4.
風がささやいたような声。俺は周囲を見回し、首をかしげ。ふと思いついて、榛の木に目をやった。
「……」
立ち上がる。木の幹に手を触れると、手の下で木肌が動いた気がした。
(何か……、いる)
榛の妖精か?
「キスしてって言ったの、おまえ?」
ささやいてみたが、反応がない。逡巡したが、ま、良いかと思って、幹を軽く抱きしめて、キスしてみた。
何も起こらない。
馬鹿な事やっちゃったかな、と思いつつ、離れようとしたその時。
ざわっ……。
いきなり葉が、風もないのにざわめいた。慌てて上を見上げる。すると腕が伸びてきた。あれ?
「えうっ??」
「タカシ!」
「ああっ?」
「きさま木のくせして、何しやがるーっ!」
俺は木に抱きつくような格好で、拘束されていた。榛の木から伸びてきた腕に。すんなりとした、淡く緑に染まる腕。長い髪の、人に似た姿の誰かが、幹から上半身を現して……、
唇を。
思い切り、吸われた。
口の中に何かが入ってくる。ちょっと待て。
「んんんんんっ!」
なんでディープキス。いきなりディープキス。じたばたしていると、唇が離れた。何するんだと、きっと睨み付けると、繊細な容貌の樹木の精霊が、微笑んだ。
……胸、ばいーんな美女。
「タカシ! 無事かっ?」
「タカシ、こっちへ……」
「切り倒してやろうか、この女あ!」
ぎゃーぎゃーわめいている三人そっちのけで、俺は呆然と彼女を見つめた。あー。えー。
ぽよ〜ん、な、感触が。密着している胸に。あの。
……ちょっと今日はラッキーな日かも……。
真っ赤になった俺ににっこりと微笑みかけると、榛の美女は、するすると木の中に入ってしまった。あれ?
口の中に何か残っている気がして、首をひねっていると、ぽとりと何かが落ちてきた。拾い上げると、ドングリに似た実が一つ。
えーと。だから、何なんだ?
「こっちへ! 油断も隙もない!」
トリスタンが俺の腕をがしっとつかみ、ずるずる引きずって榛の木から引き離す。
「タ、タカシ……気を落とさないで……タカシの意志じゃなかったんだから……」
なぜかおろおろしながら、俺をなぐさめるアーサー。いや、別に気落ちしてたりはしないけど。
「倒す! この木、倒す!」
歯をがちがちさせながら、怒り狂っているケルピー。半分本性に戻りかけている。ちょっと怖いよ、その長くなってる顔!
「すぐに消毒しよう」
がし! と俺の顔を掴むと仰向かせるトリスタン。そのままキスしようとしたのを俺は、慌てて押し退けた。
「待てコラ。どさくさに紛れて何する」
「消毒に決まっているだろう」
「しなくて良いから。むしろ歓迎だから、女性とのキスは」
トリスタンの顎に手をかけてぎりぎり押し上げながら言うと、ケルピーが「あんな女が良いのかあっ?」と叫んだ。
「タカシ! 俺、髪伸ばすから! そしたらちゅーして良いかっ?」
「髪の長さの問題じゃないからっ!」
なんだか疲れてきた。
「ちょっ、離れろよトリスタン……『丘のあるじ、りんごの木の祝福を司るもの、剣持つ詩人よ』」
いきなり勝手に口が動いて、俺は目を丸くした。トリスタンが、おやという顔をした。
「え、なにこれ……」
「知恵の木から、祝福を受けたな」
トリスタンは俺を見つめてから言った。
「祝福?」
「おそらく、舌に」
あ。ディープキス。
「さほど強いものではない……おそらくは一時的なものだろうが」
「祝福って、ずっと続く方が良いのじゃ?」
アーサーが不思議そうな顔で言う。トリスタンは肩をすくめた。
「人間には合わない事もある。舌を見せろ、タカシ」
何か妙な気がしたが、あー、と口を開けるとトリスタンは俺の頬をつかみ、しげしげとのぞきこんだ。
「『真実の呪文』だな、これは」
「ひゃにひょえ」
頬をつかまれているので、明瞭な発音ができない。
「『正直トマス』にかけられた呪文に似たものだ。真実しか口にできないという。人間には大変なのではないかね?」
わあ。
俺はちょっと考えた。真実しか口にできない俺。
レポートの提出が遅れた言い訳にあっさりと、『遊んでたので間に合いませんでしたー』と言ってしまう俺。
ムカつくバイト先の上司に思い切り、『俺今、あんたにムカついてるんですよねー』と言ってしまう俺。
仲の良い友人に、『おまえって、こういう所がダメだよなー』といつでもどこでも、べらべらしゃべってしまう俺。
日常生活が送れません。単位落とします。バイト首になります。友人をなくします。確実に。
「なな、なんでそんな……人間の中で暮らせないよ。どうしよう」
するとトリスタンが、「こちらで暮らせば良いのでは?」とあっさり言った。
「いや、だって俺、『人間だ……けど四分の一はよう、』」
そこで慌てて口を抑えた。考えてる事ダダ漏れになっちゃうんですか、ひょっとして? 秘密とか言いたくない事とかも全部?
俺に何の恨みがあったんだ、榛の妖精〜!
「タカシ?」
アーサーが俺の袖を引く。俺は彼を見下ろした。
「ああ、だいじょう……『猛き獣の名を持つ王、その名を継いだ、遠く妖精の血を引く幼子。ほとんどは人間だが、揺らぎやすい境界線上に存在するもの』」
……。
止まってくれ、俺の舌。
「それってどういう?」
「『おまえは妖精の血を引くがゆえに、境界線上に存在する妖精の世界に足を踏み入れやすく、揺らぎやすい。人間である自覚を持たねば、たやすく流され、染まってしまうだろう』……俺に質問しないでくれ、アーサー。舌が勝手に動く」
「はいはいはい! タカシは俺の事どう思ってるんですかっ!」
そこで元気良くケルピーが言う。どうって。
「『水属性の妖精。アンシーリーコート。他者の命を喰らう存在であるのに、人間を食べないと約束した変わり種。言葉や仕種が妙にエロい。言動が時々乙女になる。脳味噌が筋肉』」
ぶふっ、と噴き出す音がした。トリスタンが笑っている。
「の、のーみそがきんにく?」
「『たまに可愛いと思う』」
つるっと口から出た言葉に慌てた。ケルピーが喜色満面になって俺に飛びかかってくる。
「タカシ〜!」
「ばか、まだ印が!」
ばちばちばちばちっ!
ケルピーはまた、黒こげになった。……おまえ、本当に筋肉しかないのか、頭の中……。
ケルピーがどんどん、お馬鹿さんになってる気がします。しかしタフだ……。
ケイト・クラッカーナッツは、スコットランドの方の伝承です。この伝承を元にして、キャサリン・M・ブリッグズが「魔女とふたりのケイト」という児童文学を書いています。
フィン・マックールの話はいろいろあります。知恵の鮭は「食べてはいけない」と言われていたのに、ついうっかり(?)、火傷したはずみに、親指に垂れた油を口にしてしまい。知恵と洞察力がそなわった、らしい。以来考え事する時には、親指を口に入れるようになったとか。その頃には結構な美少年、もしくは美青年(?)だったらしいんですが(フィンはあだ名で、美しい、という意味がある)。いい年したおっさんになってからもそうだったと考えると、……うーん……。