1.
「悪意はないと思うがね。むしろ、君を助けようとしたのではないか?」
トリスタンが榛の木を見上げて言った。
「ケルピー。この木に手出しするな」
木の前に立って威嚇している水棲馬の青年に、俺は声をかけた。さっきまで黒こげ状態だったくせに、もう回復している。どこまでタフなんだ。
「ヘーゼルナッツは知恵の実なんでしょう?」
「洞察力を与えるもの、ともされている」
アーサーの言葉をトリスタンが補足した。俺を見る。
「君、さっき知恵が欲しいと言っていたね。だからじゃないか?」
そうかも。
こう言っては何だが俺は昔から、妖精やそれに連なるものたちから、やたらと好意を寄せられる。榛の妖精もたぶん、俺に好意を持って贈り物をしようとしてくれたのだろう。
問題は彼らの好意や贈り物が、人間には時折、大層困るものになると言う事だ。
「ずっと嘘つけないままなのか、俺……」
口元を手で抑えて俺は肩を落とした。このままでは本気で人間の世界に帰れない。
「えーと、でも、何かあるのかも……タカシ、さっきの黒い犬、何か変だって言ってたし。それで、手助けしようとした……のじゃないかな……」
俺を励まそうとしたのか、アーサーが言った。自信なげに語尾が小さくなってしまったが。
「黒妖犬……、あいつ、は、『閉ざされたもの』」
いきなりするりと口から出た言葉に俺は、目をぱちくりとした。
「閉ざされたもの?」
アーサーが尋ねるのに、勝手に口が動き出す。
「えっ、ちょっと。ちょっと待っ……、『終わりのない、輪が描かれる。螺旋の夢。時の輪は輝いて踊る。妖精の輪に踏み込んだ者は。永劫の囚われ人となる』」
なんだ。これは。
「『輪が描かれる……終わりなく続く。死を運ぶものには憎しみ、恐れ、冷たさと闇が所属し、それは囚われる』」
あの時見た、夢の中の言葉?
「『捕らえているのは何者か。囚われているのは何者か。何者か。何者か』」
何者か……?
「『あるものは、どこにあるか』」
言葉がこぼれる。
「『見いだし、見いだせ。そのものを』」
べらべら動いていた舌が止まる。えーと。つまり。
「何のこと?」
「言った本人にそう言われてもね」
トリスタンが苦笑した。
「君が見た真実を、舌が話したのだろう」
「俺の見た?」
「違和感」
肩をすくめると、トリスタンは俺を見つめた。
「祝福は、何もない所に注がれるわけではないよ。そこには素地があり、通路がある。
君は真実を見抜く目を持つ。だからこそ、『真実を語る舌』の祝福が与えられた。
歌は、歌い手に注がれる。力は、力に魅かれる。知恵は、知恵ある者に与えられる。持っている者は、さらに持つものだ」
トリスタンの言葉は、妖精の法則。同時に力の法則でもあった。持っている者は、さらに持つ。
「だから俺の見た真実を、俺の舌が語ったって? それだとたくさんの真実があるように聞こえるけど」
「真実は一つだが、見た者の数だけ姿を変えるのさ。知っているだろう?」
「メガネかけた小学生探偵の、関係者が言いそうなセリフだな」
眉をしかめて俺は、自分の見た夢と、黒妖犬の様子を思い出そうとした。
「うん。たぶんあいつ、つかまってる」
「つかまっている? 誰が? 何に?」
アーサーが尋ねる。俺は首をひねった。
「そこまでわからない。でもあいつ、つかまったんだと思う。それが違和感だったんだ」
俺は言った。なぜこうも確信が持てるのかわからなかった。同時に、自分が何を言っているのか理解できなかった。それでもこれが正しいと、どこかで思っていた。
「あの黒妖犬は、何かをつかまえて。その何かに逆に囚われた。だからアーサーを狙った」
「ぼく?」
目を丸くする少年に向けて、俺は手を伸ばした。頭をなでると、唇から言葉がこぼれでた。
「『あのものは、遠くおまえに関わるもの』」
「ぼくの?」
「たぶんね……トリスタンが言ったように、君のお父さんか、お母さんの家に関係しているんだと思う」
俺の舌が語る、予期せぬ内容をつなぎあわせて、あの黒妖犬はアーサーの父方か母方の血筋に関係している、とどうにか結論づけた。
「そういう事も、わかるんですか」
「わからないよ。でも舌がそう言う」
俺は答えて、榛を見上げた。
「変な感じだ。方程式を解こうとしたら、先に答がわかってしまったみたいな。それが正解だとわかる。でも、途中が説明できない」
「そういうものですか?」
「ああ。良くわかるような、もどかしいような」
ため息をついてから、俺はアーサーを見た。
「あれはたぶん、君に何かを求めている。俺にも」
「何を?」
「『それはあのものにすら、わからぬものとなっている』。自分で自分が何を望んでいるのか、もうわからない状態みたいだね。それでも君の血筋に何か関係があって、『あれは運ぶ。あれは求める』……うーん。何かを助けて欲しいのじゃないかな……」
「助けるって……でも。触られると死ぬのに」
困った顔のアーサーに、「そうだな」と相槌を打った。
「本当に、何なんだろうなあ。というか、あれは誰なんだ?」
俺はつぶやいた。
「だれ?」
「うん。何、じゃなくて、誰、だと思う」
すらすらと、舌が動く。思考よりも先に。それが不安な思いを内に生む。
正解だとわかる。これが正解だ。でも。
「そうだ。何、じゃない。誰、だ」
「言っている事が良くわかりません……」
「俺にも良く……つまり。『あの黒妖犬は、内側に何かを持っている』」
慣れない。この感じ。自分の内側に、自分の知らない何かがあり、舌がそれに呼応して動く。俺の意志を無視して勝手に。それがひどく……慣れない。不安を覚える。何かが違うと、違和感を俺の中に溜めてゆく。
そして……怖い。そう。俺は恐怖している。この感覚に。
舌が勝手に動く。それだけで、自分が自分でなくなってゆくような気がする……。
「……」
言葉を押しとどめようとして、待て、と思う。
止めて良いのか。
「タカシ?」
沈黙した俺を、アーサーが見上げる。小さな体。まだ九歳だ。
意外としたたかな所もある。強がりも言う。賢い所も見せる。男の子だなあと感心する所もある。
でもまだ九歳だ。
ふう、と息をつく。俺はどうすれば良い?
「タカシ?」
うつむいた俺を、アーサーは心配そうに見上げた。
「大丈夫ですか? どこか痛くした?」
子どもの手が俺に伸ばされる。そっと腕に触れてくる。
「ぼく、平気ですよ。男の子だし。がんばれます。タカシ、少し休みますか……?」
何気づかわれてるんだ、俺。二十歳なのに。大人だろう。なのに、こんな子どもに。
「タカシ?」
わけがわからない内に巻き込まれて。死にそうな目に合わされて。怖いだろうに。アーサーは、俺を気づかって声をかけてくる。
「大丈夫だ、アーサー」
俺は膝をつくと、彼を抱き寄せた。
「あっ!」
「おや」
ケルピーとトリスタンが声を上げたのが聞こえた。でも構わなかった。
「え? あの、タカシ」
「ちょっとこうしてて」
子どもの体をそっと抱きしめる。小さい。少し高い体温を感じた。ああ。生きた人間だ。
生きている、人間の子どもだ。
小さな命。そう言うとアーサーは憤慨するかもしれないが。彼の体は俺の腕にすっぽり収まって、子ども特有の少し高い体温で、大人びた言動を取っていても彼が子どもだという事を俺に伝えていた。
なに怯えてるんだ、俺。しっかりしろ。
勝手に動く舌は怖い。俺のもののはずなのに、俺のものじゃなくなったみたいで。俺の意志を無視されたように感じる。自分以外の何かに支配されている気がする。それが嫌だ。それが怖い。
だが、それがなんだ。
それが、何だって言うんだ。
今、必要なのは。アーサーを助ける力。それが最優先だ。それが一番、重要だ。
俺の恐怖心じゃない。
「『あれはそれを捕らえた。だが同時にそれに囚われた。囚われたそれが助けを求め、捕らえたあれも助けを求めている』」
思考がクリアになる。言葉があふれる。舌がなめらかに動き出す。それを止める事なく、解放してやる。
「『螺旋の夢。時の輪は輝いて踊る。描かれる輪は、終わりなく続く。それは光。それは闇。それは命。それは死。捕らえたものは囚われ、囚われたものは捕らえ、輪は歪み、歌は歪んだ』
次々とこぼれ落ちる。
「『解放を求め、囚われ続ける事を求め』」
祝福とは、何なのか。俺は、何を与えられたのか。
「『生を求め、死を求め、光を求め、闇を求める。それは何か。何者か』」
けれど。
この何かは、俺が本来持っていたものだ。
「『何者か』」
祝福はそれを、わかりやすい形で表面に出しただけ。
必要だったのは、正確に状況を把握する力。洞察力と、筋道を立てられる思考能力。そして。
俺が持っている、持っていると言われている、『真実を見抜く目』とやらを、恐怖を抱かずに使いこなせるだけの気力と胆力。
「『何者か』」
それが知恵となる。
舌が止まり、俺は目を閉じた。アーサーの体を抱きしめる。
「相反する願いを抱き、生と死を併せ持つもの。矛盾をはらんで存在するもの。……『人間』、だ」
これが、正解。
「あの黒妖犬は、……人間の魂を内に抱えている」