3.
「それで、あの黒妖犬だけど」
話を戻すと、地面にしゃがみ込んで拗ねていたケルピーが、顔をあげた。
「あれがー?」
「まだ拗ねてるのか」
「だってタカシ、ひどい……」
そう言うと、ケルピーは地面を指でつついた。
「拳が炎に包まれていたように見えました……すごく男らしいです、タカシ」
感嘆したようにアーサーが言う。拳が炎って、なんの漫画。俺その内、銀河を背にして戦ったりするんですか。
「こんな馬は、見捨てた方が良いのではないかね」
嫌そうにトリスタンが言う。
「いや、まあ。俺もちょっと悪かったって言うか、過敏に反応しちゃったし。拗ねるなよ、ケルピー」
「だってタカシに触れないし。側にいるのに触れないし」
ぶつぶつ言いながら地面に何か書いている。そっちか? 拗ねてる原因。
「ケルピー。おまえの意見が聞きたいんだよ」
俺は彼の前に膝をつくと、言った。
「アンシーリーコートについては、おまえが詳しい。協力してくれ。頼む」
「うん」
あっさりうなずいた。あれ? 拗ねてたんじゃ?
「何でも協力する。だから、ヒザマクラをさせてくれ」
……。……。……。
「おまえ、俺に触れないだろ」
「印が外れたらで良い! 陰険騎士ばっかりずるい!」
「なに対抗意識燃やして……ああ、もう。いいよ。これ、外れたら膝枕させてやるから! でも一回だけだぞ!」
承諾すると、目をきらきらさせて喜んだ。子どもか、こいつは。
「タカシ。良ければその馬を永遠に黙らせるが」
トリスタンが言う。俺はそちらを見た。
「いいよ、膝枕ぐらい。もたれるのと変わらないし」
「いっぱいなでてやるからな、タカシ!」
「……なで……?」
「本当に良いんですか、タカシ?」
アーサーが言う。ちょっと不安になった。
「なでなくて良いから、ケルピー。おまえを枕にしてもたれるだけ。それだけだから」
「そいつは、いっぱいなでてたぞ?」
ケルピーがトリスタンを示す。俺が妖精の騎士に目をやると、彼はにっこりした。
「日本の文化だよ」
「だからそれ違うって……」
俺が意識なくしている間にこの男、どれだけ触りまくってたんだろう。
「髪をなでてたぐらいです。変な事はしていません。ぼく、注意して見てましたから」
アーサーが言った。ありがとう、アーサー。俺の心の拠り所は今、君だけだ。
「話、戻すぞ。ケルピー。あの黒妖犬、間近で見てどう思った? 何か変じゃなかったか?」
無理やり話を戻すと、ケルピーは首をかしげた。
「倒す相手を、あれこれ見たりしないしなあ」
「戦う相手は、観察するものじゃないのか、普通」
「だって俺強いし」
「ああそう」
駄目だ。前からそうじゃないかと思ってたけど、こいつ、脳味噌筋肉のタイプだ。
「タカシは、……どこか変だと思ったんですね」
アーサーが言った。
「うん。見ていたら、何か……」
俺は眉をしかめた。
「他の黒妖犬をじっくり見たことがないから、わからないんだけれど……あいつの中に、何かあるように見えた。何か、違和感が」
「違和感」
トリスタンが繰り返した。
「そうだな。それは私も感じていた」
「トリスタンも?」
「私自身とあまりにも違う存在なので、あまり直視したくなかったのだがね。確かに妙なものは感じた。ああいうものかと思っていたが……」
考え込む。
「そうだな。あれは、違和感と言うべきだろう」
「何かあるように俺は感じた。あいつの奥って言うのか……底に沈んでいる辺り? に」
「そうかもしれないね」
トリスタンは、ふむ。と言ってから、俺を見た。
「どうするね」
「どうと言われても。よく観察する暇なかったし……」
「そうか? 君の目は、真実を見抜くはずだ。一目で充分なはずだろう」
「そんな事言われても……」
母、江利子と同じく、俺には『真実を見抜く目』とやらがあるらしい。
妖精たちにとってそれは、畏怖と執着の対象になるらしかった。妖精たちはまやかしの魔法を使う。しかしそれは、俺や母には効果がない。
そこに何があるのか、俺たちには『見えて』しまうからだ。
それは時に、妖精の本質を見抜く力にもなった。それが妖精たちには恐ろしい。
母もそうだが、俺は小さいころ、何度も危険な目に会った。ケルピーのように喰おうとするのならまだわかるが、拉致したり監禁したり、果ては魂だけの方が扱いやすいと、肉体を破滅に導かれそうに(つまりは殺されそうに)なったりした。妖精たちの言う、愛情から。
ただ俺たちの能力は、そこに何があるのかわかるだけなので、なんでこれが騒ぎの元になるのか、俺にはさっぱりわからない。
「君も少し、混乱しているようだね。頭を冷やして落ち着いたら、見えてくるものもあるのではないか?」
トリスタンが言った。
「なんだか、協力的になってるな?」
「あれは、君を狙った」
彼は顔をしかめた。
「そこの人間の子どもを狙っているだけなら、放っておく事もできた。その子どもが人間の世界に戻って、その後にあの黒妖犬が追いかけていったとしても、私には何の関わりもない事だからね。だが、あれは君を目標に定めた。これでは放っておけない」
アーサーが人間の世界に戻った後に襲われて死んでも、放っておくつもりだったのか……しかも本人の前で言ってるよ……。
「とりあえず、私の膝は空いているよ」
「だからなんで膝……おまえ、何こだわってるの」
がっくりと肩を落すと、ケルピーが、「俺にもヒザマクラさせろ!」とわめいた。
「あー、もう。ちょっと静かにしてくれないか。考えまとめるから」
そう言って立ち上がると、二人は黙った。
近くにあった木の下に行き、幹の下に座り込む。黒妖犬の姿を思い出そうとする。滲む黒い影。あの奥に俺は、何を見た?
「榛か」
トリスタンがつぶやいた。俺はふと、顔を上げた。
緑の濃い、西洋榛。
「ヘーゼルナッツ……クラッカーナッツとも言ったっけ」
「ケイト・クラッカーナッツの話、ぼく聞いた事ありますよ」
アーサーが近寄ってきて、にこりとした。
「悪い魔女や妖精と戦って、王子を解放する女の子です。榛は悪い魔法を打ち破る実、なんですよね」
スコットランドの伝承だ。ふと、『タイニー・ケイティ』を思い出した。そうか。あのイギリス人作家、ケイト・クラッカーナッツの話を念頭において書いたのかもな。
「知恵を与える実だ」
トリスタンが静かに言った。
「コンラの泉には九本の榛が生え、知恵の鮭はその実を食べていた。フィネガスの教えを請いに来た、クールの息子ディムナ・フィン(ディムナ・フィン・マックール)は、鮭を焼いて、親指に垂れた汁をなめる事で、物事を見抜く力を得た」
「知恵……」
見上げると、葉の間に実がなっているのが見えた。さすが妖精郷。季節感、無視。
りんごの木も、花盛りのものもあれば、実がなっているものもある。花もベリーも同時に野原を彩っている。緑の葉と熟しているらしい実を同時につけた榛の木に、あれって皮をむいて炒ったらうまいんだよな、と思った。
一見ドングリだが、中身はチョコレートやお菓子に良く入っているヘーゼルナッツ。
「食べたら、頭すっきりするかな」
思わずつぶやくと、聞きとがめたアーサーが、「ここで出された食べ物は、口にしちゃ駄目なんじゃなかったですか?」と言った。
「そうか。そうだっけ。でもこれって……うーん。どうなんだろ。ああ、でも、知恵を得るには、この実を食べたマスか鮭を食べないと駄目なんだった」
ころんとした感じの実を見上げ、俺は言った。
「でも……知恵が欲しいよ。俺の中で、まとまらずにぐるぐるしている考えを、すっきりさせたいよ。もどかしい……」
口づけを。
不意に、そんな声を聞いた気がした。
「ん?」
口づけを。人の血を引く幼子よ。