3.
「まあ、あれだ。とにかく、あいつの中から人間の魂を分離させないと駄目って事だな?」
笑顔って最強の暴力にもなるんですね、とか意味不明の事を言っている子どもは置いておいて、俺は言った。
「それができるならね」
「どうやるんだ?」
トリスタンが応じ、ケルピーが尋ねる。俺は眉をしかめた。
「うーん……名前を呼ぶ、とか? アーサーの親戚で亡くなった人がいたら……」
「現代の人間の魂とは限らないよ?」
「あ、そっか」
トリスタンの言葉に俺は考え込んだ。トリスタンはそんな俺を見て言った。
「まあ君の目と、今は舌があるからね。本質を見分ける事ができれば、名を言い当てる事もできるかもしれないが」
「本質?」
眉を上げた俺に、トリスタンはふふ、と笑った。
「たとえばそこの子ども。君にはどう見える?」
「アーサー?」
俺は少年に目をやった。子どもはちょっと緊張した顔になって俺を見上げた。
「九歳のイングランド人の子ども……、『古き血を継ぐ幼子。猛き獣の名の王は、世に平和をもたらした。その名を継ぐ者。揺らぎやすい境界線上にあるものの一人』」
すらすらと舌が動く。
「これがどうしたんだ?」
「名は、本質に影響を与える。君の見た彼の本質は、猛き獣の名、そして王の名を持つ者でもあった。そこから、彼の名を導き出す事ができるだろう?」
「獣、だけだとわからないけど……王の名、から何となくわかるか」
猪という意味の名前、アーサー。かつてこの名前の王さまがいた事は、イングランド人なら誰でも知っている。
トリスタンの言葉に俺は、うなずいた。
「俺が黒妖犬の中の魂を見れば、名前につながる何かが見えるはず……か?」
「手がかりぐらいにはなるだろう」
「そうだな」
俺はうなずいて、思い出そうとした。あの歪み。あの違和感。
「『……螺旋……』」
舌が動く。何だろう。意味不明だ。
「螺旋?」
アーサーが首をかしげる。俺も首をかしげた。
「何だろう。それしか思い浮かばない。螺旋に関係した名前ってある?」
「ええ? 何だろう」
アーサーはぶつぶつと色々な名前を言い始めた。
「螺旋……バーバー(理髪店)? ヘリックス(数学の螺旋)……ヘリオス……エリック……全然違う。巻きつく植物とか……えーと、朝顔……グロリア……男性の名前じゃないな。タカシ、その人、女の人なんですか?」
言われて気がついた。俺は『男』だと勝手に思い込んでいた。
「どう……なんだろう。あれは、『男性だ』」
何をどう判断しているのか知らないが、俺の舌はするりと断言する。
「……男、らしいよ」
「そうですか。じゃあ、花の名前とかは除外できますね」
アーサーが言う。
「名前からイメージされるものを、魂が抱えている事もあるよ。螺旋そのものを名に持っているわけではなく」
トリスタンが言う。
「イメージ? 螺旋の? うーん……ネジとか、DNAとか……でもそれって名前とどうつながる……?」
「頭文字がその三文字、とかじゃないですか?」
「(D)ドナルド・(N)ネイサン・(A)アレンとか? 何か違うよそれ」
「らせんって、あれだろ? ぐるぐる回るやつ」
ケルピーが言った。
「ぐるぐる回る。うん。回るものって、他に何があったっけ」
アーサーが自信なさそうに言った。
「カルーセル、とか」
メリーゴーランド(カルーセル)。
「それも何か違うよなあ……」
ぐるぐる回ってはいるが。
「螺旋、螺旋、……回るもの。何だろう」
「我等にとって螺旋とは、太陽や月の刻む時や季節も意味するがね。時は巡るものだから」
トリスタンの言葉に頭を抱える。
「駄目だ。何にも思いつかない」
「本人のこだわりの場合もあるしね。案外、なんでもない事に結びついていたりはするよ。他の者にはわからなくとも、本人が己の名を呼ばれるたびに連想して、結びつけられていた、とかね」
トリスタンが言った。俺はうなずいた。
「あー、そっか。本人には意味があるけど、他の人間には良く分からない連想……あるよね、そういう事。うわー、でもそれだと部外者はまずわからない……でも連想するぐらいだから、『螺旋』に何か関係している名前、と思いたい! ……螺旋……上に昇る力……時の流れ……コイル……電磁誘導……」
ぶつぶつつぶやいていると、いきなり「『三拍子』」と舌が動いた。
「なんだ?」
「三つの拍子だね」
「いやそれはわかってるけど。なんで三拍子」
「音楽に関係した名前の人じゃないですか?」
音楽関係。全然わからない。
「三拍子の音楽って、どれだけあるんだよ……俺、作曲家とか全然知らないぞ」
「螺旋、で三拍子?」
アーサーも首をかしげている。
「宗教関係ではないかね」
トリスタンがためらいがちな感じで言った。
「宗教?」
「三という数字は魔法に良く使われた。様々な宗教がその感性や思想を踏襲した」
「ああ、……素数は、何か神秘的な力があると思われていたんだっけ。キリスト教でも重要な数字だった」
つぶやいて俺は、ふと胸をよぎった思い出に目を閉じた。エレン。
彼女がここにいれば、何かわかっただろうか……。
『そんなの、あたしにわかるわけないでしょ』
不意に彼女の明るい声が聞こえた気がした。そうだった。歌を愛して、愛を輝かせ、感性のままに歌っていた彼女に、理屈なんて意味がなかった。それでも彼女は正解を見つけた。その感性で。全ての理屈をすっ飛ばして、たどりついた。
泣いても、わめいても、最後には。笑って行くべき道に向かった。あの潔いまでの胆力と勇気。俺を抱きしめた腕の優しさ。少しの狡さと愚かなまでの善良さ。……明るく輝くあの魂。
エレン。
君に会いたい。
「タカシ?」
「ごめん。ちょっとぼうっとしてた」
トリスタンの声に我に返り、俺は言った。
「良くわからないよ。俺が見た時、黒妖犬の中に沈んだ何かは見えたけれど。詳しく観察している時間なんてなかった。もう一度、じっくり見たらわかるのかもしれないけれど」
でもそれをするには、黒妖犬とまた出会わなくてはならない。
「あいつを滅ぼした方が早い」
ケルピーが不機嫌そうに言う。俺は首を振った。
「それは駄目。中に人間の魂が入ってるんだぞ」
「別にかまわないだろ」
「駄目だって。どんな影響が出るかわからないんだから。ただでさえ、おかしな歪みになってるんだぞ」
「おびき寄せて間近で見るのかね?」
トリスタンが言い、俺は「そうだな」と言った。
「他に手がないなら、そうするしかないな」
「危険だぞ。あれは一度、君に触れようとして果たせなかった。今度こそ、触れてくる」
「他に手があるか?」
アーサーがそこで、強張った顔で俺の服の裾をつかんだ。
「タカシ。でもそれ、危ないです」
「そうだろうけど。ちょっと観察してみたいんだよね。うまく行けば魂を分離できるかもしれないし。……なあ、ケルピー。俺って餌としてどうよ?」
「どうしてタカシが餌になるんですか」
「どうしてって……なるだろう、俺。ならないかな?」
そう言うと、「タカシなら立派な餌になるな」とケルピーが太鼓判を押してくれた。
「そうじゃなくて。タカシ。あなたは本当なら、……何も関係ない。安全でいたはずなんです。なのに。ぼくに関わったから、危険な目に」
「何言ってるんだ、アーサー」
と言うか、今さら?
「俺はまあ、性分だよ。こういうのに首突っ込むのは。君を家族の元に帰すって約束したしさ」
「それで、あなたが危険な目にあうのは嫌です」
アーサーは真面目な顔で言った。俺はまばたいた。
「危険なのは君の方だろう。俺は大した事ない。トリスタンの魔よけもあるし」
「タカシは、自分がどんな状態だったか見ていないから」
アーサーは唇を噛んだ。
「死んだかと思いました。倒れたきり、動かなくなって。体温も低くなって。それも、……ぼくのせいです。ぼくをかばったから。嫌なんです。自分のせいで、……タカシが危険な目に合って。ぼくは何にもできなくて。だから。……嫌なんです」
うつむいた子どもは、思い詰めた顔をしていた。俺が倒れたのがよほど衝撃だったらしい。
それにこの子は、責任感が強いようだ。頭も良い。自分を助ける為に俺が尽力しているのが、良くわかるのだろう。だからこそ、つらく感じているのだ。……自分が無力であると思い知らされて。
「死んでいないだろう?」
俺はそう言って子どもの頭に手を置いた。
「なあ。俺は大人で、君より妖精の事を良く知っている。こいつらが危険な事も知っているし、ここの事も君よりは詳しい。だからできる事をしている。それだけだ。俺だって、子どものころには誰かにかばってもらったし、手助けもしてもらったよ」
ぽんぽん、と軽くたたくと、アーサーは泣きそうな顔になった。でも我慢して、唇を噛んだ。
「タカシが危険な目にあうの、嫌なんです」
「生きてゆくのに危険はつきものだよ。どこにいたってさ。危険を危険だと認識しているから、その分、俺は大丈夫」
妙な理屈を言いながら、俺は子どもに笑いかけた。
「俺の側には妖精が二人もついてるし。さっきも大丈夫だった。平気だよ。どうしても気になるって言うんなら、いつか君が大きくなった時に、助けを必要としている子どもを助けてやってくれ。そうしてくれたら、俺はうれしい」
アーサーは俺を見上げ、頬を染めた。しばらく動かない。
それからいきなり抱きついてきた。
「え?」
「約束します。ぼく、……大きくなったら。誰か困っている人を助けます」
「うん」
「大きくなって。強くなって。絶対、誰かを助けられるような大人になります」
「うん。がんばれ」
笑って俺はアーサーを抱き返した。
「タカシみたいに優しくて、強い人になります」
「俺が強いかどうかは知らないけど。願いを持つなら道も開ける。君が望むような大人になれるように」
きゅっ、と一度抱きしめて。それから腕を離した。アーサーは俺を見上げてちょっと笑った。
「やっぱりタカシは妖精みたいだ。それとも、天使かな」
「いや、俺みたいな天使がいたら、天国は困った事になると思う」
思わずそう言う。そこでふと、背後が静かな事に気がついた。どうしたんだと思って振り返ると、ケルピーとトリスタンが複雑そうな顔をしていた。
「君はまあ、どうしてそう、次から次へと相手を魅了してゆくのかね。子どもにまで手を出す事はないだろう」
トリスタンが言い、ケルピーは、うらやましいだの、抱きつきたいだのぶつぶつ言っていた。
「はあ? 魅了? そんな事した覚えはないぞ」
「無意識かね。頼むから、無防備に笑顔を振りまかないでくれ。人間の世界でどれだけの男が惑わされているのか、心配になってきた」
何だそれは。