2.
四人全員で、ぞろぞろと歩く。ケルピーが知っている、人間世界と妖精郷との接点に、ともかく向かおうという事になったのだ。
なだらかな緑の丘。穏やかな甘い空気。花々が咲き乱れ、水晶や貴石が光を浴びて虹を作り出し、小川は鈴が鳴るような音を立てて流れている。
美しい場所。美しい風景。
そんな中で俺たちの所だけ、不穏な空気が渦巻いていた。
「とっととどこかに行ったらどうかね、馬妖精。彼の身は私が守る。おまえのように薄汚い馬の手は、必要ない」
「けっ。手出しする気満々の癖しやがって。おまえの指図は受けねえよ、色魔騎士。タカシは俺のだ。俺が守ってやるんだからな」
「はっ。馬には知恵らしきものが宿る頭もないのか。私と共に暮らすのが彼にとっては一番良いと、なぜわからない」
「タカシは嫌がってるじゃねえか。魅了使ってる時点で丸わかりだろ、おまえとは行きたくないってさ。大体、使うって事自体、自信のなさの現れだよなあ」
……ずっと、こういう会話が続いている。俺の背後で。
「貴様のようなものが側にいると、彼の目が穢れる。身の程を知ってどこかへ行け」
「おまえみたいのが側にいたら、タカシが泣く事になるのはわかりきってるだろうがよ。こいつの意志を無視して、支配する気満々のくせして、大きな口たたくな」
「私が彼を、泣かせるわけがないだろう。何よりも大切にして、宝石のように磨き上げ、昼も夜も私の腕の中で、宝物のように扱うさ」
「タカシの魂は、閉じ込められたら窒息しちまわあ。好きなとこ駆け回るのが綺麗なんだよ。俺と一緒に野山を走る方が好きに決まってら」
黒妖犬と出くわすのと、どっちが怖くないかなー、と意識が現実逃避しかけた。ひょっとしたら、黒妖犬も逃げるかもしれない。それほど不穏な空気が、俺の背後からびしばし漂ってくる。
アーサーが、つかんでいた俺の腕をそっと引いた。
「もてますね、タカシ」
「もててるのか、この状況。どっちも男だぞ」
「嫌われるよりは、良いのじゃないでしょうか」
「俺は、友情の範囲内の好意が欲しかったよ……」
背後での会話は続いている。
「絹でその身を包み込み、黄金や真珠、水晶で飾る事が、貴様にできるか。貴様にできるのはせいぜい、生肉を差し出すぐらいだろう。それぐらいが関の山だ」
「風を切って走り、大地に眠る楽しさを知らねえのか。俺はタカシを背に乗せてどこへだって行けるし、走れるさ。必要なモンは、その辺の妖精を脅して手に入れるしな」
「盗品で、彼の歓心を買おうと言うのか。下賤な妖精の考えつきそうな事だ」
「宝石でご機嫌取ろうとしてる奴が、何言いやがる。俺のタカシは、そんなもんに惑わされたりしねえんだよ」
「誰が貴様のものだ!」
「へっ。おまえのじゃないのは確かだな」
聞いていると精神衛生上、良くない。ものすごく良くない。俺は内容をできる限り耳から遮断して、アーサーとの会話に集中する事にした。
「アーサー。君の家族の事だけど。古い家系じゃないの?」
「え? ああ、そうですね。父の方も母の方も、古いと思います」
「妖精の話とか、伝わってない?」
「うーん……それが。母は割と夢見がちな人で、そういう話も聞きましたが……でもあくまでも、普通のおとぎ話でした。黒い犬の話、なんてのはなかったな」
俺は、ちょっと考え込んだ。アーサーは知らないが、トリスタンの言う通りなら(そして彼はこういう事では間違わない)、彼は妖精の血を引いている。そういう家系の子どもだ。
あの黒妖犬はそうして普通ではないとも、トリスタンは言った。
知らずに契約を破ってしまったのか。それともそんなものは何もなくて、単に偶然で。アーサーの運が悪かっただけなのか。
……けれど。偶然、という事はこの世にはない。
『覚えておいで、隆志。この世では、どんなにつまらなく見える事でも。どんな小さな事でも。全てがつながり、完全を作り出しているのだよ』
じいちゃんは、そう言っていた。
『偶然はない。運命は全て見えぬ糸でつながり、そうしておまえの前に現れる。私はノーラと出会ってから、そう思うようになった。全ては、そこにある。ただ私たちが気づかないだけで』
温かい手で、俺の頭を撫でてくれた。あれは何をしていた時だったか。じいちゃんと並んで西瓜を食べた。夏の終わり。蚊取り線香の煙が漂っていた。その時じいちゃんが、ぽつりと言ったのだ。
『真実を見る目を、江利子もおまえも持っている。望むと望まざるとに関わらず。それは、おまえたちの持つものであり、決して目をそらしてはいけないものだ。だから、隆志。良く見なさい。良く考えなさい。そうして経験を積みなさい。いつかおまえが迷った時。魂が悲しみを、苦しみを抱える時。あるいは愛がおまえの魂を満たす時に。それらはおまえの前に現れる。全て』
『意味わかんないよ』
『わからなくても良い。それが人としての、おまえの在り方になるのだよ。……覚えて、考えていてくれ。そうしたらいつか、おまえの大切な誰かを助ける事ができるかもしれない』
『そうなの?』
『そうだよ』
じいちゃんは、妖精よりも世界がわかっていたのではないか、と思う事がある。妖精の見える俺や母さんよりも、はるかに世界を理解し、また妖精たちの事も理解していたのでは、と。
幼い時に両親が離婚して、父親と別居してしまった俺にとって、じいちゃんはずっと父親のようなものだった。
『良く見て。良く考える。良いね? 心を豊かにして、おまえの中に真実を持ちなさい。揺るがないそれは、おまえの力になるだろう。隆志。世界はおまえの前に開かれている。そうして小さな事や、たわいのない事。意味がないとされる事を、決して見過ごすな。それは全てを現す真実につながる。それこそが人間にとっては』
「……意味がないとされるような、小さな事が。全てを現す真実につながる」
俺の言葉に、アーサーはきょとんとした顔で俺を見上げた。
「タカシ?」
「それこそが人間にとっては。その人生においては、大切な事だから……俺の祖父の言葉だ」
「良くわかりませんが……、大切な言葉のように聞こえます」
「うん。俺もまだ詳しくはわからないのさ。でも大切だと思う」
「おじいさん、何て名前の人だったんですか」
「隆史。タカは俺と同じ。高く上げる。フミは……本とか文章だな。意味は、尊敬されるべき書物、かな。そんな人だった。魂にたくさんの、大切な言葉が記されているような人だった。俺の名前の半分は、じいちゃんからもらったんだ」
「さっきの言葉、ぼくにも教えてもらえませんか? もう一度言って下さい」
「『心を豊かにして、おまえの中に真実を持て。揺るがないそれは、おまえの力になるだろう。意味がないとされるような小さな事が、全てを現す真実につながる。それこそが、人間にとっては。その人生においては、大切な事だから』」
微笑むと、アーサーは少し頬を赤くしてから繰り返した。
「心を豊かにして、おまえの中に真実を持て。揺るがないそれは、おまえの力になるだろう。意味がないとされるような小さなことが、全てを現す真実に……タカシのお祖父さんって、賢者みたいな人だったんですね」
「そうかな? ……そうかもな」
くすっと笑って俺は言った。妖精と結婚するぐらいだから、そうかもしれない。
「見かけは普通のじいさんだったよ。変な所が抜けてて、味オンチで」
「あじおんち?」
「ばあちゃんの料理はそりゃもう、壊滅的な味付けだったんだ。なのにそれを、うまいと言って食べるんだぜ。いろんな意味ですごい人だったよ。大好きだった」
アーサーは俺を見上げてから、ちょっと笑って、ぎゅっと腕にしがみついた。
「なんだ?」
「ぼくもタカシが好きです」
「そうか?」
「大好きです」
何だか可愛いなあと思ってしまって、頭をぐりぐりしてやった。
その間も背後の会話は続いている。
「おまえのようなものが近づいたら、それだけで影響が出るだろう。彼に穢れをつける気か。破壊を旨とする薄汚いものが」
「何かっつーと魅了使って、魂コレクションしてる奴らの仲間が何抜かす。手当たり次第に手出して、タラしまくるてめえらも言ってみりゃ、俺らとどっこいどっこいだろう」
不穏な空気が険悪なそれになっている。何かもう、一触即発みたいな感じが。後ろから。
やばいかなー。そろそろ止めないといけないかなー。でも振り返りたくないなー。逃げちゃいたいなーもう。
「われらを侮辱するか、馬」
「やる気なら受けて立つぜ、色魔」
剣を鞘ばしらせる音に、さすがに慌てて振り向く。
「やめろ! トリスタン。剣を戻せ。ケルピーも、挑発するんじゃない!」
剣を抜いていたトリスタンと、本性に戻りかけていたケルピーは、俺を見てから、渋々と言うふうに戦意を収めた。本当に渋々だったが。
「どうして君は、こうも慈悲深い。こんなアンシーリーコートなど、君の心を傾ける価値もないと言うのに。ここで消滅させた方が、どれだけ良いか」
「俺がタカシに、アイサレテルからに決まってんだろー、てめえと違って。俺たち、アイシアッテルから〜」
トリスタンが無言でまた剣を抜きかけ、俺は慌てて駆け寄ると、彼の手をつかまえた。
「駄目だって!」
「斬る」
「はっはー。庇われてるよ、俺。なー、タカシ、これって愛の証〜?」
「ケルピー! 挑発はやめろって言ってるだろっ!」
ケルピーは何か言いかけ、そこでふと、真顔になった。トリスタンが、いきなり俺の腕をつかんだ。
「来た」
「え……っ、あ、アーサー!」
俺は思い切り、トリスタンに庇われていた。離れた所では、一人で立ち尽くすアーサー。そうして、俺たちと彼の間に。
滲み出る、黒い影。
らんらんと光る目と、子牛ほどの大きさの。
黒妖犬。