1.
黒妖犬はさっきより、さらに大きくなっていた。
「あ、」
アーサーが息を飲んで、立ちすくむ。青ざめて動けない。
「アーサ……っ」
飛び出そうとした俺は、けれど。トリスタンの腕一本で動けなくされた。どこまで腕力強いんだ、この男!
「ケルピー! アーサーを」
少し離れた所にいる男に目をやると、面倒くさそうな顔をされた。
「俺、おまえ以外の人間の為に動くの、ヤなんだよ」
「アーサーを助けてくれるおまえは、カッコイイと思う!」
「すぐ助けるから待ってろ」
きりっとした顔になると駆け出す。
「私は格好良くはないのかね?」
ほっとしていたら、トリスタンが言った。ええっと。
「離してくれよ」
「離したら君は無茶をするだろう」
「無茶をしているつもりはない! 結果的に無茶になってるかもだけど」
堂々と言うと、呆れた顔をされた。
ケルピーは、すっ、と体を低くすると、一瞬で馬に変化した。地面を蹴ると黒妖犬をあっさり飛び越える。アーサーの前に着地すると、少年を背後に庇って立つ。
「よう。しつこいんだよ、おまえ」
そう言うと、彼は蹄で地面をかっ、かっ、と掻いた。
「やるってんなら相手するぜ? さっきは結局、勝負つかなかったしなあっ」
黒妖犬は燃える目をぎらつかせ、うなった。体勢を低くして、飛びかかろうとでもいうような姿で、ケルピーとアーサーを睨み据える。
俺はトリスタンの腕から何とか抜け出すと、一歩、前に出た。その時、
何かが。
犬の形をしている相手の中の、何かが。
滲み出る黒い陰りが、霧のように見えて。その奥にある何かに、引っかかった。これは。
なんだ……?
ぐをるるるるるるるっ
黒妖犬はうなると、ケルピーに向かって走った。水棲馬はぐうっと身を屈めると、飛びかかる準備をした。
俺はもう一歩、前に出て……、
「タカシ!」
アーサーの叫ぶ声。気づいた時には目の前に黒妖犬が迫っていた。えっ、どうして? と思う間もなく、らんらんと燃える炎の目が、俺をのぞきこんでいた。ぐわっと開いた口の中に、ずらりと並んだ牙が見えた。
ばちいっ!
火花が散った。その後は……、
暗転。
『終わりのない、輪が描かれる』
そんな声がした。柔らかく、明るい。光が差し込むような声。
『螺旋の夢。時の輪は輝いて踊る』
『囚人は、解放される事がない』
きしむような声がした。
『妖精の輪に踏み込んだ者は。永劫の囚われ人となる』
明るい光が揺れた。
『輪が描かれる……終わりなく続く。喜びは輝いて、地に満ちる』
黒い影が揺れた。
『輝きは闇に墜ちる。輝ける者よ。おまえも闇に墜ちる』
『我は命を歌う。安らぎと喜び、熱と光。それが我』
『俺は死を運ぶ。憎しみ、恐れ、冷たさと闇。それが俺だ』
光と影が、ゆらゆらと揺れている。互いに向かい合い、問答をしている。
『そなたは囚われているのか。何をもって囚われたと言うのか』
『俺は死を運ぶ。ただそれだけ。そうしておまえを闇に墜とす』
『はるか彼方の血族よ。そなたはどこにいるのか』
『俺は囚われ人。俺は憎む。俺は恐れる。そして恐れられる』
『そなたをとらえる鎖はどこにある。そなたを閉ざす檻はどこに』
『俺は死を運ぶもの。存在を壊す憎しみ』
向かい合う光と影。揺れる存在の輝き。
『そなたは何者か』
『俺は穢れ』
『そなたは何者か』
『俺は死を運ぶ』
『そなたは何者か』
『俺は破壊そのもの』
そうじゃない。ふと、そう思った。
影の中に見えるものは。
『そなたは何者か』
……あれは。何。
いきなり覚醒した。目を開けると、アーサーが泣きそうな顔でのぞきこんでいた。
「タカシ! 良かったあ……」
ほっとしたように言われ、まばたく。
「あれ? おれ……」
「倒れたんですっ。黒妖犬に襲われて。死んじゃったかと思った……」
「力のない守りをつけるわけがないだろう。この私が」
トリスタンの声がした。なぜか近くから。あれ?
手が髪をなで下ろして……ええっと? すみません。頭の下にやたらと弾力のあるものが。何が。何が起きてるんでしょうか、俺に。
視線をさまよわせると、少し離れた所にケルピーがいて、おあずけをくらった犬みたいな顔で、うーうーうなっていた。
「うらやましい……俺もやりたい……」
何を。
「タカシ? まだ意識が?」
「ええと……俺、今、何が」
そこで硬直する。上からのぞき込まれて。
「君は、黒妖犬と接触したのだよ。ただ、私の守りがあったからね。あれは弾かれて、君に触れる事ができなかった」
「……トリスタン」
近々と、彼の顔が。ついでに俺の頬の辺りに感じるのは。布地……なぜ布地。布地の向こうにあるのはひょっとして。
「何だね」
「尋ねてはいけない気もしますが、……俺の頭の下にあるのは何でしょうか」
「私の足に決まっているだろう?」
足。足なんだ。それって。
「ヒザマクラ……」
この弾力は、たぶん筋肉。
頬に触れているのはトリスタンの腹。さすが騎士。鍛えているらしくて、布地の向こうにあるのは固い筋肉の感触。割れてるんだろうなあ、こいつの腹。すごいよなー、騎士だもんなー、うん割れてる割れてる。……思わず現実逃避した。
「日本の文化にあったよね。愛する相手の為に足を枕にして、撫でてあげるというのが。君をそのまま地面に横たえるのには、忍びなかったからね」
にっこり笑顔で言われた。ええと。でも。その。
「初膝枕が男……」
何か色々ダメージを受けた。俺だってそれなりに、夢とか希望とかあったんですよ。そりゃ膝枕をしてほしいなんて、そうそう言えないですけどね? でも男にされるより、女の子にしてもらいたいじゃないですか? 筋肉よりは脂肪の方が、ありがたいって言うか! 脂肪って言ったら女の子に殴られるかもだけど、でも男としては脂肪の方が! 柔らかい方が!
「ううう〜俺も。俺もやりたい〜」
ケルピーがうなっている。やってどうするんだ! 俺のダメージを増やすつもりかっ!?
「どうかしたの、タカシ?」
「なんで止めてくれなかったんだ、アーサー……」
「えっ、ええと? トリスタンさんが日本の文化だって……足に乗せるには、筋力とか耐久力とか必要みたいだったし? ぼくだと子どもだから、うまく頭が乗らないかなって」
何だまされてるんですか。
起きようともがくと、トリスタンがぐい、と体を押さえつけた。
「ちょっ、おい」
「駄目だよ。もう少し、ね?」
「何がもう少し……起きる! 起きるから!」
じたばたすると、残念そうな顔をされた。トリスタンの腕が離れると同時に、転がり落ちるようにして彼から離れる。
「タカシ!?」
慌てた様子でアーサーが手を伸ばすのに、ありがたくつかまって、俺は上体を起こした。
青い空。緑の野原。花の香り。岩肌に輝く水晶や貴石。そこここにきらめく小さな虹。りんりんと響く小川の流れる音。
穏やかなそこには、憂いは一つも見当たらない。
黒妖犬はいない……どこにも。
「眠っている君は、素直で愛らしかったのに……」
残念そうに、トリスタンが言った。二十歳過ぎた男が愛らしいわけないだろうっ。
「意識のない状態で、反抗的な人間がいるか」
いたら怖い。
「その内、君を眠らせて連れて行こう。綺麗に飾って、毎日愛をささやいてあげるよ」
「心の底から辞退します」
ぶんぶん首を振って言うと、ふふふ、と笑われた。
「タカシ。俺も。俺もやりたい! ヒザマクラ! していいかっ」
ケルピーがわめく。
「してどうするんだっ。膝枕は普通、女性が男性にするものだ!」
「そうなんですか?」
アーサーが首をかしげる。
「頭って重いですよ。女性に重いものを乗せて負担をかけるよりも、男性が請け負ってあげた方が良くありませんか? 女性にそんな事を強いるのは、少しひどいと思います」
「え、いや……そう? 頭……って重い?」
考え込んでしまう。
「ええと……いや。そんなに長くはしないって言うか。あれ? どうなんだろう」
そんなに知識があるわけではないので、良くわからない。女性にしてもらう膝枕って、ひどいのか?
「男性は、女性を受け止めるだけの力強さがあります。体格も骨格も、男女では全く違っている。男性側が、女性の体重を受け止めてあげるべきです」
きっぱり言われた。……そうだな。アングロサクソン系の人種では、男女の体格差、すごいもんな。いや、ちょっと待て。
「それだと、俺がこいつに膝枕されてた理由がなくなるんですけど……?」
トリスタンを示す。白い妖精の騎士はにっこりした。
「愛する者の頭を膝の上に置いて、弛緩するまで愛撫するのが日本の文化だろう? 警戒心をなくし、安心しきって眠る相手を眺めるのは楽しいと思うね」
「おまえの日本文化の解釈は間違ってるから! 何かものすごーく違うから!」
「間違ってるんですか?」
きょとんとした顔でアーサーに言われ、脱力した。
「いや、えーと、まあ。警戒心……はないだろうね。恋人同士でやるもんだから、……でも普通は、男女でやるもんですよ……」
「そうなの?」
「そうです」
一応、そう言っておく。