっと消えない印にしてしまおうか」
何やら不穏な笑みを浮かべて、トリスタンが俺の手を取る。
「いやあの。それより。危険がどうのって?」
守護の印はありがたいのだが、ケルピーとは長い付き合いだ。彼をこうまで苦しめる印は、少し困る。そう思って自分の手を取り戻し、話題を逸らすと、トリスタンは答えた。
「あの馬は、君に触れただろう?」
「え?」
「黒こげになりながらも、触れていただろう」
そうだっけ? と思って今までの事を思い返す。襟首をつかまれた。抱きつかれかけた。抱きつかれかけた。抱き……ええと。
「服に触るぐらいでも、火花散ってたけど……」
「それぐらいなら火花で済むよ。私が君を魅了しようとした時、あれは君の腕をつかんだ」
俺は目を丸くした。どさくさに紛れて気がついていなかった。
「そうなんだ……?」
「おかげで黒こげになったがね。それでも、あれは『腕をつかんだ』。つまりはそういう事だ。焼かれる事を恐れさえしなければ、『触れる』事はできるのだよ。その印をつけていても」
トリスタンの言葉に息を飲む。それはつまり。
「死ぬ可能性もあるわけか。あれに触れられて」
「あれが、己が滅びる事を厭わなければ。君に触れて焼かれた後は、身動きができなくなるだろうからね。報復として我等に八つ裂きにされる事ぐらいは見当がつくだろう。それでも君に触れる理由があり、触れようと思うのならば、可能だ」
そこで彼は、す、と俺に近づいて。耳元に唇を寄せてささやいた。
「君は完全には人間ではない。黒妖犬に触れられたとしても、おそらく即座に死ぬという事はないだろう。君の中の妖精の血が、君の命を守る。だが君は、妖精という訳でもない。覚えておきたまえ。黒妖犬に触れられれば、人間には死は免れ得ない。命は助かるとしても、触れられれば、君の中の人間の部分が死ぬ」
俺は彼を見上げた。その白く美しい顔を。
「ここから戻れなくなるということか」
「戻る気もなくすだろう」
「その方がおまえには、都合が良いのじゃないのか、トリスタン」
「君が、私以外のものの手で変化を遂げる事は許せない」
彼の顔は真剣だった。俺を案じてくれているのも本当だった。
「優しいのだかそうでないのか、わからない男だな」
俺はそんな彼を見て小さく笑った。
「忠告をありがとう。気をつける」
「そうしたまえ」
彼は離れた。
その間、ケルピーはぎりぎりと歯をきしらせていた。だが何も言わなかった。離れた所にいる人間には聞きとれないだろうささやき声だったが、彼にはトリスタンの言っている事が聞こえたらしい。俺にとって大事な事を言っていると、そう判断して我慢したのだろう。
「なあ、ケルピー。あいつ、どうやったらおびき出せるかな?」
そう言うと、彼はむ、とうなった。
「タカシ。おまえと、この人間の子どもをあれは狙ってる。姿が見えないけど、今も狙っているはずだ。一人でふらふらしてみろ。一発だ」
「そうか。そう言えばさっきは、アーサーが一人で立っていたな。俺たちから離れて」
そう言ってから、俺は微笑んだ。
「アーサー。ケルピーから離れるんじゃないよ。ケルピーはその子を守る事を第一にしてくれ。黒妖犬が出ても突っかかったりしないで、とにかくこの子を守ってくれ」
「おまえは?」
「俺は餌になるから。一人でふらふらしてみる」
そこでトリスタンに目をやる。
「少し離れていてくれるか」
「構わないが……」
「危険を感じたら呼ぶ」
「そうしてくれ」
「俺もタカシの方が良い〜」
ケルピーがぶちぶち言っているのに、目をやる。
「おまえにしか頼めないんだよ、ケルピー。その子の事は。おまえは強いから、俺は安心だよ」
「だけどさあ」
「頼むよ」
真面目な顔でそう言うと、彼は黙った。
「仕方ないなあ……恩に着ろよ」
「着る。ありがとう」
微笑むと、顔を赤くしてそっぽを向いた。
「タカシ」
不安そうな目でアーサーが俺を見た。俺は少年に微笑みかけた。
「大丈夫。魂を見るだけだから。何だかさ。俺にはそういう才能があるらしいし」
「でも」
「危険でも、こうしないと先に進めそうにない。俺にはその能力がある。だからやる」
肩をすくめる。
「シンプルだろ?」
「ぼくは自分が情けないです。何にもできなくて」
「俺にもあったよ。そう感じる事。でも今は守られててくれよ、アーサー。頼む。嫌だとは思うけど」
アーサーに近づいて、髪をくしゃっとしてやる。
「それで自分に力がないって、力不足だって、そういう思いも忘れる事なく持っててくれ。忘れなきゃ、努力をするからさ。そうしたら君はいつか、誰かを守れる力を身につける」
アーサーは俺を見上げた。目に、少し傷ついたような陰りがあった。
「でも『今』には間に合いません」
「『いつか』の『誰か』には間に合う」
その陰りに気付かない振りをして、俺は言った。
「それが大事なんだよ。そういうものなんだ、人生って。今は理不尽に思えるかもしれないけれど。……大丈夫。トリスタンは俺を見捨てたりはしないから」
「私をあまり信用しすぎるのも、君にとっては破滅だと思うがね」
白い騎士が言った。俺は笑った。
「他の妖精に手出しされるような真似はしないだろ、おまえ。独占欲強いから。だから『今』に関しては、間違いなく信用できる」
「その通り。腹の立つ人間だ」
ふー、とトリスタンは息をついた。
「だが愛しい。いつか必ず、君の魂を手に入れる」
「その時にはがんばって逃げます。えーと。じゃ、俺一人でふらふらします。ケルピーはアーサーを頼むね。トリスタンは、少し離れた所にいてくれ。で、もし黒妖犬が出たら。悪いけど、相手をしてくれるか。俺が観察できるように、時間稼ぎを頼むね」
「あのようなものを相手にするのは不本意だが。まあ良かろう」
トリスタンが言った。ケルピーが陽気な感じに言った。
「タカシ! 終わったら絶対ヒザマクラな! 前のと合わせて二回! さっき一回だけって言ったけど、二回! 良いか?」
「それなら私も、もう一度したい」
トリスタンが言う。俺は顔を強張らせた。
「何でそうこだわるんだよ、おまえら」
「だって好きな相手とするもんなんだろう、ヒザマクラは。俺はタカシが大好きだから、やりたい」
全く裏のない、ケルピーの笑み。直球だ。こちらが恥ずかしい。
「日本文化だしね……」
ふふ、と笑ったトリスタンの言葉には、言外に別の意味がてんこ盛りにされているような気がした。なぜそんな気がするのか。
「愛しい相手が心からの信頼を寄せて無防備になり、なすがままの状態に……」
背筋が寒くなった。違う。こいつの膝枕の解釈は絶対違う。
「タカシを背中に乗っけるのは、前にやったけど。膝に乗せるのはやった事がない。それでなでてやるのは楽しそうだ。なでてるだけって不思議な感じするけどなあ。噛みつくのとか、なしって言うのは。でも俺、上手にやるから。おまえが気持ち良いようにがんばるから」
ケルピーの発言。にこにこしながら、純真な子どものような響きの言葉を言う、んだが。内容にひっかかるものを感じるのは、俺の気のせいでしょうか。
「私の手の下で無防備になる君。私の手の動きに体を委ね、心を開いてゆく君。蕾が花開くように恥じらいながら、私に全てを任せる君。ふ。ふふふふふ」
こいつも直球だ。ある意味直球だ。セクハラ親父か、おまえは!
「タカシは可愛いからな! いっぱい、なでてやるな!」
「ふふ。とても愛らしいだろうね……」
「おまえら……俺にダメージ与えて楽しいか……?」
男の子だから逃げません。でも泣いて良いですか。
結局、膝枕はケルピーには約束通り一回だけ、トリスタンは何もなし、という事になった。