2.
水晶や貴石が露出する岩々が、光を浴びて小さな虹を作り出している。花々の咲き乱れるなだらかな丘を進むと、妙なトンネルが出現した。苔むしたそこをのぞきこむと、奥に誰かいる。
「そこに誰かいる?」
声をかけてみると、動いた。こちらを見透かすようにしている。
「だれ?」
かえってきた声は、細くて高かった。子どものものだ。思ったより年齢が低いらしい。俺は相手を怖がらせないよう気をつけながら、声をかけた。
「大丈夫。俺は人間だよ。こんな所でどうしたんだい」
「どうしたって……、」
声をつまらせてからごそごそ動き回る音がして、子どもが出てきた。綺麗な金髪に青い目。十歳ぐらいに見える男の子。頬や手足が泥で汚れているが、着ているものは上等なもののようだ。上品な雰囲気が漂っている。汚れてはいるが、小さな王子さまのようだった。多分上流の子どもだろう。
「本当に人間?」
俺を見て子どもは目を丸くしてから言った。疑わしげだ。俺は背をかがめ、彼と目線を合わせてから微笑みかけた。
「そうだよ。君は人間?」
「そうに決まっている」
「そうか。俺は、隆志だ」
子どもはまばたいてから、「カシー?」とつぶやいた。うまく発音できないようだ。
「タ、カ、シ」
ゆっくり発音すると、繰り返す。
「タイ……カシー。変な名前」
「日本人だから。聞き慣れない音に聞こえるだろうね。呼びにくかったら、好きに呼んでくれて良いよ。タックでもカシーでも」
「それは失礼だよ。タ……カシ。ちゃんと発音する」
少年はきっぱりとそう言うと、俺の名を発音した。おお、格好よいなあ、と俺は思った。日本の子どもで、この年齢で、相手に対して失礼だとか何とか気づかえる子どもがいるだろうか。
「この名前、何か意味があるの?」
俺はうなずいた。
「俺の名前は漢字で書くから。漢字には、一文字ずつ意味がある。隆志のタカは、昇るとか、上がるとかいう意味だ。シはこころざし。強い意志を現す言葉だよ。意志を強くもって、高く上げるという意味……かな」
少年はぼくを見つめ、「意志を高く上げる……」とつぶやいた。
「ぼくは、アーサー」
きちんと躾けられているらしい。名乗った俺に彼も名乗った。
「イングランドに平和をもたらした王さまの名前だね。良い名前だ」
そう言うと彼はちょっと赤くなった。
「それで、アーサー。君、どうしてこんな所にいるの?」
「わからない」
子どもは言った。自分の置かれた状況を思い出したのだろう。一瞬、泣きそうな顔になったが、我慢した。言葉を続ける。
「ちょっと、散歩しようと思ったんだ。ちょっとだけのつもりだった。そしたら……どこをどう歩いているのかわからなくなって……。そ、それで、変なのが出てきて」
「変なの?」
「し、信じられないかもしれないけど! 目の中で火が燃えてる、黒い犬とか! 変な馬とか! お、おとぎ話にしか出てこないような化け物が……っ」
黒妖犬。変な馬は、ピクシーが化けたものだろうか? 今度こそ泣きそうになった彼を、俺は抱き寄せた。
「うん。大丈夫。良くがんばったね。俺も見たことがあるから、君を嘘つきだなんて思わないよ」
「ほんと?」
「本当。さっきもピクシーを見た」
アーサーはくしゃっと顔を歪ませると、しがみついて泣きだした。よほど不安だったのだろう。可哀相に思って俺は、しっかり抱きしめてやった。
* * *
しばらく好きに泣かせてから、落ち着いたころを見計らい、俺はアーサーの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「さて。じゃあ、アーサー。君をどうにかして帰してあげないとね」
「かえれるの?」
泣いた事が恥ずかしかったのか、アーサーはうつむいていたが、この言葉に顔を上げた。
「うん。その前に尋ねるけど、ここで何かを飲んだり食べたりした?」
アーサーは首を振った。俺はほっとした。
「良かった。ここでは何も食べてはいけないよ。帰れなくなるから」
「そうなの?」
「そう。妖精に連れて行かれた子どもの話を聞いた事はない? 妖精のくれる食べ物を口にしたら、帰れなくなってしまうんだよ。この先、妖精たちに何か食べろと言われても、食べちゃ駄目だよ」
俺のように特殊な場合をのぞき、迷い込んだ人間は、選択を誤ると戻れなくなってしまう。アーサーは真面目な顔になった。
「ここは……、妖精の国なの?」
ああ、この子頭が良いな。俺はそう思った。今の流れでそう推測できるんだ。
「そう。君は多分、何かがきっかけになって迷い込んでしまった。ここは人間の世界じゃないよ」
アーサーは俺をじっと見つめたが、「うん」とうなずいた。
「タカシも迷ってこっちに来たの?」
まだ微妙に『タ、カシー』と聞こえるが、何とか発音できるようになっている。努力家でもある。良いなあ、この子。俺の中でのアーサーはかなり高評価になっていた。
「俺の場合は、引きずり込まれたって言ったほうが正しいな」
苦笑すると、心配そうな顔になった。
「タカシは帰る方法がわかる?」
「大丈夫。どうにかできるよ。君の事も何とかして帰してあげるから、安心して」
アーサーはまばたいてから、ちょっと赤くなった。
「うん、……あの。ありがとう。でも無理はしないでね。ぼく、タカシの事もちゃんと守れるから、何かあったら頼ってくれて良いよ」
おお、男の子だ。俺はちょっと感動した。でも守るって……頼りなく見えるのかなあ。
見えるのかもな。俺、マッチョじゃないしな。なんでか、つかないんだよな筋肉。がんばってるのにな。
「無理はしないよ。しなきゃならない場面では、するけどね」
アーサーは俺が落ち着いているのに感心したらしい。ほう、と息をついた。
「すごいな、タカシは。ぼくは取り乱してしまったのに……」
「君の年齢で落ち着き払われたら、俺の立場がないよ。年上の人間に見栄を張らせてくれたらありがたい」
そう言うと、アーサーはくすりと笑った。
「タカシは妖精の事、詳しそうだけれど……日本人は、みんな妖精に詳しいの?」
「そうじゃないよ。俺の場合は、詳しくならざるを得ない事情があってね、色々と」
「事情?」
「その辺はあまり尋ねないでほしい。それに今は、君の事を考えないとね。もうちょっと詳しい事聞かせてくれるかな。
君はどの辺から迷い込んだの? どれぐらいの間ここにいるのかな。覚えている事で良いから教えて欲しいんだけど」
アーサーは眉をしかめた。考え込む。
「走り回って逃げたから……どこからとかわからない。時間は……、一時間か、それぐらい?」
「それぐらいなら、人間の世界ではあまり時はたっていないと思う。場所は……何か覚えていない? 目印みたいなのないかな?」
アーサーは首を振る。
「じゃあ、迷う前はどこにいたの? 人間の世界では」
「ジョンおじさんの家だよ。遊びに来ていたんだ。親戚じゃないんだけれど、お祖父さんの友だちだった人で。ぼくの……体がちょっと弱いから、健康に良いだろうって」
「体、弱いの? 今は大丈夫?」
「あ、今は平気……ここに来てから苦しくない」
まばたいてアーサーは自分の胸に手を置いた。
「いつもなら、苦しくなってるのに」
「ここは、人間の常識や時間からは切り離されているからね。……喘息?」
「うん。咳が出る」
何だか恥ずかしそうな顔でアーサーは言った。
「すぐに咳をする奴は弱虫なんだって」
「誰がそんな事を……」
「みんな。そう言ってる」
アーサーは小さな声で言った。同年代の男の子にでも言われたのだろう。子どもは自分と違う相手を敏感に察知するし、それが気に入らないとなると、いくらでも残酷になれる。
俺が良い例だ。
『ガイジン』と言ってはやしたてた相手はみんな、自分のした事を忘れてしまっているだろう。だが俺の中には今も、小さな痛みとなって残っている。
ボクハ、ミンナトチガウノ?
チガウカラ、ワルイコナノ?
ダカラ、ミンナ、ナカマニイレテクレナイノ……?
『ガイジン、ガイジン、あっち行け〜』
『出てけよ、ガイジン、自分の国に帰れ』
『ここは日本だぞ〜、出てけ〜、出てけ〜』
声をそろえて言う子どもたち。ドッジボールをしようとしても、入れてもらえない。近づけば避けられる。遠くからひそひそ言う。
何がいけないんだろう。
どこが悪いんだろう。
どこかが悪いから、嫌われるんだろうか。
何を、どう直せば。嫌われずに済むんだろう……。
(やば。思い出してきた)
むか。となって俺は拳を握りしめた。純粋だったよな、あのころの俺。必死で周りの人間の機嫌を取ろうとなんかして。